マラカンド野戦軍の物語

 

THE STORY OF THE MALAKAND FIELD FORCE
AN EPISODE OF FRONTIER WAR

By Winston Churchil

 

マラカンド野戦軍の物語
辺境戦争における一エピソード

W・チャーチル著

 

 第二次大戦時のイギリス首相、W・チャーチルは22歳の時に現在のパキスタンに記者として従軍しました。そのときに新聞社に書き送った記事は帰国後一冊の本にまとめられました。以下はそれを当院院長が日本語に訳したものです。
 なお著作権はチャーチルの死後50年を経た2015年に切れています。文中の*は訳者注です。

 原文:https://www.gutenberg.org/files/9404/9404-h/9404-h.htm
 参考:BritishBattles.comというサイトのMalakand Field Force 1897のページに多数の写真や図、地図があります。
 文中に原書の中の図を挿入しました。引用
元:https://archive.org/details/storyofmalakandf00chur/page/n21/mode/2upNEW!
 訳者がまとめた資料です。 時系列 
 この作戦の2年前のチトラル包囲戦についてF・ヤングハズバンドと兄が書いた記事を訳したものです。THE RELIEF OF CHITRAL
 縦書きの印刷用PDFです。
 本書のエピグラフについて調べました。NEW!

 

 

 

 

THE STORY OF THE

MALAKAND

FIELD FORCE

AN EPISODE OF FRONTIER WAR

 

BY

WINSTON L. SPENCER

CHURCHILL

 

“They (Frontier Wars) are but the surf that marks the edge

and the advance of the wave of civilisation.”

LORD SALISBURY, Guildhall, 1892

 

 

 

口絵: マラカンド野戦軍指揮官、少将ビンドン・ブラッド卿

http://uedaeyeclinic.net/wp-content/uploads/2021/09/Major-General-Sir-Bindon-BloodK.C.B.Commanding-Malakand-Field-Force.jpg

 

 

 

マラカンド野戦軍の物語

辺境戦争における一エピソード

 

 

ウィンストン・L・スペンサー・チャーチル著

 

 

「それ(辺境戦争)は文明の波の先端と前進を示すところの泡にすぎない。」

ソールズベリー卿(*1830年生、英国首相)1892年、ロンドン市庁舎

 

 

 

 

 

本書をここに記録された作戦をその指揮下に行い/その統率力によって成功に導き/その厚意によって著者に人生において最も価値ある魅惑的な体験をさせてくれた少将、ビンドン・ブラッド卿 K.C.B.(*バス勲章ナイト・コマンダー)に捧げる

 

 

 

 

序文

 

「世界の公明正大さに従い、私に観客を与えよ。」

          「ジョン王」 第五幕・第2場

 

大体において私は序文というものを軽視している。もし著者が二―三百頁を費やして読者の心を捉え、対象を明らかにできないのであれば、それはおそらく五十行でも同じことだろうと常々思ってきた。しかし、昔も今も舞台裏について少しばかり語ることの誘惑はとても強く、書き手はこれに抵抗することができない。私も試みようとは思わない。

 

私はマラカンド野戦軍に所属していた時、ロンドン・デイリー・テレグラフに一連の書簡を書き送った。これらの書簡が好評を博したことに励まされ、私はさらに多くの仕事を企てた。この本はその成果である。

 

私は元の書簡をバラバラにして、自由に、適切と思われる一節、フレーズ、事実を活用することにした。それらに含まれる見解は変わっていないが、キャンプの爽快な空気の中では穏やかに見えたいくつかの意見や印象は、平時の温和な雰囲気に合わせるために修正した。

 

私は多くの勇敢な将校たちが私の取材に協力してくれたことに感謝しなければならない。彼らはみな自分の名前を出さないよう希望した。しかしその通りにすればマラカンド野戦軍の物語からその全ての最も勇敢な行動と最高の登場人物が失われてしまうだろう。

 

この本は辺境問題の複雑さを取り扱うものではない。また、その局面と特色の完全な要約を提示するものでもない。最初の章で私はインド辺境の人口が多い有力な種族の一般的特徴の説明を試みた。最後の章で、それはこのテーマにおいては記憶を当惑させ、忍耐力を疲弊させるほど巨大なものなのだが、平凡な人間の知性を膨大な量の鑑定に用いることを試みた。その他は物語である。そこではただ自分に見えたものをそのまま読者にお見せしようと思っている。

 

私はそこで起こったすべての行動と勇気の事例を本文に記すことができなかったため、付録に公式ディスパッチを付けた。(*ディスパッチ・・・通信、報告書*未訳)

 

私が帝国の大問題について党派的パンフレットを書いてイギリス国民を侮辱したのではないということを、少なくとも公平な評者は認めるだろう。いかなる人物や方針にも異議を唱えることなく、私は発生した事実と浮かんだ感想をそのままに記録したのである。実のところ私は、誰をも攻撃しないことですべての人の気分を害したのではないか、と懸念している。中立は不名誉な孤立へと堕するかもしれない。真実を見極めるための正直で偏見のない試みだけが私の唯一の防御策である。なぜなら私が常に熱望して来たのは何より読者の信用を得ることだったし、結局のところ、それが私の唯一の支えになり得るからである。

 

                ウィンストン・S・チャーチル

 

          騎兵隊兵舎にて

     バンガロール、1897年12月30日

 

目次

第一章:戦争の舞台… 1

第二章:マラカンド・キャンプ… 15

第三章:勃発… 36

第四章:マラカンドへの攻撃… 49

第五章:チャクダラの救援… 79

第六章:チャクダラの防衛… 96

第七章:スワットの門… 114

第八章:モーマンドの地への前進… 137

第九章:偵察… 160

第十章:ナワガイへの進軍… 178

第十一章:9月16日、マムンド渓谷の戦闘… 197

第十二章:イナヤット・キラにて… 216

第十三章:ナワガイ… 240

第十四章:マムンド渓谷に戻る… 253

第十五章:騎兵の仕事… 275

第十六章:降伏… 290

第十七章:軍事的観察… 306

第十八章:そして最後に・・・辺境の謎… 327

 

 

地図その他のリスト

 

口絵: マラカンド野戦軍指揮官、少将ビンドン・ブラッド卿

http://uedaeyeclinic.net/wp-content/uploads/2021/09/Major-General-Sir-Bindon-BloodK.C.B.Commanding-Malakand-Field-Force.jpg

図1. 戦争の舞台になったインド北西辺境の地図

http://uedaeyeclinic.net/wp-content/uploads/2021/09/1.Map-of-N.W.Frontier-of-Indiashowing-the-Theater-of-the-War.jpg

図2. マラカンド・キャンプのスケッチ

http://uedaeyeclinic.net/wp-content/uploads/2021/09/2.Sketch-of-the-Malakand-Camps.jpg

図3. 8月1日の騎兵隊の戦闘のラフ・スケッチ

http://uedaeyeclinic.net/wp-content/uploads/2021/09/3.Rough-Sketch-of-the-Cavalry-Action-of-1st-August.jpg

図4. マムンド渓谷のスケッチ―9月16日の戦闘計画とともに

http://uedaeyeclinic.net/wp-content/uploads/2021/09/4.Sketch-of-the-Mamund-Valley-with-Plan-of-the-Action-of-the-16th-September.jpg

図5. バジャウルでの作戦地図

http://uedaeyeclinic.net/wp-content/uploads/2021/09/5.Map-of-the-Operations-in-Bajaur.jpg

図6. 9月30日のアグラ攻撃を説明するラフ・スケッチ

http://uedaeyeclinic.net/wp-content/uploads/2021/09/6.Rough-Sketch-explanining-the-Attack-upon-Agrah30th-September.jpg

 

 

 

図1. 戦争の舞台になったインド北西辺境の地図

http://uedaeyeclinic.net/wp-content/uploads/2021/09/1.Map-of-N.W.Frontier-of-Indiashowing-the-Theater-of-the-War.jpg

 

第一章:戦争の舞台

 

ギルザイの首長は返書した:「私たちの道は狭く、険しいものです。

太陽が谷を激しく焦がし、深い谷を雪解け水が流れています/

・・・・・・・・・・・

したがって、よそ者には安心できる護衛と、勇敢な友人の誓いが欠かせません。」

             「アミール(*イスラム圏の首長)の伝言」A.ライアル卿

 

風景―動植物相―人々―彼らの武器―彼らの気質―野心的なパシュトゥーン人―イギリス人との紛争―彼らの名誉―取り柄―暗い側面―別の視点―本書の規模―その範囲―その目的

 

インドの北と北西の国境に沿ってヒマラヤが横たわっている。ヒマラヤは混沌とした時代の変動が作り出した地表の最大の障害物である。幅約四百マイル、長さ千六百マイルを超えるこの山岳地帯は南部の大平原と中央アジアのそれを分割しており、イギリスの東帝国とロシア帝国を海峡の両岸のように引き離している。この地面の混乱の西端がヒンズークシュの峰々であり、その南が本書の物語の舞台である。ヒマラヤは線ではなく、巨大な山岳地帯である。ディリ、スワット、あるいはバジャウルの高所の峠、あるいは見晴らしの良い地点に立てば、山脈に続く山脈は大西洋の大波の長いうねりのように見え、はるかに輝く雪のピークは白い波頭を頂いた一際高い大波を想わせるだろう。毎年の土砂降りの雨が丘の側面から土壌を洗い流し、無数の水路がそこに奇妙な溝を掘り、あらゆる場所に太古の黒い岩が露出するに至っている。沈泥と堆積物はその間の谷を埋めて、表面を砂だらけに、平らに、そして広々とさせた。再び雨はこの柔らかな堆積物の中に広く、深く、絶えず変化する水路を掘った/時に深さ七十フィート、幅二百から三百ヤードにもなる大きな溝である。これがヌラーである。通常、小さいものは乾燥していて、大きいものでも小川が流れているだけである/しかし、雨季には豊富な水量がすべてを飲み込んでしまう。そして数時間のうちに小川は通行不能な急流になる。そして膨張した川はのたうち回る洪水になって、渦巻いて土手を丸くくり抜き、水路を年々深く切り込むのである。

 

丘は谷の平原から急に立ち上がっている。その険しく荒削りな斜面は分厚い大岩に覆われていて、草が粗く生い茂っている。高い尾根の上にはまばらに松が生えている。水路には時折ロンドンの広場やパリの並木道のプラタナスの美しい東洋品種であるスズカケノキが見られ、快適な日陰をもたらすため感謝され、重んじられている。狭いテラスの段が丘のずっと上まで続いている。主にそれを作ったのは、既に忘れ去られて久しい人々である。それは雨が運び去ろうとする土壌を捕え、大麦とトウモロコシの収穫高を支えている。川の両岸に沿った水田は幅広く曲がりくねった鮮やかな緑地をなしており、目にとって山々のくすんだ色合いからの唯一の救いになっている。

 

実際、谷は春にはたくさんの花々で輝く―野生のチューリップ、シャクヤク、クロッカス、数種類のポリアンサス/そして果物の中ではその生産において人の手が加わっていないにもかかわらずスイカ、いくらかの小さなブドウや桑の実は素晴らしい。しかし本書に記されている遠征の期間中は夏の熱い太陽がすべての花々を焼き尽くしていた。光の中で青と緑の羽が玉虫のように色を変える、ほんの数羽の見事な蝶だけが風景の厳しさと対照的だった。

 

しかしそれでも谷は決してやせ地ではない。土壌は肥沃で、雨は豊富で、土地のかなりの部分が耕作に充てられており、住民の必要を十分に満たしている。

 

川にはマスやマーシャー(*コイ科の魚)といった魚がたくさんいる。岸辺にはコガモ、ヒドリガモ、野生のアヒル、場所によってはシギが豊富である。丘の上ではヤマウズラの一種であるイワシャコと数種類のキジが入手できる。

 

この地の野生動物の中で狩人が追いかけるのは黒や茶色のマウンテン・ベア、時折のヒョウ、マーコール(*らせん状に角がねじれたヤギ)、および数種類の野生のヤギ、ヒツジ、カモシカだろう。小さな四足動物にはウサギ、毛皮の色がずっと明るい以外イギリスの種とそっくりなアカギツネ、数種類のネズミがいて、その中にはとても興味深く希少な種もいる。美しさには乏しいが用途がなくもないセンザンコウは頻繁に見られる/しかし、すべての動物の中で最もよく見かけるのは長さ約三フィートの大トカゲの不愉快な種である。それは肌のたるんだワニのような姿をしていて、腐肉を食べている。ニワトリ、山羊、羊、牛と不可避のハゲタカ、時折のワシが動物相を完成している。

 

その全ての上にはまぶしく青い空と力強い太陽がある。これが戦争の舞台である。

 

これらの未開ながらも豊かな谷には多くの部族が住んでいるが、どれも似たような性格と境遇である。暖かい太陽と豊富な雨が肥沃な土壌にふんだんな作物を育て、多くの人々は余暇を好戦的に過ごしている。種まきと収穫の時期を除いて、土地全体に絶え間ない確執と紛争がはびこっている。部族は部族と戦う。ある谷の人々は隣の谷の人々と戦う。共同体同士の喧嘩に個人の戦闘が加わる。それぞれ郎党に支えられているカーン(*中央アジアの王族、貴族)がカーンを襲撃する。すべての部族民はその隣人に血の宿怨を抱いている。すべての男の手は他の男に、そしてすべての手は余所者に向けられている。

 

これらの闘争はまた、そうした発達段階の種族が通常持っているような武器で行われるのではない。ズールーの凶暴さにアメリカインディアンの術策とボーアの射撃が追加されるのである。その世界は「慈悲なき文明の力」というぞっとするような光景を呈する。千ヤード先の旅行者は後装式ライフルのよく狙いを定めた弾丸に撃たれて倒れる。襲撃者が近づき、南海の島民の凶暴さで彼を叩き切って殺す。石器時代の野蛮人の手に十九世紀の武器が渡っているのである。

 

男たちの間の殺人の意図を誘発するあらゆる感化、あらゆる誘因が、この山岳民族を裏切りと暴力に駆り立てる。すべての人間が受け継いでいる太古からの強い殺人性向は、これらの谷で他に類がないほどの強さと勢いで保存されている。何よりその宗教はとりわけ剣によって設立され、広められたものであって―その教義と原理には虐殺への動機が漲っており、三つの大陸で戦闘種族を生み出した―野蛮で無慈悲な狂信を鼓舞している。山岳民族の常の特徴である略奪への愛は、その目に絢爛で贅沢に見える南部の都市と平野の光景によって育まれている。昔のスペインと同じくらい堅苦しくなくはない礼儀が、コルシカのそれと同じくらい執念深いヴェンデッタ(*何代にもわたる家同士の血の報復)によって守られている。

 

そのような社会では、すべての財産は直接的に、力づくで所有される。すべての男は戦士である。彼はどこかのカーン―かつての封建領主の重騎兵のようなもの―の郎党であるか、あるいは―中世の市民にあたる―自分の村の軍隊の一人である。そのような環境において一人の野心的なパシュトゥーン人の栄枯盛衰を辿ることは容易である。前の持ち主を追い出して以来、家族が持っていた小さな土地で、最初、彼は農業家として熱意を持って倹約しながらせっせと働く。そして秘密裏に金をためる。これで彼はライフルを購入する。大胆な泥棒がその命を危険に晒して辺境の守備隊宿舎から盗んできたものである。彼は恐れられる人物になる。そして自分の家に塔を建て、周囲の村人を威圧するようになる。村人は徐々にその権威に服従するようになる。いまや彼は村を支配しているのかもしれない/しかし目指しているのはさらなる高みである。彼は地元のカーンの城への攻撃に参加するよう隣人を説得、あるいは強制する。攻撃は成功する。カーンは逃げるか殺される/城は奪取される。郎党は征服者と折り合いをつける。土地の保有は封建的である。その土地と引き換えに彼らは新しい首長に従って戦争に行く。もし彼が郎党を他のカーンが従者を扱うより悪く扱ったならば、彼らは強力な武器を他のどこかに売ってしまうだろう。彼は郎党を大切にする。他の人々も頼って来るようになる。より多くのライフルを購入する。そして二―三人の隣り合ったカーンを征服する。今や彼は権力者になった。

 

多くの、おそらくすべての国家が同様の方法で設立されたのであり、文明はその初期のこうした段階において苦しみ、よろめくのである。しかし、これらの谷ではそれ以上の発展を人々の好戦的な性格と支配に対する憎悪が阻害している。私たちは有能で、倹約家で、勇敢で、権力への道を戦い、吸収し、合併して、より複雑で相互依存的な社会の基礎を築こうとしている男を見てきた。彼はこれまでのところ成功している。しかし、その成功は今や破滅となる。彼に対抗する連合体が形づくられる。村の人々は周囲の首長とその仲間を支援している。数に圧されて野心的なパシュトゥーン人は滅ぼされる。勝者は戦利品をめぐって争い、そして物語は始まったときと同じく流血と争いの中で幕を閉じる。

 

このような生存条件の中で、当然これらの部族はその居住地を要塞化してきた。谷にある場合、それは塔と小銃の銃眼を持つ壁で守られている。丘のくぼみにある場合はその位置自体が有利である。どちらにしてもそれはよく武装し、勇敢で、絶え間ない戦争によって鍛えられた頑丈で好戦的な人々によって守られている。

 

この絶え間のない混乱状態から怪我を厭わず、命を軽んじ、不用意に軽率に戦争に乗り出すという習慣が生まれた。そしてアフガン国境の部族民が激情なしに戦い、かっとなることもなく他人を殺す光景が見られるようになる。このような気質は、あらゆる形の法と権威に対する敬意の絶対的な欠如と相まって、完全な対等の確信と相まって、イギリスの権力との頻繁ないざこざの原因になっている。ささいなことがその敵意を呼び起こす。彼らはある辺境の駐屯地に突然攻撃を加える。そして撃退される。彼らの視点において事件はこれで終わりである。自分たちが最悪の運命をたどったフェアな戦いがあっただけである。彼らを困惑させるのはサーカー(*インド政府)」がそうした小さな出来事を重く見ることである。例えばモーマンド族が辺境を渡ってシャブカドルの戦闘が起こった。彼らは政府が勝利に満足することなく、自分たちの領域に侵入し、罰を課そうとしていることに驚き、そして悲しむ。あるいはマムンド族は村を焼かれたため、第2旅団のキャンプを夜襲する。これで引き分けである。軍隊がそうした見解を受け入れないことに彼らはびっくり仰天する。

 

彼らは戦うときに互いに悪意を持っていない。そして戦闘員が仲間の屍を越えて友人になったり、祭りや競馬のために作戦を中断したりするのは珍しいことではない。抗争の終わりにはたちまち誠心誠意の関係が再び確立される。それでもこれらすべてのことがその家族のヴェンデッタと個人的な流血の確執について私が書いたことを損なわないほどに、非常に矛盾に満ちているのが彼らの性格なのである。裏切りと暴力を悪徳ではなく美徳と見なす彼らの論理は、非常に奇妙で一貫性のない名誉の規定を生み出しており、論理的な精神では理解できない。もし白人がそれを完全に把握できて、彼らの心的衝動を理解するなら―いつ彼の味方をすることが彼らの名誉であり、そしていつ裏切るのが名誉なのか/いつ彼らは彼を守るべきか、そしていつ殺すべきかをもし彼が知っていたなら―彼は、その時と機会を判断して、山の端から端までを無事に通り抜けられるだろう。しかし、これは文明化されたヨーロッパ人にはとても難しいことである。顕微鏡で水滴を覗き込んだ時に観察される、お互いを和やかにガツガツと喰らい、満足そうに貪り食われる奇妙な生物を理解できないのと同じように。

 

私はパシュトゥーン人の特性の中の好ましいものについて喜んで述べたい。それはパシュトゥーン人の終わりのない乱闘の中における、粗野な騎士道精神が命ずるところの女性の特権である。多くの砦は小さな池や泉から少し離れたところに建てられている。包囲中、攻撃側は夜間に女性が壁の基部に水を持っていくことを許す。朝に守備側は出てきてそれを―もちろん銃火の下で―取り、抵抗を続けることができる。しかし、その生活の軍事的な側面から社会的側面に目を移すなら、そこにはどんな美徳も埋め合わせることができない、より暗い影が差している。銃眼のあるむさ苦しい陋屋の、泥と無知に取り囲まれた彼女らは、人類の周縁にいる退化した種族のように見える。トラのように獰猛だが、きれい好きではない/危険ではあるが優雅ではない。理想主義者たちが通常原始的な人々のものとする、シンプルな家族の美徳には著しく欠けている。一般に彼らの妻たちと女性たちには動物のような地位しかない。彼女らは自由に売買され、ライフルと交換されることさえまれではない。彼らは真理を知らない。一つの典型的な挿話によって彼らが宣誓というものをどのように考えているかがわかる。畑の境界の論争において、双方の申立人はコーランを手に持ち、自分の土地の上だけを歩くことを誓って、自らの主張する境界線を一周する習慣がある。しかし隣人の土地の上を歩くときには誓いが偽りにならないよう、自分の畑のホコリを少し靴の底に入れておくのである。双方がそうしたペテンに精通しているため、宣誓の無様な茶番はたちまち放棄されて、力に訴えられるのが普通である。

 

すべてが悲惨な迷信に支配されている。ジアラット、すなわち神聖な墓の力は驚くべきものである。病気の子供たちは水牛の背中に乗せられて、時には六十―七十マイルも運ばれて、そうした廟の前に置かれ、そして―もし彼らが旅の途中で死ななかったなら―同じように運び戻されるのである。不幸な子供が牛の背中に揺さぶられて苦しんでいるのは想像するだけでも痛々しいことである。しかし、部族民はこの治療をどの異教徒の処方薬よりもはるかに効果的だと考えている。願いの成就を確実にするにはジアラットに行って地面に棒を置けば十分である。立派な男子の跡継ぎを得るための確かな方法は、座ってファキールがそこに縛りつけた、木にぶら下がっている石や色のついたガラス玉を振ることである。牛に良い乳を出させるには聖人の墓の近くにある気に入った石の少し漆喰を塗るべきである。これらはほんの数例である/しかし文明世界が笑うべきか泣くべきかさえわからない精神の発達状態を示すには十分だろう。

 

彼らはその迷信によって数多くの聖職者の強欲と圧制に晒されている。すなわち「ムラー」、「サヒブザダ」、「アクンザダ」、「ファキール」そしてトルコで言うところの神学生に相当する、人々を犠牲にして自由に生きる、放浪するタリブ・ウル・イルムの群れといった連中である。さらに彼らは一種の「ドロワ・デュ・セニョール(*初夜権)」を持っており、どんな男の妻や娘もそれから安全ではない。そのマナーやモラルのいくつかは書くことも憚られるほどである。マコーリーがワイチェリーの戯曲について「スカンクがハンターに撃たれないように彼らは批評家に叩かれない。」と言ったように彼らは「安全である。なぜなら汚なすぎて手を触れることができず、臭すぎて近づくことすらできないからである。」

 

それでも、この野蛮な人々の生活にさえ、絵のように美しいものを愛する人がその期待と不安に共感する瞬間がないわけではない。夕方の涼しさの中でアフガニスタンの山の後ろに太陽が沈み、渓谷がとても気持ちのよい薄明に満ちているとき、村の長老たちが水辺のスズカケノキの元へと連れて行ってくれる。そこで男たちがライフルの手入れをするか水タバコを吸い、女たちがビーズや丁子、木の実で粗末な飾りを作っているとき、ムラーが夕方の祈りを唸るのである。白人はこうした様子をほとんど見たことがなく、帰国後に語ったこともない。しかし武器や牛の価格、収穫の見通し、村のゴシップから、南にあって年々近づいてくる大国の事にいたるまでの会話を想像することができる。おそらくベルチまたはパシュトゥーンの元セポイがペシャワルのバザールでの自らの冒険を列挙したり、過去に自分が付き従って戦った白人将校たちについて語ったりするだろう。その飾らない勇気やその奇妙なスポーツについて/毎月の恩給をきちんと送ることを決して忘れない政府の遠大な力について語るだろう/そして聴衆の輪に向かって自分たちの谷がその偉大な組織の広範囲な支配に巻き込まれ、裁判官、収税官、弁務官がアンベイラ(*ブナーの村)の会合に馬で乗りつけたり、ナワガイ(*後出のナワガイとは別のアンベイラ近郊の村)の土地の地租を見積ったりする日のことさえ予言するかもしれない。そのときムラーは声を上げ、預言者の息子たちがインドの平原から異教徒を追い出し、デリーにおいてカフィール(*イスラム教徒から見た異教徒)が今支配しているのと同じくらい広い帝国を支配していた昔日を思い出させる:真の宗教が地上を闊歩し、丘の間に隠れて無視されることを軽蔑していた日を:強大な君主たちがバグダッドを支配し、すべての人々が神は一でありマホメットがその預言者であることを知っていた日を。そして、これを聞いていた若者たちはマルティニ銃を握りつつアッラーに祈るだろう。いつの日か、我が視線の七百ヤード先に―最高の獲物である―サヒブ(*インドで白人につける敬称)を横切らせ給え、さすれば侮辱され脅迫されたイスラムのためにせめて一撃を加えん、と。

 

この国の全体的な様相とその住民の性格をこのように簡単に述べた。この段階では、細部に進む必要はない。記事が進むにつれて読者はくすんだ山々、そしてその影の中に住む人々のより生々しい印象を受けられるであろう。

 

私が語るべき物語は辺境戦争の一つである。問題の重要性も、戦闘員の数も、ヨーロッパの規模ではない。その結果に諸帝国の運命がかかってはいない。しかし、物語に興味深さや内省の素材がないとはいえないだろう。文明国の紛争においては何千人もの大軍がぶつかり合う。旅団と大隊は前方に急行させられ、おそらく射程距離に入って砲列の集中、あるいは大量の小銃で掃討される。数百人―数千人が死亡し、負傷する。生存者たちは闇雲に、呆然として、動転して、最も近い遮蔽物に向かってあがく。後方からは絶えず新たな兵が投入される。やがてどちらかが屈服する。すべてのこの混乱、この大規模虐殺の中では個人とその感情は完全に失われている。語るべき物語を持っているのは軍だけである。そうした規模の出来事の中では人間の期待と不安、強さと弱さは等しく見分けがつかない。喧騒とホコリの中で破壊以外のものは何も見られない。しかし辺境では、朝の澄んだ光の中で、山肌に煙のパフが点在し、すべての尾根にまぶしい剣の刃が輝いているとき、観察者は人間の勇気のすべての段階を観察し、的確に評価するだろう―ガジ(*イスラム戦士)の野蛮な狂信、シーク教徒の静穏な運命論、イギリス兵の頑固さ、そして将校たちの自信に満ちた不敵さを。そして献身と自己犠牲、クールな皮肉と断固たる決断の時に気づくだろう。感激の瞬間を、あるいは獰猛な怒りと落胆を共有するだろう。将軍の技量、兵士の質、軍事技術の永遠の原理は歴史的に有名な戦場と同様に発揮される。統計的規模が縮小されるだけである。

 

一杯のシャンパンは爽快感を与える。神経は引き締められ、想像力は愉快に掻き立てられ、機知はより軽快になる。一本のボトルは正反対の効果を生み出す。度を過ごせば人事不省の昏睡状態に陥る。それは戦争についても同じで、両者の特質が最も良く分かるのは、それらをすすったときである。

 

私はマラカンド野戦軍の軍事作戦を記録し、その政治的成果をたどり、可能であればインド高地の風景と人々を描写するつもりである。本書は、勇敢で熟練した兵士の行動を記録するのに役立つだろう。それは辺境戦争の大きなドラマの側面に光を当てるだろう。それは私たちの民族の永遠の継承物である帝国のための、絶え間ない闘争の中の一エピソードを記録するだろう。暇つぶしになるだろう。しかし私がそれによって叶えようとしている野心は、帝国主義的民主主義のイギリスが海の向こうの大きな財産に対して抱き始めている関心の高まりを多少なりとも、いかに僅かであろうとも、刺激することである。

 

 

第二章:マラカンド・キャンプ

 

    私はたまたまウィア・サクラを歩いていた。―ホラティウス

 

ノウシェラ―マラカンドへの道―峠の頂で―キャンプ―辺境の生活―スワット渓谷―チトラル街道―チトラルの保有

 

ノウシェラの町と宿営地はマラカンド野戦軍のすべての作戦運営の基点である。カブール川のインド側にあり、ラーワル・ピンディーから鉄道で六時間かかる。平時、その駐屯地は一個現地騎兵連隊、一個英国歩兵大隊、一個現地歩兵大隊で構成されている。戦争中、これらの部隊は前線で用いられた。兵舎は大きな病院になった。どこもかしこも輸送手段や軍の貯蔵品で混みあっていた/そして基地司令官のシャルチ大佐の指令下に残ったのは貧弱な部隊だけだった。

 

ノウシェラからマラカンド峠とキャンプまでの道路は、長さ四十七マイルで、四つの行程に分けられる。通常は優れたトンガ(*一頭立ての馬車)の便があり、その距離は約六時間で踏破される/しかし野戦軍が非常に多くの交通手段を利用し、非常に多くの将校が路線を上下に移動したため、トンガのポニーはすぐにひどい痛みと憔悴に陥り、それを引いていく行程に九、十、あるいは十一時間もかかるようになってしまった。ノウシェラを出てカブール川を渡る十五マイルの行程で旅行者はマルダンに到着する。「メルダン」と発音される―この場所は、ガイド軍団の常設基地である。夏の数か月は恐ろしく暑いが、日陰が多くて心地がよい。素晴らしいポロ・グラウンドと快適な休憩所がその自慢である。通行者はガイド隊の墓地、おそらく世界で唯一の連隊墓地を見るために立ち止まるべきである。彼らがポロに興じたグラウンドの近く、住んでいた宿舎の近くの、ヤシの木の下のこの最後の休息場所に、国境線で殺された歴代の国境監視員の遺体が葬られている。世界中を探しても兵士がこのような勇敢な一団の中に眠っている場所はないだろう。

 

マルダンの後、道路はよりホコリっぽくなり、周囲の土地は不毛で乾燥している。[これは秋のことである。冬と春にはしばらくの間、土地は緑に、空気は冷たくなる。]トンガが進むにつれて山々が近づき、その形と色がよりはっきりしてくる。平原から隆起したいくつかの小丘と尾根が、ずらりと並んだ丘の列の前哨地になっている。カブール川の支流であるジャララ川の―浅瀬を渡ると、第二行程に到達する。平時には小さな泥の砦がその唯一の目印になっているが、これはこの前の戦争の時には拡張されて、周りに塹壕がめぐらされた相当なキャンプだった。そこはすでに放棄された場所なので、止まってポニーを交換すると、すぐに行程は再開される。道の両側の並木がなくなる。道路は山に向かって伸びる単なる白い筋のように見える。うだるような暑さと窒息するようなホコリの中をそれは横切っている。土地全体が赤く、不毛で、焼き尽くされている。前方には巨大な丘の壁が暗く、不気味に立ち上がっている。ようやく峠の麓のダルガイに到着する。これもまた作戦中に塹壕のあるキャンプに拡張された泥の砦であって、絡み合った有刺鉄線の網に囲まれている。居並ぶ山々の大きな裂け目である―マラカンド峠が見えるようになって、峡谷のはるか上に、それを守る要塞の輪郭がはっきりと見える。

 

ダルガイから峠の頂上へと続く傾斜道路の最後は、折り返しの多い長い登り坂である。御者は背中を痛がる哀れなポニーを休みなく鞭打つ。ようやく頂上が近づいてくる。その眺めは立ち止まって一見する価値がある。振り返って見下ろすと、熱気のもやの下に―滑らかで平らで、かすんだ地平線まで伸びている―広大な開けた国がある。トンガが角を曲がると新しい世界に入る。涼しい風が吹いている。平和から戦争への一歩を踏み出したのである/文明から野蛮へ/インドから山へ。すべての方面で風景は荒々しく険しい。尾根は尾根に連なっている。谷は谷に通じている。見渡す限り、どの方向も険しい峰と支脈である。平原の国は過ぎ去った。そして私たちは山が生垣の代わりをしているハンプトン・コートの迷路のような、絡み合った奇妙な土地に入り込んだのである。その土地は、その完全な印象を伝えようとすると絶望してしまうほどに、とても起伏が多く、とても雑然としている。

 

マラカンドは縁が割れて数多くの割れ目とギザギザがある巨大なカップのようなものである。このカップの底に「クレーター」キャンプがある。最も深い裂け目がマラカンド峠である。ギザギザの中で最も高い地点はガイド・ヒルで、その上に砦が立っている。そのような場所を守るためにはカップの縁を保持しなければならないことは、専門的知識がなくとも理解できる。しかしマラカンドは必要な守備隊を収容するにはカップの底が小さすぎる。したがって軍事的な観点から見て、位置そのものが悪く防御不能である。修正および改善された防御計画では、利用可能な接近経路を見渡せるようにし、見渡せないところは絡み合った有刺鉄線やその他の障害物で封鎖するという取り決めがなされた/そして賢明な任務の体系によって、縁の大部分が現在保持されている。しかし今でも有能な評論家たちはその場所は防御に向いていないと言う/峠は砦だけで保持できる、そしてそこに駐留している旅団がダルガイに撤退するならより安全で同じように有用だろう、と。この物語が始まったとき、マラカンド南キャンプは軍隊を配置することがありえない場所だった。接近が容易だった。それは近隣の高地に閉じ込められており、見渡されていた。[戦後の取り決めによって、マラカンド陣地とチャクダラとダルガイでの任務は二個大隊と分遣隊によって維持されることになった。これを遊撃隊が支援するのだが、その正確な位置と構成は未定である。]

 

コタル(*現地語の峠)のキャンプのエリアは小さかったため、カルの平野に二番目の野営地を作る必要があった。これはカップの北の外縁のすぐ下にあった。これは政治的な理由から北マラカンドと呼ばれた。これもまた軍事的な位置として完全に悪かった。それは至る所から見渡されていて、峡谷とヌラーに囲まれているため敵が入りやすく、部隊が出ることは難しかった。もちろんこれに戦略的価値はなく、マラカンドを保持するための、クレーターと砦に居住場所がない部隊の住居として使用されていただけだった。北キャンプは今でははっきりと放棄されている。

 

しかし誰も―とりわけその場所を選択した人々は―攻撃の可能性を検討したようには思えない。実際、マラカンド・キャンプ全体が純粋に一時的なものと見なされていた。英国の政党と政策の変化に起因する優柔不断のために、マラカンド守備隊は二年間、理論的にも現実的にも十分な防御ができない立場に留め置かれた。1895年のチトラル遠征の後、当初この前進基地に旅団が置かれるのはほんの数週間のことと思われていた。しかし月日が経つにつれてその不確実性にもかかわらず、キャンプは永続的な外観を帯びてきた。将校たちは小屋を建て、食堂を建てた。カルの近くに良いポロ・グラウンドが見つかった。そして注意深い管理によって急速に改良された。競馬場が計画された。既婚の多くの将校は妻と家族を山間のキャンプに連れてきた。そして場所全体が急速に正式な宿営地になろうとしていた。ガジの怒りが静けさを破ったことはなかった。キャンプを出るすべての人物に携帯が義務化されていたリボルバーは、弾を込められていないか、現地人馬丁に持たされていた。丘に行く狩猟パーティーが組織された。伯仲したポロ・トーナメントがクリスマス・ウィークに開催された。著名な旅行者たちが―国会議員でさえも―この帝国の前哨基地を訪れ、アングロ・サクソン人があらゆる状況を自らのスポーツと習慣に適応させてしまうことの迅速さと容易さを興味深く観察した。

 

同時にマラカンド旅団の駐屯地は快適なものではなかった。彼らは二年間、キャンバス地の下や粗末な小屋に住んでいた。極端な気候にさらされていた。暑い日にもパンカ(*天井からつるして綱で引いて仰ぐインドの布製大うちわ)や氷はなかった。鉄道からは約五十マイル離れていた。交際や娯楽に関しては完全に自分たちでやりくりしなければならなかった。職務上の異議、費用、支障を克服して辺境での就役に成功したイギリスの騎兵将校(*自分のこと)は、辺境軍の将校たちに妬ましい目を向けてしまいがちである。彼が好意にすがって懇願するようなことは、彼らにとって当然のこと、命令によって強制することとされているからである。しかし忘れてはならない。これは孤独で人里離れた駐屯地での不便で単調な長い月日、そして敵に相対する時には名誉であり歓迎するべきものではあっても、平時には不愉快な苦難を耐え忍んでいることの代償なのである。

 

マラカンド峠を通過した後、最初の右への分岐はスワット渓谷に続いている。旅行者は山の中にいる。すべての方向の視界は岩の壁に制限されるか、終了されている。谷自体は広く、平らで肥沃である。真ん中を流れの速い川が流れている。その両側には広く細長い水田がある。乾燥した土地には他の作物が植えられている。たくさんの村があり、そのいくつかは大きな人口をかかえている。美しい景色である。山の涼しいそよ風が太陽の熱を和らげている。豊富な雨が大地の緑を守っている。

 

古代にはこの地域は仏教王国の中心だった。またウーチャンすなわち「公園」を意味する「ウディアナ」として知られていて、快適な渓谷をかつての占有者が高く評価していたことが窺える。「人々は」と五世紀にこの地を訪れた支那の巡礼僧・法顕は書いている。「みな中央インドの言葉を話している。“中央インド”とは私たちが“ミドル・キングダム”と呼んでいるものである。庶民の食物や衣服はその中央王国と同じである。仏法はウーチャンで非常に盛んである。」「公園」とは―サババツと呼ばれた―スワット川の両岸にある土地全体のことであるが、おそらく森林、花、果物で有名な渓谷の上端に特に当てはまるのだろう。谷はその美しさの多くを留めている。しかしそれを手に収めた獰猛な征服者の無思慮が森林を破壊し、無知が花と果実を衰退させてしまった。

 

現在の住民の評判は悪い。その油断のならない性格は不誠実さと残酷さで悪名高い人々の間でも際立っている。パシュトゥーン人の間にはことわざがある:「スワットは天国、スワット族は地獄の悪魔。」何年もの間、彼らは臆病者の汚名を着て辺境部族から軽蔑され、疑いの目で見られてきた/しかし最近の戦闘におけるその振る舞いは少なくともこの汚名を雪いだであろう。

 

現在は数人の小族長がスワット渓谷を分割統治しているが、1870年までは一人の統治者が治めていた。スワットのアクンドはインドで最も名誉ある職業とされている牛飼いの生まれだった。牛は神聖な獣である。その奉仕は神々と人々を喜ばせるものである。小君主はその名を誇りとする―ただし彼らは通常それ以上の熱意を持つことはない。「ギコワール」は直訳すると「牛飼い」である。そうした仕事から未来のアクンドはインスピレーションを得た。彼は何年もインダス川の土手に座って瞑想した。そして聖人になった。川岸の沈思を長く続ける(*川の照り返しを長く浴びる)ほどにその神々しさは増した。その神々しさの評判はその地方全体に広まった。スワット族は自分たちの谷に来て住むよう彼に懇願した。勿体ぶった不承不承の態度で駆け引きしてから、彼はインダス川岸からスワット川岸に移ることに同意した。そして人々の尊敬を受けつつ数年間緑の谷に住んでいた。大反乱時にスワット王サイード・アクバルが死去した。そして聖人は宗教的権力と同様に世俗的権力を継承した。1863年に彼はイギリスに対するジハードを説き、アンベイラ戦役でスワット族とブナヴァル族を率いた。サーカーが戦争を終わらせるために示したあまりにも途方もない力に老人は明らかに感銘を受けたようである。その直後から彼は政府に友好的になり、多くの敬意の印を受け取った。

 

彼は1870年に死去する前に人々を周囲に呼び寄せ、いつかその谷がロシア人とイギリス人の間の争いの舞台になるだろう、と言い放った。そうなったときにはイギリスに味方して戦うように、と彼は命じた。発言はその有名な僧侶の記憶と結びついて部族民の心にしっかりと留められている。また英国人には主に「バブ・バラード(*漫画つきナンセンス詩集。W・S・ギルバードのものが有名だがその中に該当作品は見当たらない。エドワード・リアーにThe Akond of Swatというナンセンス詩がある。)」を通じて知られている。

 

彼の二人の息子は死去しているが、どちらもかなり若い二人の孫[スワットのミャングル家]は谷に住んでおり、スワットの至る所にあるアクンドの土地保有権を受け継いでいる。彼らには政治的影響力はほとんどない/しかしその人物と財産はミンガオラ近くのサイドゥで神聖な香りの中に眠っている祖父のおかげで人々と英国人から重んぜられている。

 

マラカンドの東八マイルのところにはチャクダラの信号塔が見える。そちらに向かって広い傾斜道路(*グレーデッド・ロード)が平原を横切るリボンのように走っている。それはコタルキャンプから七マイルのところでアマンダラ峠を通る。そこで南の山々からの突出部が著しく低くなり、峠道になっているのである。そしてそれはさらに北に向かい、川に架かる要塞橋に続く。この道は歴史的なものなので読者には覚えておいていただきたい。それはマラカンド野戦軍の前進経路であるだけでなく、まさしくその存在理由である。この道がなければマラカンド・キャンプも、戦闘も、マラカンド野戦軍も、物語もなかったことであろう。チトラルへの街道である。

 

ここで直ちに辺境政策全体の広漠とした問題が持ち上がる。私たちがマラカンド峠を保有しているのはチトラル街道を開通させておくためである。チトラル街道を開通させておくのはチトラルを保持しているからである。チトラルを保持しているのはそれが「フォワード・ポリシー」だからである。こうして私は、主に軍事的事件と小事件の物語に充てようとしたこの書物のまさに冒頭において、イギリスの最も洞察力ある知識人が迷っており、インドの最も価値ある専門家の意見が分かれている幅広い政治問題に直面することになった。もし私がとても大きく、論争の的になっているその問題の議論を、後の章で、おそらく私が読者のより大きな共感と賛同を受けるまで先延ばししたとしても、私を臆病者や弱虫と思って欲しくない。物語が終わった後にその教訓を指摘するのは不適切なことではないだろう。

 

慎重を期すなら先に延ばした方が良いだろう。しかしチトラルの保持が得策かどうかの考察を先延ばししている間に、もしそれが不必要だったとしても、その手段を説明するにはこの章が好都合である。

 

ノウシェラは路線上にある鉄道基地である。そこから私たちはマルダンへ、そして辺境へと渡ってきた。ここで新しい、係争中の部分が始まる。それは最初に下ラニザイ地方を通過してマラカンド峠を登り、その先の谷に降りる。そして上ラニザイ地域と下スワットを通ってチャクダラに至る。ここでスワット川を、要塞に守られた細い吊り橋で渡る。この橋の三つの支間の長さを合わせると約1500フィートになる。これは1895年の作戦中に約6週間で建設された、非常に注目すべき軍事土木工事の一例である。スワット川を越えた後、道路はディリのカーンの領地を北と西に走り、マラカンドから三十五マイル離れた辺鄙なサドゥ村(*パンジコラ川とジャンドル川の合流点近く)まで続いている。ここが最初の区間の終わりであって、その先は車輪による通行ができない。道路はパンジコラ川の左岸を伝う曲がりくねったラクダ道になっている。ディリまであと五マイルのところで吊り橋で右岸に渡る。そしてディリ川との合流点からそれを逆上って行くとディリに到達する。サドゥからの距離は約五十マイルである。ラクダはディリの先には進めない。ここから三番目の区間が始まる―ラバだけが通行できる道で、距離は約六十マイルである。ディリからの道は土木工学の勝利である。多くの場所で、それは険しく巨大な崖の表面に取り付けた木道でつながっている。そして他の場所では驚くべきジグザグで支脈を迂回したり、山腹を削ったりしている。そして道の終わりにはチトラル砦があり、二個大隊、一個工兵中隊、二個山岳砲兵隊からなる守備隊が駐屯している。

 

道路はそれが通過する地域の部族民によって維持および保護されている/しかし、それが遮断される可能性のある二つの主要な地点は帝国の守備隊が保持している。マラカンド砦は山の通路を守っている。チャクダラは川を渡る橋を守っている。残りについては部族民が徴用されている。ラニザイ族はインド政府から毎年30,000ルピーの助成金を受け取っており、それによってスナイダー銃(*1866年、イギリス陸軍制式採用)で武装した200人の非正規軍を維持している。これをイギリスの将校は失礼にも「Catch―‘em―alive―Os.(*19世紀半ばの蠅取りのスラング、ラドヤード・キップリングが無鉄砲な若い兵士の一団に対して使った)」と呼んでいる。彼らが略奪者を追い払い、暴行と殺人を思いとどまらせる。ディリのカーンもまた政府から60,000ルピーの助成金を受け取っている。その領土を七十三マイルもの道路が走っているのである。それゆえ彼はその任務に400人の非正規兵を提供している。

 

大規模蜂起の前にはこれらの協定は見事に機能していた。ルートの維持に関心のある部族民は政府への敵対行為に最も消極的だった。マラカンドの南に住む下ラニザイ族は完全に降りた。部族の長老たちは熱くなりやすい若者の武器をすべて集め、部隊を攻撃することを禁じた。上ラニザイ族は騒乱の現場に近く、迷信と恐怖によってムラーに加勢するよう誘導された/しかしとても中途半端だった。スワット族は狂信に流された。ディリのカーンはイギリスの援助に完全に依存しており、その領民も助成金の利益を理解していたので裏切ることはなかった。

 

道路が興味深いものなら、その物語はさらに興味深いものである。そして、その建設につながった出来事と原因の要約は、国境部族の政治の歴史と方法論に何らかの光を当てるだろう。

 

とるに足りない首長たちはその権力が不確実で不安定なため、常に何らかの強力な宗主国の支持を求めてきた。1876年、チトラルのメータル(*インド北西辺境の支配者の古い称号)であるアマン・ウル・マルクは庇護を得るよう勧告されて、私たちの臣下であるカシミアのマハラジャの臣下になった。事前の全体的な計画に従って、インド政府がすでに承認していたイギリスの機関がギルギットのチトラル―カシミア辺境に直ちに設立された。アマン・ウル・マルクは一定の武器と弾薬の供給と6000ルピーの助成金を提示され、その後12,000ルピーに引き上げられた。このようにしてイギリス人はチトラルの権益とその国境の監視地点を得た。1881年に機関は撤退したが影響力は残った。そして1889年にはるかに大きな守備隊とともに再建された。一方、アマン・ウル・マルクは政府の意思を大いに重んじ、助成金と比較的な平和を享受しながらチトラルを統治していた。しかし1892年に彼は死去した。みな同様に残忍で野心的で悪辣な多くの息子たちが残された。その一人であるアフザルは最年長でも公認の相続人でもなかったが、その現場にいたことが幸いした。彼は権力の手綱を握った。そして捕えることができた兄弟をすべて殺し、自身がメータルとなることを宣言して、インド政府に承認を求めた。彼は「勇気と決断力の持ち主」と見なされ、その統治には安定した政府が期待できたため、彼は首長と認められた。生き残った兄弟は隣国に逃れた。

 

最年長のニザムはギルギットにやって来てイギリスに訴えた。助力は得られなかった。祝福はすでに与えられていた。(*聖書の故事:ヤコブが兄エサウから父イサクの祝福をだまし取ったことに擬えている)しかし、1892年11月、故アマンの兄弟であるシェール・アフズルがチトラルに秘かに戻ってきた。そしてその地で兄弟愛に駆り立てられて(*故アマンは暗殺されたという説がある)、甥である新メータルともう一人の兄弟を殺した。そして「邪悪な叔父」は王座、あるいはそれに等しいものに上った。しかし反発が起こった。インド政府は彼を承認することを拒否した。ギルギットにいたニザムは自らの主張を力説し、ついにその相続財産を取り戻しに行くことを認められた。250人のカシミア・ライフル隊の無形の援助が多くの支持者をもたらした。彼は人々と結びついていた。縮小規模のオレンジ公ウイリアムの上陸(*名誉革命で王としてオランダからイングランドに上陸)だった。オランダ軍の代わりにカシミア軍がいた。これに対抗するためにシェール・アフズルが送った千二百人の兵は寝返った。簒奪者である叔父はぐずぐずしていると危ないことを悟って、ジェームズ2世がフランスに逃げたようにアフガニスタンに逃げ込んだ。そこで支配者に厚遇され、将来の騒乱の要因として注意深く保護された。

 

ニザムは願いが叶って今やメータルとなった。しかし彼が自分の権力を大きく行使することはなかった。地上の野心の虚しさについて陳腐な内省をしていたのかもしれない。最初から彼は貧弱で不人気だった。しかしインド政府の支援を受けて、どうにかその領土に対する弱々しく拙い支配を持続していた。彼を支持するために、そして政策に従って、ヤングハズバンド大尉が100人の銃剣兵とともに送られた。ギルギット守備隊は大隊へと拡充され、マストゥージとの間にいくつかの駐屯地が設置された。

 

こうして帝国軍はチトラルに入った。その立場はたちまち危険に陥った。彼らは何百マイルもの悪路と好戦的な部族民によってギルギットから切り離されていた。ギルギットからの部隊の移動には常に時間がかかり、困難が伴う。しかし別のルートもあった。私が説明したルート―ペシャワルからディリを北に向かうルート―は、イギリスの領土と鉄道から始まり、より短く容易である。今この連絡線にインド政府は目を向けた。英国軍またはエージェントがチトラルに留まることになった場合、言い換えれば承認された政策を継続することになった場合、このルートが開通していなければならない。彼らは本国政府に打診した。キンバリー卿(*インド担当大臣、自由党ローズベリー内閣)は、責任、領土、支出の増加に反対であるということ、そして自分はそのような計画への支持を約束できない、と返答した。同時にニザムの立場を強化する目的で、一時的に軍とエージェントを置くことを認可した。[国務大臣からのディスパッチ、No.34、1893年9月1日]

 

ここでウムラ・カーンが物語に登場しなければならない。1890年4月28日付のギルギット機関の報告書によると、ジャンドルのカーンだったこの首長は「チトラルとペシャワルの間の最も重要な人物」であり、その影響力はバジャウル全体に行き渡っていた。この強力な支配者の元に、アマンの息子の一人が父の死後の兄弟虐殺から逃げて来た。名前をアミール(*イスラム首長を指すアミールと同じ綴りなので、区別するため以下弟アミールと表記する)と言った。ウムラ・カーンは彼を保護し利用することを決意した。1894年5月、この若者―約20歳―はチトラルに戻り、ウムラ・カーンの手から逃れてきたと偽った。ニザムは弟を親切に受け入れた。その美徳はそのキャリアを通じて彼の邪魔をしていたように思われる。1895年1月1日、弟アミールはその歓迎を利用した。兄とチトラル内閣の主要閣僚を殺害したのである。彼は自らをメータルと宣言し、承認を求めた。帝国の将校たちは辺境政治に通じていたが、問題がインドで検討されるまではこの悪党とのいかなる協定にも関わることを拒んだ。

 

ウムラ・カーンは今や大兵力でチトラル渓谷の頂きへと前進してきた。名目上は親愛なる友人であり、同盟者である弟アミールが支配を固めるのを支援するためだったが、実際は自分の領土を拡大することを狙っていたのである。しかし弟アミールはウムラをよく知っており、自分の王国を勝ち取った以上、それを共有する気はなかった。戦いが起こった。チトラルは打ち負かされた。弟アミールを利用することができなくなったので、ウムラ・カーンは邪悪な叔父に復帰を勧めた。シェール・アフズル(*アフガニスタンに居た)は受け入れた。契約が成立した。シェール・アフズルはメータルになったと主張し、ウムラがその主張を支持した。反発の動きに対しては両者が武力で脅迫した。

 

しかし帝国政府は激怒して立ち上がり、新しい申立人と一切の関係を結ぶことを拒否した。彼にその物言いが無作法であることを告げ、ウムラ・カーンにはチトラルから直ちに立ち去るよう、そうしないのであればその結果を引き受けるよう警告した。答えは戦争だった。乏しい守備隊と散在するイギリス軍部隊が攻撃された。第14シーク隊の1個中隊はバラバラにされた。ファウラー中尉とエドワーズ中尉が捕虜になった。チトラル派遣軍の残りと同行者が逃げ込んだチトラル砦は綿密に厳重に包囲されていた。彼らを救うことが必須だった。野戦軍第1師団が動員された。4月1日マルダンから16,000人近くの部隊が辺境へと入った。現在のチトラル街道の最短ルート―スワットとディリを通るルート―を前進して救助に向かったのである。遠征隊の指揮はロバート・ロウ卿に託された。参謀長はビンドン・ブラッド卿だった。

 

ここまでのところは―主にチトラルで、最終的には国境部族全体において―公認された一貫した方針に従ってイギリスの影響力が着実に増加していた。ある動きに別の動きが続いていた。すべてが共通の目的を目指していた。今、突然私たちは一つの行為に直面することになった。それによって良く状況をわきまえているインド政府が、彼らが長い間追求してきた進路、それを進むために彼らが多大な努力をし、臣民に多大な犠牲を払わせてきた進路の上に障害物を置いてしまったのである。おそらく良心の呵責から、しかしおそらく騒動を局所的なものに見せ、さらなる領土の獲得を放棄することによって自由党政権(*第三次グラッドストン内閣)を宥めるために、彼らは対象となる「ウムラ・カーンの側に付いていないスワットのすべての人々とバジャウルの人々」に自らが「ウムラ・カーンの間違った行いのためやむを得ず通過したり部族民の独立に干渉したりすることになったとしても、いかなる領域をも恒久的に占領することはない。」という布告を出したのである。[布告、1895年3月14日]

 

この宣言が英国での政治目的を意図したものだったとすれば、ある意味で、それは最も見事に成功した。戦争で死傷したすべての兵士とほぼ同じくらい多くのことがそれについて書かれているからである。しかし軍隊の光景に激怒し、政府の宣言に注意を払わない部族民には何の影響もなかった。先に簡単に要約した/長く着実で計画的な前進を彼らが注意深く見ていたなら、インダス河水系全体で、「拡張し、徐々に、彼らの勢力を統合する」[インド政府からの手紙、No.407、1879年2月28日]というインド政府が公表し、記録されている決定を彼らが読んでいたなら、部族民は政府の真心さえも疑っていたことだろう。しかしそうではなく、そして細かな区別などできなかったため、彼らにとって軍の移動は侵略にしか見えなかった。

 

そこで部隊の前進を阻むために彼らは集まった。その数は12,000人にのぼり、マラカンド峠―素敵な場所―を占領した。そして4月3日、ロバート・ロウ卿の二個先進旅団に完敗して追い払われた。その後の作戦の結果、スワット川とパンジコラ川の間に通路ができた。チトラルへの道が開通した。砦の包囲隊は逃亡し、ケリー大佐に指揮された小さな救援部隊がギルギットから押し進んできた。ウムラ・カーンはアフガニスタンに逃亡した、そして将来の政策の問題がインド政府で審議されることになった。

 

チトラルに対する「実効支配を続ける試みを放棄」する、あるいはそこに十分な守備隊を置く、という二つの選択肢が浮上した。既に承認されている政策に従って評議会は満場一致でチトラルでイギリスの影響力を維持することは「最も重要な課題」であるという結論を出した。本国へのディスパッチ[インド政府のディスパッチ、No.240、1895年5月8日]において彼らはすべての理由を述べ、同時に救援部隊が出動したペシャワルからの道を守備することなくチトラルに駐屯することは不可能であると宣言した。

 

6月13日、ローズベリー卿の内閣は賢明ではなかったにしても、勇気を持って断固返答した。「チトラルには軍もヨーロッパのエージェントも存在するべきではなく、チトラルは要塞化するべきではなく、ペシャワルとチトラルの間に道を作るべきではない。」これにより1876年以来一貫して守られてきた方針は明確かつ最終的に否定されることになった。チトラルは自らが生み出した苦しみの中に放置された。インド政府は覆された。それは古い辺境ラインに戻るための大胆かつ捨て鉢の試みだった。インド政府は「私たちは深く落胆しているが、決定を忠実に受け入れる。」と答え、自分たちの政策の断ち切られた糸を集めて別の織物を織り始めた。

 

しかし間一髪で自由党政権が崩壊し、ソールズベリー内閣(*保守党)がその決定を覆した。インド問題に関する青書を読むとき―最も向こう見ずな人々でさえ大臣になった途端に着用することを強いられる―公的責任の同形の仮面の下に、党派の本質的な感情が動いているのを見るのは興味深いことである。書簡の言い回し、スタイル、トーンは同じである。彼らは常に植民地総督と行政官に言葉をかけ、指導する偉大な人々である。しかし政治の振り子が揺れるとともに、その権勢は後ろに前に傾く。そして1895年の揺れは非常に大きかったため、前進政策も相応の衝撃を受けたのである。新大臣(*ジョージ・ハミルトン卿)は「歴代の政権が継続的に追求してきたその政策を、その持続が明らかに不可能にならない限り軽々に捨て去るべきではない。」[ディスパッチ、国務大臣、No.30、1895年8月16日]と見ていた。こうしてチトラル駐留は裁可され、その駐留に必要な道路が完成した。

 

私は細心の注意を払いながら「背信」という大きな問題にアプローチする。主に兵士の行動について書く本の中で、政治家の政治的名誉にかかわる出来事を議論するのは差し出がましいことかもしれない。軍がそこを通過したとしても、部族民に干渉したり、領土を永久に占領したりする意図はない、という不必要かつ根拠のない宣言をインド政府が出した/ところが今では部族民に干渉し、ダルガイ、マラカンド、チャクダラに守備隊を設置している。そのすべては軍が通過した地域にある。しかし、取引をするには二人が必要であり(*成句It takes two to make a bargain)、背信行為をするにも二人が必要である。部族民は宣言を全く気に留めなかった。それを理解していなかった。それを信じていなかった。信用がないところに背信はない。国境の人々は前進に抵抗した。その立場は宣言を無効にした。そして部族民がそれを信用していなかったことを証明した。彼らはだまされたとは思っていない。その道路を「背信」とは見なしていない。彼らがそれをどのように見ていたかといえば、自らの独立への脅威であり、併合の前触れである。それは間違いではない。私が見て、描写しようとした、谷を走る幅広い白い道/それを通って移動する兵士/すべての方向にその影響力を拡大していく政務担当官/チャクダラの橋と砦/そして、マラカンド峠の拡張していく宿営地を見るなら、その意味を察知するためには教育は必要ない。またいかなる詭弁を弄してもそれを覆い隠すことはできない。

 

 

第三章:勃発

 

  宗教にはこれほど多くの悪事をそそのかす力があった。

                   ルクレティウス

 

原因―繁栄―底流―手段―奇跡―戦争のうわさ―準備―出動部隊―嵐の襲来

 

すべての共同体において暴力的な噴出と蜂起に先立ってその道筋を用意する、静かで微妙な影響を追跡することの難しさは、大きな出来事を取り扱う歴史家を常に憂鬱にする。彼は多くの原因を発見し、それらを正しく記録するかもしれない。しかし、彼は常に何かが漏れていることに気がつく。世論の変化する潮流、関心事、党派、気まぐれの底流、非論理的な感情、または無知から来る偏見の渦は、非常に複雑に数多くの力を発揮するため、それらすべてを観察して評価し、それぞれが嵐の発生に与えた影響を推定することは人間の知性と精勤を超える課題である。小さな事件を記録する者にはさらに大きな不利がある。小さな活字が大文字ほど読み易くないように、彼は自分の判断を導くための事実を、より僅かしか持っていない。

 

1897年の大部族動乱の原因を明言しようとする試みにおいて、ヨーロッパ人はアジア的な動機を計ったり、視点を推測したりできない、という事実がその困難をさらに増大させる。しかしその問題を素通りすることは不可能である。私は細部を無視することにして、少なくともインドのイギリス政権が直面した恐るべき連合体につながった、最も重要で明白な力について指摘したいと思う。

 

「フォワード・ポリシー」において最も目覚ましい事件はチトラルの保有だった。守備隊、道路、部族民の徴集兵は、部族民に文明の近接と前進を認識させた。山岳地帯の住民の大多数は独立を愛してきたが、その自由が実際に縮小されるまでは、物質的な繁栄の進行に宥められて受動的な服従を厭わない可能性があり―確かにその通りだろう。英国の旗がチャクダラとマラカンドに翻っていた二年間にスワット渓谷の貿易はほぼ倍増した。文明の太陽が丘の上に昇るにつれ、商業の美しい花が開き、これまで野蛮の霜に凍り付いていた需要と供給の小川が解けだした。穏やかな暖気を浴び、新たに見つけた豊かさと快適さを享受して先住民のほとんどは満足していた。二年間、チトラルを行き来する交代兵は一発も撃たれたことがなかった。郵便袋が盗まれたこともなく、配達人が殺されたこともなかった。獰猛な丘の男たちの間を自由に騎行する政務官たちは、以前であれば武力で解決されたであろう数多くの紛争を解決するために招かれた。

 

しかし、ある階級はイギリスの権力の接近を素早い理解力と激しい敵意をもって見ていた。アフガン国境の聖職者たちは即座にチトラル街道の持つ全ての意味に気づいた。彼らの敵意の原因を知るのは難しいことではない。文明との接触はムラーの富と権力が依って立つところの軽信と無知を攻撃する。無意識のうちに迷信の強さを奪う、その文明的で教育的な支配に対抗するインドの宗教勢力の全体的な連携は将来的危険の一つである。ここにマホメダニズムは脅かされ、敵対を受けたのである。幅広い、しかし静かな扇動が始まった。部族間のあちこちへ使いが出た。種族間に戦争、聖なる戦争のひそひそ話が非常に情熱的に狂信的に囁かれた。巨大で神秘的な作用が働いた。その力を合理的精神で理解することはできない。北部の野生の谷のそれよりも明敏な頭脳が準備を行った。秘密の激励が南部―つまりインド本国―から来た。実際の支援と援助はカブールから与えられた。

 

無知と迷信の奇妙な薄明りの中で超自然的な恐怖と疑念に襲われ、天上の栄光の希望に誘惑された部族民は驚くべき出来事を期待するよう説かれた。何かが来ていた。彼らの種族と信仰にとって素晴らしい日が間近に迫っていた。やがてその瞬間が来る。彼らは注意し、準備をしていなければならない。山は火薬庫のように、爆発物で一杯になっていた。しかし火花がなかった。

 

ついに時が来た。出来事が奇妙に組み合わさって機会の価値を高めるように作用した。ギリシャに対するトルコの勝利/「ジハード」に関するアミールの著作の回覧/彼がイスラム教のカリフの地位に就いたこと、および英印新聞紙上におけるとても軽率な記事[「マホメダニズムの再燃」といったテーマに関する英印新聞の記事は、教育を受けた現地人の心に最も扇動的な現地紙の空論より大きな影響を与えるのである]が一体となってマホメダニズムの「ブーム」を生み出した。

 

その瞬間が幸運だったのは/その男が欠けていなかったことである。カトリック教会の正規の司教や枢機卿にとっての隠者ピエール(*第一回十字軍に先立つ民衆十字軍を率いた指導者)がアフガン国境の通常の聖職者にとってのマッド・ムラーだった。自らの神聖な使命と奇跡の力を同様に確信している荒々しい熱狂者は異教徒に対しての聖戦、すなわちジハードを説いた。地雷が火を噴いた。炎が地面を走った。四方八方で爆発が起こった。その残響はまだ消えていない。

 

準備は大掛かりに広範囲に行われていたが、部族民と政府の関係を維持していた注意深いエージェントたちにはそれが見えなかった。とても異常だったのは、その人々の知識と目的の逆転現象である。すなわち、彼らを最もよく知っていた人々こそが彼らを最もよく知らず、より論理的な精神を持っていた研究者ほど対象を理解していなかった、と言えるかもしれない。いずれにせよ、熱心に情報を収集し、部族民の間に流れる空気を観測していた有能な人々の中に、全方面に蓄積されつつある潜在的な力に気づいた人物はいなかった。6月のマイザルでの奇妙な裏切りは線香花火的な企てだった。まだ誰も危険と見ていなかった。上スワットに熱狂的な運動があることが気づかれたのは7月の初めだった。その時でさえその意義は無視され、その重要性は過小評価されていた。マッド・ファキールが到着したことが知られた。その力はまだ秘められていた。それが明らかになるまでに時間はかからなかった。

 

無知で好戦的な東洋の人々に狂信が及ぼす力を十分に理解することが、現代のヨーロッパ人には不可能ではないにしても困難であることを神に感謝する。西洋諸国が宗教的な論争に剣を抜いてから数世代が経過した。そして暗い過去の邪悪な記憶は合理主義と人間らしい共感の強い明るい光の中でやがて消え去った。確かにキリスト教は残酷さと不寛容によって劣化し、歪められているが、私たちが予防接種によって天然痘から保護されているように、常に人々の情熱に緩和の影響を及ぼし、より激しい形の狂信の熱から保護していることは明らかである。しかし、マホメダンの宗教は不寛容の猛威を軽減するのではなく増大させる。それはもともと剣によって広められ、それ以来その信者は他の全ての宗教の信者よりもこの狂気の形に服従させられてきた。苦労の成果、物質的な繁栄の見通し、死への恐怖すらたちまち傍らに投げ捨てられる。感情的なパシュトゥーン人ほどそれに抗う力は弱い。すべての合理的な熟慮は忘れ去られる。彼らは武器を手に入れて―狂犬と同じくらいの危険性と浅慮の―ガジになり/そのような扱いにふさわしくなる。部族民のより豊かな精神は血に飢えた宗教のエクスタシーに身悶えするが、より貧しく、より物質的な魂は他の力、すなわち略奪の期待、戦いの喜びにさらなる衝動を感じる。こうして国全体が戦いに立ち上がる。このようにして、トルコ人は敵を撃退し、スーダンのアラブ人は英国軍の方陣を破壊し、インド辺境の蜂起は遠く、広く伝播する。どの場合にも文明が好戦的なマホメダニズムに直面している。進歩の力が反動の力と衝突する。血と戦争の信仰が平和の信仰と向き合う。幸いなことに通常は平和の宗教の武器の方が優れている。

 

人々の並々ならぬ軽信は考えられないほどである。もしマッド・ムラーがマラカンドとチャクダラの攻撃に参加するよう呼びかけたなら、彼らは拒否しただろう。代わりに彼は奇跡を成し遂げた。彼は自分の家に座り、少量の食物やお金の捧げ物を持って訪ねて来たすべての人にその返礼として少量の米を与えた。彼の蓄えは常に補充されていたので、彼は何千人をも養ったと主張できただろう。また自分の姿は夜には見えなくなると力説した。部族民が部屋を覗いてみると誰もいなかった。これらのことに彼らは驚嘆した。最後に彼は異教徒を滅ぼすと宣言した。助けはいらない。その名誉を誰とも共有する気はない。天が開き、軍勢が降りてくる。彼が助けはいらないと断言すればするほど、部族民はどんどんやって来た。ちなみに彼は部族民には弱みはないと言っていた/エージェントが論拠を見せてくれた。私は捕獲した巻物を見せてもらった。その中には―異教徒を殺した―ガジの墓がカーバ神殿の少なくとも七層以上上の天国に描かれていた。戦闘の後―恐るべき軍隊に襲撃をかけ、その四分の一を戦野に残したまま部族民がよろよろと帰ってきたとき―ですら生存者の信仰は揺るがなかった。疑っていた者だけが死んだのである、とムラーは言った。そしてこれが十二ポンド榴散弾がお前たちの聖人に与えた唯一の影響である、と言って打撲傷を見せた。

 

私は原因と仮説の荒海から、結果と事実の確固たる陸地へと安堵しながら移動する。マラカンドに届いた上スワットおよび周囲の部族の間の扇動の噂と報告は、駐屯地のパシュトゥーン人セポイには十分に重く受け止められた。7月が進むにつれて数人の指揮官は部下から、大きな出来事が差し迫っている、という警告を受けた。政治エージェントのディーン少佐は狂信的運動の日々の進展を大きな不安とともに見守っていた。誰しも心配性な人物と思われたくはない。とりわけ常に危険と隣り合わせの辺境ではそうである。しかし結局、彼は不穏な兆候を公式に報告せざるを得なくなった。その後さまざまなポストを担当する将校に警告が発せられ、部隊は警報発令の際に持ち場に就く訓練をした。7月23日までにすべての人々は事態が脅かされていることを知らされ、あらゆる予防策を遵守するよう命じられた。しかし誰しもが最後まで蜂起には懐疑的で、発生したとしても小競り合い以上のものになるとは想像していなかった。現地人は友好的で丁寧だった。谷は豊作の好況に微笑んでいた。誰にも一週間後に起こる変化の予測、数日後に起こる命がけの戦いの推測ができなかったのは不思議なことではなかった/その平和な風景の中に火器と剣を持ち込むことになり/ポロ・グラウンドが騎兵隊の突撃の現場になり、あるいは自分たちと一緒に何ヶ月もの間静かに暮らしていた、陽気な未開人が逆上して獰猛な野蛮人になったのである。かつてこれほど完全に、これほど早く風景が変化したことはなかった。

 

そしてその間にも戦争の噂はどんどん高まっていった。18世紀のロンドンのコーヒーハウスのように、インドのバザールはいつも素敵な物語―つまり想像力に富む頭脳の作り事―で溢れている。一つの取るに足りない事実が見る影もないほど誇張され、歪められる。そこから何千ものとっぴで非論理的で空想的な結論が導かれる。これもまた事実として流布されていく。そのようにしてゲームは続く。しかし、これらすべての虚偽と根拠のない噂の中にしばしば重要な情報がひそんでいることがある。バザールの噂は単に現地人の世論を暗示しているだけではなく、真実の萌芽を含んでいることがまれではない。東洋ではニュースは不思議な経路をたどって移動する。その速度はしばしば不可解なほどである。7月が進むにつれて、マラカンドのバザールはマッド・ファキールの噂でもちきりになった。その奇跡は口から口へと、相応の尾ひれを付けて伝えられた。

 

全イスラム教徒にとっての偉大な日が近づいている。強力な男が彼らを率いるために立ち上がった。イギリス人は一掃される。新月までには一人もいなくなる。グレート・ファキールは、山中に強力な軍隊を隠している。その時が来ればこれら―騎兵、歩兵、砲兵―は勇み立って出てゆき、そして異教徒を滅ぼすのである。天国の軍勢が時期尚早にあらわになることがないよう、ムラーは特定の丘には誰も近づかないよう命令した、とさえ明言された。そのように噂は流れた。しかし、これらすべての浅薄な作りごとの中に厳粛な警告があった。

 

英国の将校および政務担当官は、部族集会について言及した報告の公式通知に注意を払うこと、そして自分の持ち場を安全にするための準備を強いられたが、深刻な事件が差し迫っているという見解について、彼らはそれぞれ個人的に調査していた。

 

7月26日の午後、マラカンド守備隊の下士官と若い将校たちは、ポロをするためにカルに向かった。そこへチャクダラ砦からラトレイ中尉も馬でやって来た。良いゲームになった。隣の村の部族民がいつものように少人数でそれを熱心に見ていた。その態度にはその考えや意図を示すものは何もなかった。若い兵士たちは何も見ず、何も知らなかった。知っていればもっと気にしなかっただろう。蜂起はないだろう。あるならなお良い。その準備はできている。ゲームは終了し、将校たちはキャンプや持ち場に戻った。

 

そのとき奇妙な出来事が起こった―これは辺境部族に特徴的な出来事である。サイス(*インド厩務員)がポロ用ポニーに敷物を載せて衣服を着せ、試合後にグラウンドをぶらぶらしていた。すると見ていた現地人が寄ってきて、戦闘がありそうだからすぐに自宅を離れるように、と勧めた。彼ら、このパシュトゥーン人たちは何が起こるかを知っていた。狂信の波が谷を一掃していた。彼らはそれに流されていた。抗う力はなかった。まるで痙攣が起こりそうなのを感じているかのように、彼らは待っていた。あまり注意深くはなかった。マッド・ファキールが到着したとき、彼らは戦って異教徒たちを殺すのである。それまではポニーを奪う必要はなかった。そして部分的に無神経な、部分的にスポーツマンのような動機から、またかすかな騎士道精神のようなものもなくはなかったがゆえに、彼らは現地人馬丁に警告を与えたのである。そして謎を悟った彼らはキャンプに無事に帰着した。

 

この同じ午後遅くに、ディーン少佐がマラカンド守備隊を指揮するメイクレジョン准将に報告した。曰く、問題は非常に重大な局面を迎えていると推測される/大きな武装集団がマッド・ムラーの旗印のもとに集まっていて、多分攻撃があるだろう。少佐は旅団を増強するためにガイド隊を呼ぶべきである、と進言した。遅滞なく進軍するように、という命令電報がすぐにマルダンに打たれた。8:30に当時連隊の上級将校だったP.エリオット・ロックハート中尉が命令を受けた。午前1:30に彼らは今や有名になった行軍を始めた。

 

ガイド隊に電報を打ってから、七時ごろ、准将は他のさまざまな指揮官と面談し、いつでも出動できる準備をしておくよう指示した。ディーン少佐はマッド・ムラーの集団が谷を下っていったことを報告し、四マイル離れたアマンダラ峠を保持することを勧告した。そこでメイクレジョン将軍は次のように出動縦隊を編成する命令を出した:―

 

     第45シーク隊

     2個中隊  第31パンジャブ歩兵隊

     砲2門   第8山岳砲兵隊

     1個戦隊  第11ベンガル槍騎兵隊

 

この部隊は第45シーク隊のマクレー中佐の指揮下に午前0時に出発することになっていて、午前3時に准将指揮下の残りの部隊に支援されることになっていた。

 

すべての準備は迅速に行われた。ワイヤーが切断される直前の―チャクダラからの電報が9:45に届いて、パシュトゥーン人の大軍勢がキャンプに向かって急速に移動している、と伝えた。15分後、徴集兵隊のジェマダール(*インド下級下士官)がニュースを持って全速力で駆け込んできた。公式ディスパッチを引用するなら「ファキールがカルを通過し、マラカンドに向かっている。徴集兵隊も人々も彼に手向かいはしない。そしてキャンプの東側の丘はパシュトゥーン人で埋め尽くされている。」

 

ポロから戻った途端、たくさんの仕事が将校たちを待ち構えていた。音楽隊と武器を携行できない少年兵たちは急いで砦に避難しなければならなかった。輸送、配給、弾薬の注文書を作らなければならなかった。やるべきことはたくさんあったが時間はなかった。やっとすべてが終わると部隊は早朝の出発に向けて待機に入った。9:30に将校たちはポロ服を着たまま夕食の席に着いた。着替える時間がなかったのである。10時には彼らは援軍の接近の見通しについて話し合い、小競り合いの可能性について真剣に検討していた。血気盛んな人物は戦いがあるだろうと断言した―小さな戦いが、それは本当だ―しかし小競り合いだろう。戦闘を未経験の者たちの多くは予期せぬその機会を喜んだ。より経験豊かな年配者は暴動という観点から事態を見た。彼らは部族民に発砲しなければならないかもしれない、しかしスワット族は非常に臆病なので決して部隊に手向かうことはできないはずである。やはりそれはチャンスだった。

 

突然、夜の静寂の中で「クレーター」キャンプの練兵場に軍隊ラッパが鳴り響いた。全員が飛び上がった。「集合」の合図だった。将校たちが剣とベルトを手に取って急いで締めている間、しばし沈黙があった。何人かはそれを単なる出動縦隊を整列させるための信号と考え、タバコに火をつけるのを待っていた。そのとき突然、四方八方から小銃のけたたましい爆音が聞こえた。そしてそれは六日間、昼も夜も止むことがなかった。

 

マラカンドへの攻撃と大辺境戦争が始まった。

 

発砲音が丘の間にこだました。こだまは今も響いている。一つの谷が音の波を受け取っては隣の谷に伝え、広い山岳地帯の全域が暴動の混乱に動揺した。細いワイヤーと長く延びたケーブルが、遠く離れた西の国々に振動を伝えた。遠いヨーロッパ大陸の人々はその中に、鈍く不調和な、衰退と没落の音色が聞こえたと思った。英国家庭の人々はその愛する者たち―息子、兄弟、夫―の死の印であるその爆発音を恐れた。外交官たちは賢明に、経済学者たちは心配そうに、愚かな人たちはいわくありげに物知りに見えていた。全員が静まり返った。しかし、それは何千人もの命が犠牲になり、何百万ポンドもの金銭が費やされるまでは成し遂げられない課題だった。

 

 

第四章:マラカンドへの攻撃

 

    「ハボック」を叫び、戦争の犬を解き放つ。

          「ジュリアス・シーザー」 第三幕・第1場

 

図2. マラカンド・キャンプのスケッチ

http://uedaeyeclinic.net/wp-content/uploads/2021/09/2.Sketch-of-the-Malakand-Camps.jpg

 

奇襲―隘路の防衛―「ラトレイのシーク隊」―中心的な位置―守備隊宿舎の戦い―コステロ中尉(V.C.)―敵の撃退―死傷者―北キャンプの避難―援軍の接近―27日の夜―セライ―クリモ中尉の反撃―慈悲深い勇気―29日の夜―敵の撃退―死傷者

 

夜間の激しい攻撃に対する抵抗は軍隊が実行を求められる中で最も困難な仕事である。あらゆる国の兵士は長い間そう認識してきた。そうした状況ではどんなに勇敢な兵士も耐えられないようなパニックが一瞬のうちに起こる。多くの勇敢な兵士が動転する。経験豊富な将校の多くが、逃亡兵の群れに気圧され無視される。戦場で死地を果敢に行軍してきた連隊は即座に恐怖に陥り、役に立たなくなる。

 

マラカンド・キャンプへの攻撃には危険と混乱のすべての要素が見られた。驚き、闇、荒れた、起伏が多い地面/未知数の敵/彼らの容赦ない凶暴性/ぞっとするような状況がすべて存在していた。しかし、その危機に対処できる兵士たちがいた。警報が鳴るとすぐに、王立人道協会の金メダル保持者で、アフガニスタンとインド辺境での長い経験を持つ第45シーク隊のマクレー中佐は守備隊宿舎に駆け寄った。そして七―八人の兵士を集め、同じ連隊のテイラー少佐の指揮下に、敵の前進を妨げ、阻止するためにブッディスト・ロードに送った。そして急いで別の数十人を集め、さらに大勢を動員するようバーフ中尉に指示を残し、テイラーの後を追って、小さなパーティーでコタルキャンプの入り口の峡谷の方向へと走った。カル平原から二本の道路がマラカンド・キャンプに通じている。二本のうち高い方のブッディスト・ロードはある地点で狭い隘路を通り、鋭い角度で曲がっている。ここか他のどこかで敵を阻止できるか、少なくとも軍の戦闘準備が整うまで時間を稼げる可能性があった。マクレー中佐はその時二十人ほどになっていたパーティーを率い、テイラー少佐を追い越して、迅速に道を下った。それは数百人の命がかかったレースだった。もし敵の軍勢が角を曲がってしまったなら、誰も彼らの突進を止めることはできず、抵抗しようとした者はバラバラにされるのである。シーク隊が最初に到着したが、ごく少人数だった。角を曲がった途端、千人近い敵の大軍に出会った。彼らは主に剣とナイフで武装していた。そして静かにこっそりと峡谷に忍び寄り、キャンプに突撃して、その中のすべての生命を虐殺することを目指し、確信していた。道路全体に荒々しい軍勢が殺到していた。マクレーは直ちに発砲した。密集した敵に致命的な距離から一斉射撃に次ぐ一斉射撃が浴びせられた。その後、シーク隊は個別に発砲した。これによって怒りに叫びわめく敵の進軍は阻止され、差し当たり停止させられた。兵士たちの小隊はその後ペースを落とし、絶え間なく発砲しながら退却して、曲がり角の後ろ約五十ヤードの切土斜面に陣取った。左翼を高い岩に、右翼を岩と暗闇の中の移動が不可能な荒れた地面に守られていた。道路は幅約五ヤードだった。部族民は角を曲がるやいなや撃ち倒された。心強い陣地だった。

 

       その隘路で千人を三人で食い止められるかもしれない

            (*マコーリーの詩「橋のホラティウス」からの引用)

 

こうして部族民は進軍を効果的に阻止されたため、左側の丘に登り、進路を妨げる兵士に岩や石を投げ始めた。彼らは角を回り込んでライフルを発射した。しかし自分自身を晒すことなしに兵士を見ることはできなかったため、弾丸のほとんどは右側にそれた。

 

シーク隊は切土斜面にびっしり詰まっていた。前列は射撃のために跪いていた。ほとんどすべての兵士に石や岩が当たった。偉大な武勇を示したテイラー少佐は致命傷を負った。数人のセポイが死亡した。マクレー中佐自身も誤って銃剣を首に刺し、血に染まった。しかし、彼は兵士に「ラトレイのシーク隊」(*1856年トーマス・ラトレイが創設したエリート部隊)の名声を守り、死ぬか連隊が現れるまでその陣地を確保するように、と叱咤激励した。そして兵士たちは、大音声のシークの雄たけびと、敵の進軍に対する抵抗で応えた。

 

二十分間の必死の戦いの後、バーフ中尉が三十人の兵士と共に到着した。彼はギリギリのところで辛うじて間に合ったのである。敵はすでにマクレー中佐の右翼(*左翼?)に回り込んでいた。そして生き残った数人の兵士の全滅が間近に迫っていた。援軍は丘の斜面を登って敵を追い返し、側面を守った。しかし連隊の残りももう近くまで来ていた。その後マクレー中佐は尾根のより広い場所、道路から約五十ヤード上まで退却し、バーフ中尉の隊に加勢して夜間のすべての攻撃を撃退した。午前2時ごろ部族民は前進を諦め、多くの死者を残して撤退した。

 

この事件で発揮された冷静沈着さ、戦術的な知識、勇気は、メイクレジョン准将の公式ディスパッチで次のように言及されている:―

 

「峡谷の中でこの小さな部隊が膨大な多勢に対して連隊からの応援が到着するまで勇敢に抵抗し、その方面からのキャンプへの突撃を防いだことは間違いない。このときのマクレー中佐とテイラー少佐の行動を私はどれほど称賛しても足りることがない。」

 

右翼がこのように経過している間、敵の他方面への攻撃はより多くの成功を収めていた。キャンプは三方面を同時に攻撃された。照明弾の輝きが北キャンプも交戦していることを示していた。敵はマクレー中佐と第45シーク隊によってブッディスト・ロードで阻止されていたが、別の大集団の男たちがグレーデッド・ロードから中央を目がけて押し入ってきた。最初の発砲音で第24パンジャブ歩兵隊は予備歩哨を出し、道路と峡谷の歩哨を二倍に増やした。しかし圧倒的な数の敵中に陥っていることにようやく気が付いただけだった。何百人もの獰猛な剣士たちがバザールと隣接する小さな囲い地であるセライの中に群がった。狙撃手たちが周囲の丘に這い登った。そしてその中でもとりわけゴツゴツした岩に覆われたジブラルタルと呼ばれるピークから途方もない銃火を放ち続けた。

 

左方面と中央、すなわちキャンプの防衛は第24パンジャブ歩兵隊に委ねられた。この連隊の一つの中隊はクリモ中尉の指揮下にサッカー場を横切って突撃し、銃剣でバザールを掃討した。このときの光景は鮮烈で恐ろしいものだった。バザールは部族民でごった返していた。大声で気合をかけてまっすぐ突撃する兵士たちは、怒り狂う敵に銃剣を突き刺した。剣で叩き切る音、不幸な店主の叫び声、ガジたちの叫び声が絶え間ない小銃射撃の響きに重なってはっきりと聞こえた。今や敵はバザールの中へ強引に戻ろうとした。しかし今やその入り口は中隊に守られていた。そして10:45頃まですべての攻撃に耐えた。その時中隊の左翼が回り込まれた。そして圧力が非常に強くなったため、彼らはより内側の防御線に引き戻され、「工兵隊の囲い」の縁に陣取った。別の中隊が北キャンプからの接近経路を守った。連隊の残りと第5中隊、すなわち工兵隊は戦線のあらゆる部分に加勢する準備ができていた。

 

それぞれの中隊の実際の動きを詳細に記録するのは必要なことである。しかし、読者には何よりも大略を理解していただきたいと私は思っている。敵はマラカンドの大カップに東側からアクセスする二つの道路から途方もない強さで攻撃をかけた。彼らは右側の道ではマクレー中佐の素晴らしい動きと連隊の勇気によって阻止された。しかし左側の道に圧倒的な力を注ぐことによってキャンプに突入し、すべての抵抗を排除した。リム(*縁)の延長線を保持することができなかった防御側はカップの底の中心的な位置に追い込まれた。この中心的な位置は「工兵隊の囲い」、兵站部のライン、野戦工兵隊の敷地で構成されている。すべての方面でリムからの火力が支配権を握っていた。窮地に立たされた防御側は自分の場所を守るためにあらゆる犠牲を払う決意を固めていたが、それは悪しきことだった。

 

その間、敵は蛮勇と闇雲な怒りをもって攻撃に殺到していた。生命知らずの彼らは細い防衛線に向かって突撃して来た。そして二度も突破を成し遂げ、囲いを突き進んだ。そこで彼らは自分たちと同様に大胆な兵士たちに出会った。死に物狂いの戦いになった。将軍自らがポイントからポイントへと急行し、兵士を激励して剣とリボルバーで防御に加わった。敵は兵站部のラインに侵入するとすぐに略奪と犠牲者を求めて兵舎と倉庫に突進した。

 

兵站将校マンリー中尉は頑なに持ち場に固執した。そしてハリントン軍曹と一緒に自分の住む兵舎を守ろうとした。獰猛な部族民がドアを破って部屋になだれ込んだ。その後のことはロマンスを読んでいるようである。

 

中尉は直ちにリボルバーを発射した。彼はたちまち切り倒され、バラバラにされた。格闘でランプが壊れた。漆黒の闇が部屋を覆った。軍曹は襲撃者を倒し、一旦自由になった。そして壁に向かって身じろぎもせずに立った。マンリーを殺した後、今や部族民は壁伝いに手を伸ばし、暗闇の中を手探りで軍曹を探し始めた。結局誰も見つからなかったため、敵は軍曹が逃げたと結論した。そして他の獲物を探すために飛び出していった。数時間後に兵舎が再奪取されるまでハリントン軍曹はそこに留まって救助された。

 

別の激しい攻撃が守備隊宿舎に対して行われた。工兵中隊とともにそれに立ち向かったワトリング中尉はガジを剣で刺し貫いた。しかし狂信者はあまりに怒っていたため、死に際に切りつけて中尉に重傷を負わせた。中隊は撃退された。守備隊宿舎が占領されて工兵隊の予備弾薬が奪われた。ワトリング中尉は部下に運ばれて仮包帯所に着くと、すぐにこの重要な持ち場の喪失を報告した。

 

メイクレジョン准将はすぐにそれを敵から奪回することを第24隊に命じた。防衛線のどこにも予備の兵士はほとんどいなかった。ようやく小さいながらも献身的な一隊が集められた。それはホランド大尉、クリモ中尉、マンリー中尉(技術部隊)、准将の従卒、第45シーク隊のセポイ、二―三人の工兵、そして第24隊の三人の兵士、という約十二人で構成されていた。

 

准将は自らリーダーを務めた。将校たちはリボルバーを抜いた。兵士たちは銃剣だけを使用するよう指示された。そして彼らは進んだ。地面は元々起伏が多く、異常なほどに雑然としていた。大岩、起伏、木がすべての動きを困難にしていて、多くのテント、小屋、その他の建物が複雑さを増していた。そういう環境の中に多数の重武装した敵がいたのである。十二人は突撃した。部族民は彼らに対抗して前進した。将校たちは拳銃で敵を次々と撃ち殺した。兵士たちは銃剣で突いた。敵は戦闘不能になって引き揚げた。しかし、部隊の半分は死傷していた。従卒は射殺された。第24隊の工兵とハビルダー(*インド軍曹)は重傷を負った。准将自身は剣で首を打ち据えられた。幸運にも攻撃者の手の中で武器の向きが変わったため、打撲傷で済んだ。ホランド大尉はテントに隠れていた男に近距離から背中を撃たれた。弾丸は四カ所を傷つけ、背骨をかすめていた。部隊は今では数が減りすぎて何もできなくなった。生存者は動きを止めた。クリモ中尉は負傷した将校を収容した。そして第24隊からさらに十二人の兵士を集めて攻撃に戻った。守備隊宿舎を取り戻すための二回目の試みも失敗した。兵士たちはさらなる損失を被って後退した/しかし、敗北を受け入れないその不屈の精神で彼らは努力を続けた。そして三回目の突撃で開放空間を疾走し、敵を打倒し押し返して、ついに守備隊宿舎を奪還した。ただし、すべての弾薬は敵によって運び去られていた。その夜の損害はすでに莫大だったがそれはさらに重大な損失だった。兵站部のラインからようやく部族民が排除された。動員可能な守備隊員を用いて、囲いの南の入り口を塞ぐ急拵えの防備が作られた。また敵に奪取される可能性のある調理室や他のシェルターが除去された。

 

翌朝、調理室の周りと、三回の突撃が行われた開放空間で、二十七人以上の部族民の死体が見つかった。おそらく二倍の敵が負傷し、這って逃げたことを思い出すなら、このことから守備隊宿舎における戦いの死に物狂いの様相が推測できるだろう。

 

この間ずっと、リムからカップの中への火力は深刻で継続的な損害をもたらしていた。囲い地を三方向から取り囲んだ敵は、防御側を十字銃火で圧迫して、胸壁まで頻繁に突進して来た。全ての方向に弾丸が飛び交っていた。そして避難できる場所はなかった。D.A.A.G.のハーバート少佐は夜の早い時間に被弾した。その後ラム中佐は太ももに危険な傷を負い、数日後に死に至った。多くのセポイも死傷した。第24パンジャブ歩兵隊の指揮は、準高官であるクリモ中尉に委ねられた。しかし連隊にとって事態は好転しそうもなかった。

 

およそ一時頃、発砲の小康状態の間に、囲いの東面に並んでいた中隊が弱々しく助けを求める叫び声を聞いた。第24隊の負傷したハビルダーがバザールの近くに横たわっていた。彼は最初の攻撃で肩を撃たれて倒れていたのだった。部族民は彼を剣で二―三度深く切りつけ、死ぬものと思って放置していた。今助けを求めていたのは彼だった。彼が横たわるサッカー場には銃火が吹き荒れ、敵の剣士が群がっていたが、助けを呼ぶ叫びは無視されなかった。第24パンジャブ歩兵隊のE・W・コステロ中尉は二人のセポイを連れて致命的なスペースに走り出した。そして激しい銃火をものともせず、負傷した兵士を安全な場所に移した。彼はこの英雄的な行動によって後にビクトリア十字章を受けた。

 

夜が深まるにつれて敵の攻撃が激しくなったため、准将は砦の守備隊に百人の兵士の増援を要請することにした。この堡塁は丘の上に立っていて、野砲を装備していない敵に対しては難攻不落だった。到達を試みる命令にローリンズ中尉が志願した。彼は三人の従卒を伴って出発した。通り抜けなければならないのは敵が跋扈する非常に荒れた地面だった。一人の男が飛びかかって来て彼の手首を剣で打ったが、リボルバーで射殺された。彼は無事に砦に到達し、切望されていた増援部隊を連れて戻った。

 

アフガニスタンの部族が通常するように、敵は夜明け前に囲い地を占領するための最終的努力をすると予想されていた。しかし彼らの損害は甚大だった。そして午前3:30頃に死者と負傷者を運び去り始めた。それでも射手たちが高所へ後退し、一斉射撃が減少して遠距離からの「狙撃」に移る午前4:15まで射撃は弱まらなかった。

 

マラカンド・キャンプ防衛の最初の夜は終わった。敵は不意打ち、位置取り、多勢という利点をすべて備えていたが、貧弱な守備隊に勝利を収めることはできなかった。あらゆる場所で彼らは完敗して撃退された。しかし、英国側の損失も深刻だった。

 

               イギリス軍将校

    名誉戦死     L・マンリー中尉、兵站部

    危険な負傷    W・W・テイラー少佐、第45シーク隊

    重傷       J・ラム中佐、第24パンジャブ歩兵隊

             L・ハーバート少佐、D.A.A.G.

             H・F・ホランド大尉、第24パンジャブ歩兵隊

             F・W・ワトリング中尉、工兵隊

          ラム中佐とテイラー少佐は負傷により死に至った。

            

                現地兵

    死亡・・・・ 21

    負傷・・・・ 31

 

朝の最初の光が谷に差し始めるとすぐに第24隊の二個中隊が前進し、敵が略奪のためにまだ残っていたバザールを掃討した。その場所全体が徹底的に略奪され、価値のあるものはすべて破壊されるか運び去られていた。現地人の店主は誰も羨ましがらないような奇妙な経験をしていた。等しい英国軍の弾丸と敵の剣の危険と恐怖の夜の間中ずっと、彼はテントの後ろに隠れていた。敵意のない声を聞いて、彼は避難場所から無傷で出てきた。

 

部族民による散漫な発砲が終日続いた。

 

このように緊迫した決死の戦闘が南キャンプで猛威をふるっている間、北キャンプは激しく交戦しておらず、不安ではあるが静かな夜を過ごしていた。コタルでの発砲音が聞こえると第8山岳砲兵中隊の四門の砲がキャンプの南東側に移動し、何発かの照明弾を発射した。しかし、敵の大きな集団は発見されなかった。部族民は夜間に二度キャンプに接近してきたが数発の榴散弾で十分追い払うことができた。

 

メイクレジョン将軍は北キャンプの駐屯部隊が激しく交戦していないことに気づいた。そこでギブス少佐の下に二門の砲と第31パンジャブ歩兵隊からなる部隊を編成すること、そして第11ベンガル槍騎兵隊の四十人の騎兵の援護を受け、第24隊の側面部隊に支援されつつ、出動して谷を偵察し、できる限りの敵を掃討するべし、という命令を出した。縦隊は追撃しながらベッドフォード・ヒルまで進出した。ここで彼らは部族民の大集団に出くわした。今や大規模な部族的蜂起が起こったことは明らかだった。そこでギブス少佐は引き返して装備と部隊を遅滞なくコタルキャンプに移動させるよう命令した。歩兵隊と砲は撤収し、第24パンジャブ歩兵隊に護られているキャンプまで退却した。

 

この連隊の撤退中にブッディスト・ロードの上の高地から中隊の左翼に向けて突然の攻撃があった。すぐに戦端が開かれ、第24隊は攻撃者と交戦するため前進した。指揮をとるクリモ中尉は一個中隊を右翼に進出させた。そしてこの旋回運動によって敵にいくらかの損害を与え、旗を奪って撃退した。この退却時におけるこの将校の技量と行動は、再びディスパッチにおける称賛の対象となった。中隊は約11時にそれぞれのキャンプに到着した。その間、騎兵隊は可能であればチャクダラに進軍し、その駐屯地の守備隊を補強するよう命じられていた。この任務は非常に危険なものだったが、スワット川を何度か渡ることで戦隊は何とか部族民の間を通り抜け、わずかな損失で砦に到着した。この華麗な騎行については後の章でそのすべてを記述する。

 

北キャンプの避難は非常にゆっくりと進んだ。それぞれの中隊は非常に慎重に装備を梱包し、輸送の申請を行なった。しかし利用できる手段はなかった。すべてのラクダは山の向こう、インド側のダルガイにいた。急げ、との命令が繰り返しコタルから出された。温情主義の支配者の鷹揚さを信じることができなかったため、全ての者は所有物を置き去りにすることを嫌がった。午後を過ぎると、敵の様相は非常に切迫して手に負えないものとなった。大勢の男たちがキャンプに近づいてくるため野砲は数多くの砲弾を発射せざるを得なかった。結局4時の時点で北キャンプをすぐに放棄すること、そこにいる部隊はコタルに退却すること、まだ移動していないすべての荷物と備品はそのままにしておくこと、という緊急命令が発せられた。

 

すべてのテントは攻撃されたが、何もできることはなかった。そして、すべての将校と兵士の深い嫌悪とともにその財産は敵の慈悲に委ねられた。夜の間にそれはすべて略奪され、燃やされた。こうして将校の多くが所有する衣類を根こそぎ失った。破壊の現場から立ち昇る炎は広く遠くから見ることができた。そして最も遠い谷の部族民ですら呪われた異教徒の虐殺の完了を急ぐよう鼓舞された。

 

しかし、中隊の集合が分別ある賢明な一歩だったことは疑う余地がない。コタルと南キャンプの守備隊は数が足りていなかった。そして何があったとしてもそれぞれの中隊が一緒に立ち上がったり倒れたりする方が良い。ウトマン・ケル地域からの多数の部族民が現れ、キャンプの西側の丘に密集したことによって状況はさらに悪化した。守備隊は大幅に延長した防衛線を維持することを強いられた。北キャンプの放棄は早すぎではなかった。敵は撤退中の部隊に攻撃をしかけて来た。彼らは第24パンジャブ歩兵隊とガイド騎兵隊の銃火に守られて南キャンプに到着した。後衛は一晩中行軍した後、朝8:30にキャンプに到着した。彼らにはやるべきことが沢山あった。

 

電報はその夜のニュースを世界中に伝えた。イギリスではグッドウッド(*イングランド南部ウェスト・サセックス州チチェスターにある競馬場)の競馬レースから戻ってきた人たちが夕刊紙の貼り紙で戦闘の最初の詳細を読んだ。シムラのインド政府は目を醒ました途端、一つの重大な仕事に直面したことを知った。すべての将校を自分の連隊に帰らせ、増援部隊を道路と鉄道で現場へ向かわせるための電報が打たれた。27日未明、ノウシェラの第11ベンガル槍騎兵隊の将校たちは、機械が打ち出したニュースに肝をつぶした大慌ての電信技官に叩き起こされた。興奮した目つきのシャツ一枚のこの男は、弾を込めていないリボルバーの銃身を掴み、走り回って全員を目覚めさせた。国中が沸き立っている。マラカンド守備隊は数千人の部族民に圧倒されている。すべての中隊はすぐに行軍するべきである。彼は受け取ったワイヤーのコピーを振り回した。しばらくして公式の命令が届いた。第11ベンガル槍騎兵隊、第38ドグラ隊、および第35シーク隊は夜明けに出発した。第1および第7英国山岳砲兵中隊も命令を受けた。ガイド騎兵隊はすでに到着していた。ロックハート中尉の二個歩兵隊は灼熱と息苦しい粉塵にもかかわらず十七時間半で三十二マイルを踏破して、27日の午後7:30にコタルに到着したのである。この素晴らしい偉業は兵士の能力を損なうことなく達成された。兵士は哨兵線に送られ、到着とともに任務に着いた。ダルガイ駐屯地を指揮する将校は私に言った。そこを通過するとき、彼らは武器をパレードのような精度で揃えて担いでいた。世界で最も暑い太陽の下の二十六マイルの行軍さえガイド隊を打ち負かせないことを示すかのようだった。そして彼らは一歩ごとに大きくなる銃声に励まされながら、峠の頂きへの長い坂を登って行ったのである。

 

こうしてたくさんの援軍ができる限りの速度で近づいていた。しかしその間にも守備隊は孤立し、ありうる限り最悪の危険に直面しなければならなかった。北キャンプを最後に発った第31パンジャブ歩兵隊がコタルに到着すると、約1000人の部族民が白昼に最大の大胆さで急襲して来て左翼を脅した。彼らは第24隊の二つの哨兵線に攻撃をかけ、ぐいぐいと前進して来た。それに対抗するためクリモ中尉は二個中隊を率いて砲に支援されながら丘を登った。銃剣突撃は完全な成功を収めた。将校たちは十分な近距離からリボルバーを効果的に使用することができた。九人の敵が地面に残され、旗が奪取された。部族民は引き揚げた。そして守備隊は夕闇とともにやってくることが予測される攻撃に備えた。

 

夕方が近くなるにつれて、かつてないほどの数の敵が集まってくるのが観察された。大群衆がチャクダラ・ロードから押し寄せてきて、丘の白い斑点が濃くなるのが見えた。彼らはみなまだ白を着ていた。このニュースはブナーには届いておらず、アンベイラの黒ずんだ装いの戦士たちはまだいなかった。北キャンプの炎のまぶしさは、たちまち彼らを古来の敵への攻撃へと駆り立てた。黄昏の光景は奇妙で不吉ではあったが絵画的でなくはなかった。周囲の丘にはあらゆる色、形の趣向を凝らした派手な旗印が翻っていた。尾根と小尾根の後ろでは剣が日没にきらめいていた。攻撃の準備のために忙しく移動する大勢の敵の姿が見えた。狙撃手たちが降らせる落下弾は適切な伴奏だった。中央のカップの底には、「クレーター」キャンプとメインの囲いがあり、夕餉の煙が立ち上っていた。各部隊はそれぞれの持ち場に移動した。そして影が長くなるにつれて、発砲は大きく絶え間ない咆哮へと膨れ上がった。

 

27日夜の中隊の配置は以下の通り:―

 

一.右翼のマクレー大佐は、第45シーク隊とガイド歩兵隊100人に支援された二門の砲でブッディスト・ロードにまたがってほぼ同じ位置を保持していた。

 

二.中央で囲いとグレーデッド・ロードの防御に当たったのは―

     第31パンジャブ歩兵隊

     第5中隊Q.O.(*女王陛下の)工兵隊

     ガイド隊

     二門の砲

 

三.左翼ではクリモ中尉の指揮下に、残った二門の砲を擁する第24パンジャブ歩兵隊が放棄された北キャンプと砦の間の通路を保持した。

 

リムの大部分を占める、延長された戦線のほとんどには哨兵線が並んでいた。それらは互いに離れていて、後方からの支援を受けながら、石造りの胸壁で防備を固めていた。しかし、中央では「工兵の囲い」の古いラインで戦線が膠着していた。バザールは敵の手に渡っていたが、メインの塹壕の約百ヤード手前のセライはサバダー(*インド大尉)・サイード・アーメド・シャー指揮下の第31パンジャブ歩兵隊の二十四人からなる小哨に保持されていた。ここでその夜、悲劇が起こった。

 

八時、部族民がすべての戦線に途方もない力で攻撃をかけてきた。発砲はすぐに激しく連続的なものになった。中隊による弾薬の消費は非常に多く、何千発もの弾丸が射出された。右翼ではマクレー大佐指揮下のシーク隊に対して剣士が繰り返し突撃した。その多くは哨兵線への突入に成功したものの、銃剣の餌食になった。二門の砲にたどり着いた者は砲兵を攻撃しようとしたが切り伏せられた。すべての突撃は撃退された。部族民はひどい損失を被った。シーク隊の死傷者も深刻だった。午前中マクレー大佐は彼の遮蔽物から前進し、二門の砲に守られて目前の敵を掃討した。

 

中央は再び激しい戦闘になった。部族民はバザールになだれ込み、セライを全方向から攻撃した。ここは約五十ヤード四方の泥壁の囲いだった。小銃射撃の銃眼があったが、側面の防御機能はなかった。敵はその場所を占領するため数時間かけて奮闘する決意をした。一方、メインの囲いの中隊は途方もない銃火を放っていたので、セライに対する攻撃にほとんど気が付かなかった。その哨兵線は六時間にわたってすべての攻撃に耐えたが、側面の防御機能がなかったため敵が壁に近づくことが可能だった。そこで彼らは壁に抜け穴を開け、下に潜り込んで来るようになった。小さな守備隊はあちこちに駆けつけ、これらの攻撃を撃退した。しかし、それはふるいの水漏れを防ぐようなものだった。ついに部族民は数カ所からなだれ込み、中の小屋に火を放った。防御側が死傷して残りが四人になったとき、自らも被弾したサバダーは避難を命じた。生存者は負傷者を背負い、梯子で背後の壁を越えて逃げた。殺された者の遺体は翌朝、異常に損壊された姿で発見された。

 

苦い結末に至るまでこの持ち場を守ったことは、見事な武勲と見なさなければならない。サバダー・サイード・アーメド・シャーは際立った勇敢な行動によって昇進した最初の将校になった。そしてこのときの彼の勇ましい振舞いはディスパッチの特別な一節のテーマになっている。[サバダーと生き残ったセポイはこれにより「功労勲章」を受け取った。]

 

左翼では第24パンジャブ歩兵隊も激しく交戦しており、コステロ中尉は弾丸が背中と腕を貫通するという最初の重傷を負った。朝にかけて敵の圧力が強くなってきた。そこで常に大胆で力強い行動をする傾向のあるクリモ中尉は二個中隊を率い、彼らに対抗するため胸壁から前進した。部族民は後退することなく、マルティニ・ヘンリー・ライフル(*1871年、イギリス軍制式採用。インド北西辺境で数多く複製された。)で絶え間ない発砲を続けた。彼らはまた中隊の上に大きな石を転げ落とした。第24隊は前進を続けた。そしてポイントからポイント、陣地から陣地へと敵を追いやって二マイルを追撃した。最初の逆襲の突撃が行われた「ギャロウズ・ツリー(*首くくりの木)」の丘は約1000人の部族民に保持されていた。この密集した集団にとって隊の銃火は命とりだった。敵はクリモ中尉の逆襲の進路に四十人の死者を残し、多くの負傷者を運び去ったことが観察された。彼らは退却すると多くがジャラルコットの村に逃げ込んだ。砲が急行した。そして十発の破裂弾を彼らの真ん中に撃ち込んで叩きのめした。この大胆な一撃の結果、敵は戦闘中以外、日が差して軍の攻撃が可能になる前に常に丘から撤退するようになった。

 

こうしてマラカンド守備隊は部族民の猛攻撃を撃退することに再び成功した。多くの敵が死傷したが、周囲百マイルのすべての部族民が急いで攻撃に参加してきたため、その数はすぐに増加した。

27日夜の死傷者は以下の通り:―

 

                イギリス軍将校

      負傷  E.W.コステロ中尉

 

                 現地兵

      死亡・・・・ 12

      負傷・・・・ 29

 

日中、敵は疲れを取るためカルの平原に後退した。今や多数のブナヴァル族が集会に参加していた。この新来者が黒または紺色の服を着ていたため、守備隊は彼らをスワット族、ウトマン・ケル族、マムンド族、サラルザイ族などと見分けることができた。それぞれの隊は防御の強化とシェルターの改善に従事した。部族民は擾乱攻撃や忌々しい長距離射撃を続け、ガイド騎兵隊の馬を数頭殺した。夕方にかけて彼らは何百もの旗幟を運び、新たな攻撃のために前進してきた。

 

暗くなると正面全体に対する激しい射撃が再開された。敵は明らかに十分な弾薬を持っていて、隊の猛射に効果的に応酬した。連隊の配置は前夜と同じだった。右翼では、マクレー大佐が再びすべての攻撃に対して持ち場を保持した。中央では、激しい戦闘が続いた。敵は囲いの胸壁まで何度も何度も突進してきた。彼らは侵入に成功しなかった。しかし、三人の将校と数人の兵士が火災で負傷した。一時的に第31パンジャブ歩兵隊に所属していた、ガイド騎兵隊のマクリーン中尉は素晴らしい危機回避を遂げた。弾丸が口から入ったが、骨を傷つけることなく頬を通過したのである。彼は勤務を続け、数週間後のランダカイにおけるその悲劇的でありながら栄光ある戦死を本書は記録することになる。

 

フォード中尉は肩に危険な傷を負った。弾丸が動脈を切断し、J.H.ヒューゴ軍医将官が助けに来たとき、彼は失血によって死に瀕していた。火は照明として使用するには熱すぎた。そこにはいかなる種類の遮蔽物もなかった。そこはカップの底だった。それにもかかわらず外科医は生命の危険を冒してマッチを擦り、傷を調べた。マッチは弾丸が辺り一面にホコリを巻き上げ、バチバチと音を立てている真っ只中で取り出されたのだが、その不確かな光によって彼は怪我の状態を見た。将校はすでに失血によって気を失っていた。医師は動脈を捉え、結紮糸がないため銃火の中で三時間もの間、指先で人の命を握っていた。やがて敵がキャンプに侵入したように思われたとき、彼はまだ意識のない将校を腕に抱えて圧迫を緩めることなく、安全な場所に移した。その腕は動脈の圧迫に尽力した影響で何時間も麻痺し痙攣していた。

 

どのような視点や関心を持っていたとしても、この輝かしい献身的行為を称賛しない人物はいないだろう。内科と外科は常に人が選び取ることができる最も高貴な職業に位置づけられるべきである。戦闘中に医師が兵士たちとともに、同じ危険を冒し、同じ勇気を持って、他のすべての人々が命を奪い合っている場でそれを守り、他のすべての人々が痛みを起こそうとしている場でそれを和らげている光景は、神の目にも人の目にも常に輝かしいものに映るはずである。人がこの世を去って、未知の冒険に乗り出した方が良いようなどんな状況をも想像することはできない。

 

敵は一晩中攻撃を続けた。彼らはしばしば胸壁に達することに成功し―ただ防御者の銃剣で死んだだけだった。砲は散弾を発射し、恐るべき効果を上げた。朝が明けたときその場所は帝国軍によってまだ保持されていた。夜間の犠牲者は以下のとおり:―

 

              イギリス軍将校

   重傷―      H.B.フォード中尉  第31パンジャブ歩兵隊

            H.L.S.マクリーン中尉  ガイド隊

   軽傷―      G.スウィンリー中尉  第31パンジャブ歩兵隊

 

              現地兵

   死亡・・・・  2

   負傷・・・・ 13        

 

29日の朝、チャクダラとの信号通信がしばらくの間、再び確立された。守備隊は自らの無事と、大きな損失を被ってすべての攻撃を撃退したが、弾薬と食糧の両方が不足していることを報告してきた。日中、敵は再び平野に後退して休息し、その夜に企てている大攻勢の準備をしていた。幸先は良かっただろう。その日はモハメッドが信仰のために死んだ人々の利益に特別な注意を払うジュマラットだった。その上、満月だった。偉大なファキールはこれが勝利の時であると宣言しなかっただろうか?ムラーは総員に最大限の努力を促し、攻撃を自ら率いると宣言した。今夜異教徒を完全に滅ぼすのだ。

 

その間、それぞれの中隊は恐るべき疲労にもかかわらず、防御を強化するために忙しく働いていた。バザーとセライは平坦にされた。木々が爆破されて、中央の囲いの前方は開けた射界にされた。敵が光に対してシルエットになり、兵士が襲撃者に良く狙いをつけることができるよう、接近経路に大きな篝火が用意された。そういった仕事でその日は過ぎた。

 

部族民は遠距離からの射撃を続け、数頭の馬とラバを撃った。この狙撃手たちは大いに楽しんだ。チャクダラの救援の後、その多くが岩の間に最も快適で効果的なシェルターを作っていたことがわかった。特に一人の男は巨大な岩の後ろに納まって、射撃時に身を守るために銃眼のある小さな石の壁を建てていた。張り出した岩は彼を太陽の熱から守っていた。その側には食糧と弾薬筒の大きな箱があった。ここで彼は一週間の間、キャンプに着実に弾丸を撃ち込み、将校がすべての「興味の対象」と表現したものを狙撃していたのである。こんなに魅力的なものが他にあるだろうか?

 

午後四時に、第11ベンガル槍騎兵隊の指揮官スチュアート・ビートセン少佐が、その主要な戦隊と共に到着した。彼は少量の弾薬を持ち込んだ。毎晩の消費は莫大であり、一部の連隊は30,000発の砲弾を発射していたので、守備隊はそれを非常に必要としていた。リード大佐指揮下の第35シーク隊と第38ドグラ隊は夕方、峠のふもとにあるダルガイに到着した。彼らは最も強烈な暑さの中を一日中行軍していた。行軍がどれほどひどいものだったかということは、道中で実際に第35シーク隊の二十一人の兵士が熱中症で死亡したという事実から判断できるだろう。これらの兵士が死ぬまで行進したという事実は、すべての兵士が最前線に立とうとする軍人らしい熱意を示していたことの傍証である。メイクレジョン准将は目下の部隊で持ち場を守ることができる確信があったため、彼らにダルガイで停止し、翌日は休むよう命令した。

 

夜とともに攻撃が始まったが、中心部の防御は大幅に改善されていた。そして部族民は囲いの前に広がった見通しの良い斜堤を全く通過できなかった。しかし、彼らは意を決して両翼を攻撃して来た。あらゆる場所で発砲が激しくなった。午前2時に大規模な攻撃が行われた。正面全体に、そしてあらゆる側面に膨大な数の敵が群がって攻撃を行った。左右両翼では、白兵戦が行われた。マクレー大佐は再び彼の持ち場を維持した。しかし部族民の多くはライフルの銃口の下で死んだ。左翼の第24パンジャブ歩兵隊が最も激しく交戦していた。敵は胸壁に侵入することに成功し、接近戦が起こった。コステロ中尉が再び重傷を負った。しかし、隊の銃火はあまりに激しく、その前では何者も生存することはできなかった。2:30にマッド・ムラーが負傷し、別のムラーが殺された。そして数百人の部族民が殺され、すべての攻撃が崩壊した。そして力強い攻撃はその後二度となかった。敵は、マラカンドを奪取するチャンスを逃したことを悟った。

 

29日夜の犠牲者は以下の通り:―

 

              イギリス軍将校

   重傷―   E.W.コステロ中尉、第24パンジャブ歩兵隊、

    すでに重傷を負っていたが、義務を果たすために任務を継続していた

         F.A.ウィンター中尉、王立砲兵隊

 

              現地兵

   死亡・・・・  1

   負傷・・・・ 17

 

翌日、敵が彼らの村まで丘を越えて、死者を引きずり、負傷者を運んで行くのが見られた。増援が加わり、午後9:30に彼らは攻撃を再開したが、気迫に欠けていた。彼らは再び損害を被って撃退された。一度雷雨がキャンプを襲っている間に彼らは第45シーク隊の持ち場に突撃したが、銃剣で追い払われた。夜間の負傷者は二人だけだった。

 

朝、第38ドグラ隊と第35シーク隊がキャンプに入った。敵は遠距離から塹壕に発砲し続けたが、効果はなかった。明らかに彼らはマラカンドは強力すぎて奪取できないことに気づいていた。隊は静かな夜を過ごし、疲れ果てて精も根も尽き果てた兵士らは不足していた睡眠を少しばかり補った。このようにマラカンドのイギリス辺境基地への長く持続的な攻撃は衰え、終息した。この場所での完敗にうんざりした部族民たちは、彼らが必ず奪取できると信じたチャクダラにエネルギーを集中した。この難局に陥った駐屯地を救援することが現在のマラカンドの守備隊の義務になった。

 

そろそろ終了するこの章は、詳細にそして必然的に長々と、私たちの帝国の前哨基地の防衛について記述した。奇襲とそれに続く持続的な攻撃に対する抵抗がなされた。敵はあらゆる地点において撃退され、その試みを放棄したが、防御側を取り囲み注意深く監視している。軍は攻勢を取り、報復の時間が始まろうとしている。

 

7月26日から8月1日までのマラカンド守備隊の死傷者は以下のとおり:―

 

          イギリス軍将校 死亡と負傷後の死亡― 3

      J.ラム中佐、第24パンジャブ歩兵隊

      W.W.テイラー少佐、第45シーク隊

      L.マンリー中尉、兵站部

                   負傷― 10

      L.ハーバート少佐、D.A.A.G.

      G.ボールドウィン大尉 D.S.O.(*殊功勲章)ガイド騎兵隊

      H.F.ホランド大尉、第24パンジャブ歩兵隊

      F.A.ウィンター中尉、王立砲兵隊

      F.W.ワトリング中尉、王立工兵隊

      E.W.コステロ中尉、第24パンジャブ歩兵隊

      H.B.フォード中尉、第31パンジャブ歩兵隊

      H.L.S.マクリーン中尉、ガイド騎兵隊

      G .G.スウィンリー少尉、第31パンジャブ歩兵隊

      C.V.キーズ少尉、ガイド騎兵隊

 

               現地将校 負傷― 7

 

             死傷した将校の総数― 20

 

          イギリス軍下士官 死亡

      F.バーン軍曹、王立工兵隊

 

                現地下士官および兵

                  死亡   負傷

  第8ベンガル山岳砲兵中隊     0    5

  第11ベンガル槍騎兵隊      0    3

  第5中隊女王陛下の工兵隊     3   18

  第24パンジャブ歩兵隊      3   14

  第31パンジャブ歩兵隊     12   32

  第38ドグラ隊          0    1

  第45シーク隊          4   28

  女王陛下のガイド歩兵隊      3   27

 

  下士官と兵の死傷者総数―      153

 

 

第五章:チャクダラの救援

 

図3. 8月1日の騎兵隊の戦闘のラフ・スケッチ

http://uedaeyeclinic.net/wp-content/uploads/2021/09/3.Rough-Sketch-of-the-Cavalry-Action-of-1st-August.jpg

 

環境の力―マラカンド野戦軍の編成―ビンドン・ブラッド卿―チャクダラの危機―チャクダラ救援の最初の試み―将軍の到着―将軍の配置―地形の鍵―8月2日の朝―敵の掃討―騎兵隊の追撃―復讐―チャクダラの救援―死傷者

 

 

前章に記した出来事を、世界のすべての地域が関心と注意を払いながら注視している間、それは総督評議会の気掛かりな協議の対象になっていた。必然的にアフガニスタン国境の部族とのより切迫した、より複雑な関係をもたらすことになる、大規模な軍事作戦の可能性を総督自身が嫌悪するのは当然だった。彼は母国において、平穏と節約の政策に情熱的に、いたずらに、そしてしばしば無分別に固執した政党に属していた。すべての経済状況が軍事的行動に乗り出すことに対する彼の嫌悪感の後ろ盾となっていた。これほどふさわしくない瞬間は他になかった:これほど気が進まない人物は他にいなかった。最大の辺境戦争の年として大英帝国領インドの歴史に刻まれることになるだろうエルギン卿(*1849年生、自由党)の総督府と飢饉の年(*1896~97年)は、いかにその動機が熱烈だったとしても、いかにその権限が強大だったとしても、いかに一個人が実際に国家的事件の進路をコントロールすることができないか、ということをありありと示している。

 

評議会はこのたちまち辺境政策に最も広範かつ複雑な問題を引き起こし/多大な費用を伴い/彼らが管理する大きな人口の発展と進歩に大きな影響を与える可能性がある事態について決定を下すことを迫られた。そのような問題は細部をその重要度によって適切に整理し/過去を吟味し、未来を予測するために/最も高遠な、見通しの利く観点から検討することが望ましいであろう。それでも状況全体をこのように見ようとした人々は何千人もの獰猛な襲撃者に囲まれ、小銃射撃の白煙に巻かれ、弾痕のついたチャクダラの岩の様子にすぐに直面させられた。守備隊は見捨てられないことを固く信じて命がけで戦っていた。これ以上傍観することは不可能だった。すべての政府、すべての為政者は同じ困難に直面する。原則、政策、経過、経済に関する幅広い検討事項は性急な緊急事態の際には脇に追いやられてしまう。決断は即座に為されなければならない。政治家は出来事に対処する必要がある。単にそれらを記録するだけの歴史家は、成功した日和見主義の例を持ち出して自らの方策を組み立て、暇をつぶすことだろう。

 

7月30日に次の命令が公式に発表された。「評議会の総督は、マラカンドと近接する駐屯地を守り、必要に応じて近隣の部族に対して軍事行動をとる目的で軍を派遣し、マラカンド野戦軍と称することを裁可する。」

 

部隊は次のように構成された:―

 

                        第1旅団

   指揮―W.H.メイクレジョン大佐 C.B.(*バス勲章コンパニオン) C.M.G.(*聖マイケル・聖ジョージ勲章) 地位は現地准将

          第1大隊王立西ケント連隊

          第24パンジャブ歩兵隊

          第31パンジャブ歩兵隊

          第45(ラトレイ)シーク隊

          第1英国野戦病院のセクションAおよびB

          第38現地野戦病院

          第50現地野戦病院のセクションAおよびB

 

                  第2旅団

   指揮―准将P.D.ジェフリーズ C.B.

          第1大隊 東ケント連隊(バフ隊)

          第35シーク隊

          第38ドグラ隊

          ガイド歩兵隊

          第1英国野戦病院のセクションCおよびD

          第37現地野戦病院

          第50現地野戦病院のセクションCおよびD

 

                  師団

          4個戦隊、第11ベンガル槍騎兵隊

          1戦隊、第11ベンガル槍騎兵隊

          2個戦隊、ガイド騎兵隊

          第22パンジャブ歩兵隊

          2個中隊、第21パンジャブ歩兵隊

          第10野戦中隊

          砲6門、第1英国山岳砲兵中隊

          砲6門、第7英国山岳砲兵中隊

          砲6門、第8ベンガル山岳砲兵中隊

          第5中隊マドラス工兵隊

          第3中隊ボンベイ工兵隊

          第13英国野戦病院のセクションB

          第35現地野戦病院のセクションAおよびB

 

                  連絡線

          第34現地野戦病院

          第1現地野戦病院のセクションB

[この師団は全体で6800の銃剣、700の槍やサーベル、24の砲を利用できる野戦兵力になった。]

 

この強力な部隊の指揮権は現地少将の地位を付与されたビンドン・ブラッド准将 K.C.B.に委ねられた。

 

この将校は私が語るべき物語の主人公なので、彼を読者に紹介するための余談が必要だろう。ビンドン・ブラッド卿は今や彼がその一族の長である、アイルランド西部で300年間続くアイルランド人の古い家系に生まれた。そして私立校とアディスコムのインド軍事大学で教育を受け、1860年12月王立工兵隊の将校に任官した。最初の十一年間、彼はイギリスに駐留していたが、1871年に初めてインドに赴任した。そしてジャワキ・アフリディ遠征で初めて従軍を経験した。(クラスプ(*功績の内容が刻まれた留め金)付きメダル)1878年に彼は帰国した。しかし翌年ズールー戦争への従軍を命じられた。数々の戦闘の結果、二度目のメダルとクラスプを獲得することになった。そして再びインドに向けて出航し、1880年のアフガニスタン戦争全体を通して服務し、しばらくカブールの部隊に所属していた。1882年にはエジプトに行く陸軍に同行し、テル・エル・ケビールで最も激しく戦ったハイランド旅団と行動を共にした。そしてメダルとクラスプ、ケディブの星、メジディー3等勲章を受け取った。(*二つはオスマン帝国の勲章)遠征の後、彼は二年間帰国した。その後、1885年にロシアとの戦争の気配があった東方に向かって海を渡った。それ以来将軍はインドに居て、最初は自らその再編成に直接関わった工兵隊で服務し、後にアグラ地区を指揮していた。1895年、ロバート・ロウ卿のチトラル遠征の幕僚長に任命され、マラカンド峠の強襲を含むすべての戦闘に参加した。この功績によって彼はバス軍事勲章のナイト爵位とチトラル・メダルとクラスプを受け取った。そして彼は今、辺境の最高指揮官にふさわしい人物として初めて注目されたのである。1897年の大蜂起勃発のこの時に。

 

三十七年にわたる軍務、数多くの土地での戦争、あらゆる種類のスポーツによってその筋肉と神経は鋼のように鍛えられていた。ビンドン・ブラッド卿自身は時の流れによって(*年齢によって)警告を受けるまで見事なポロ選手であり、その素晴らしいゲームが兵士に与える利点を認識している陸軍の高級将校の一人だった。彼は様々なジャングルであらゆる種類の野生動物を追い求め、槍で多くのイノシシを仕留め、三十頭のトラを含むあらゆる種類のインドの獲物を自分のライフルで撃った。

 

騎兵中尉である私にとって、この戦地で服務する名誉を与えてくれた司令官に対して、称賛こそすれ、批判を申し立てることは適切ではないだろう。私は将軍は、帝国の責任と危険が生み出した、元老院とローマの人々が世界のすべての地域に執政官を送った日以来、おそらくイギリス以外のどの国も所有していないタイプの軍人、行政官の一人である、と言うことに甘んじようと思う。

 

ビンドン・ブラッド卿は7月28日夕方にアグラに居た。マラカンド野戦軍の司令官に任命するのですぐに赴任するように、という指示電報がインドの軍務局長からあった。彼は直ちに出発し、31日に正式にノウシェラで指揮を執った。部隊の前進の手筈を整えるため、マルダンで停止した。ここで彼は8月1日午前3時に陸軍本部からの電報を受け取った。チャクダラ要塞が強く圧迫されているという通知と、マラカンドに急行し、いかなる代償を払ってでもその救助を試みるように、という指示だった。大勢の敵、また弾薬と物資の不足に守備隊は苦しみ、任務は難しく緊急性が高くなっていた。実際に私が聞いたところでは、8月1日のシムラでは、チャクダラは命運が尽きており、救援のために十分な軍隊が集まるまで保たないのではないかと懸念されていた。最も大きな不安が拡がっていた。ビンドン・ブラッド卿は電報に「立場は分かっている」とし、「穏やかに自信を持っている。」と答えた。彼は直ちに急行し、地域は混乱の真っただ中にあったが、8月1日正午頃マラカンドに到着した。

 

チャクダラの守備隊の絶望的な立場はマラカンドの友軍によって完全に認識されていた。31日の夜は比較的静かだったので、メイクレジョン准将は翌日彼らの救援を強行しようと決心した。それゆえ以下のように部隊を編成した:―

 

     第45シーク隊

     第24パンジャブ歩兵隊

     第5中隊 工兵隊

     第8山岳砲兵中隊の4門の砲

 

准将は午前11時にアダムズ中佐指揮下にガイド隊の騎兵隊を送り出した。アマンダラ峠へ疾駆し、もしそれが占拠されていないのであれば奪取するためである。三個戦隊が北キャンプに向かう短い道から出発した。それを見るやいなや大勢の敵が前進を阻止しようと集まって来た。地面の状態は騎兵隊にとって最も不都合だった。表面には大きな岩が散らばっていた。ヌラーが頻繁に平野を横切り、騎手の行動を束縛した。戦隊はすぐに激しい交戦状態に入った。ガイド隊は何度か突撃した。凸凹の地面は敵に有利だった。しかしその多くが貫かれ、切り倒された。この突撃の際にキーズ中尉が負傷した。彼が一人の部族民を攻撃している間に、後ろから現われた別の部族民が肩に剣で重い打撃を加えたのである。これらスワット族の剣は剃刀のように鋭利であり、また打撃は将校の腕を数日間役に立たなくするほどに痛烈なものだったが、むちで打たれた跡のようなわずかなミミズばれを引き起こしただけで済んだ。それは不思議でほとんど説明不可能な危機回避だった。

 

敵の数が増加して深刻に巻き込まれ始めた騎兵隊に圧力を加えた。部族民は最大の大胆さと決意を示した。結局、アダムズ中佐は退却を命じなければならなかった。それは尚早ではなかった。部族民がすでに左翼で活動しており、それにより唯一の退却路を脅かしていた。騎兵隊は後退し、下馬して銃火でお互いを守った。キャンプ到着の際に第24パンジャブ歩兵隊が側面を保護した。騎兵隊の損失は以下のとおり:―

 

                イギリス軍将校

   重傷―G.M.ボールドウィン大尉、ガイド隊

   軽傷―C.V.キーズ中尉、ガイド隊

 

                  現地兵

                       死亡   負傷

     第11ベンガル騎兵隊・・・・     0    3

     馬・・・・              1    4

     ガイド騎兵隊・・・・         1   10

     馬・・・・              3   18

          死傷者の合計―  兵士16と馬26

 

騎兵隊が遭遇した激しい抵抗、および敵が示した大人数と自信は、その日のうちにチャクダラを救うという考えを事実上終焉させた。部族民は一時的な成功に大いに高揚していた。反比例して絶え間ない緊張によって精神的にも肉体的にも擦り切れ、疲れた守備隊は士気が下がっていた。誰もが翌日のすさまじい戦いを予想していた。あらゆる危険に彼らは挑まなければならない。しかし「決死の行動」や「最後のチャンス」について語る者には不足していなかった。睡眠と休息の不足がすべての兵士に堪えていた。一週間もの間、彼らは獰猛な敵と格闘していた。勝利者ではあったが、息を切らしていた。

 

ビンドン・ブラッド卿が着任し、指揮を執ったのはこの時だった。彼はメイクレジョン将軍が次の日にチャクダラの救援に動くため、すべての兵科から一軍を組織することに忙殺されているのを見た。マラカンド基地から部隊を引きはがすことは危険だったため、この部隊は千丁のライフル、使用可能な騎兵隊、四門の砲を超えることはできなかった。この配置をビンドン・ブラッド卿は承認した。彼はメイクレジョン准将をマラカンド基地の責任から解放し、救援部隊の指揮権を与えた。そしてその後リード大佐がマラカンドの指揮官に任命された、そしてキャッスル・ロックの哨兵線を可能な限り強化し、その中から軍勢を出してグレーデッド・ロードの右側の高地を掃討する準備を整えるよう指示された。救援隊は以下のように編成された:―

 

     ライフル400丁、第24パンジャブ歩兵隊

     ライフル400丁、第45シーク隊

     ライフル200丁、ガイド歩兵隊

     2個戦隊、第11ベンガル騎兵隊(R.B.アダムズ中佐指揮下)

     2個戦隊、ガイド騎兵隊

     砲4門、第8山岳砲兵中隊

     工兵50人、第5中隊

     病院分遣隊

 

ビンドン・ブラッド卿はメイクレジョン将軍に命令した。暗くなる前にこの軍勢をキャンプの中心近くの「グレトナ・グリーン(*イングランドとの境界に接するスコットランドの町の名、親に反対された21歳未満のイングランドのカップルはここで結婚した)」と呼ばれる小さな森に集め、夜間はそこでビバークさせ、朝の最初の光とともに出発できるよう準備させておくべし。午後、敵は午前中の騎兵隊に対する成功に勇気づけられて大胆に哨兵線まで前進してきた。銃撃は継続的だった。実際、それは夜の十一時から十二時の間に非常に激しくなったため、「グレトナ・グリーン」の部隊は戦闘準備をした。しかし、朝にかけて部族民は退却した。

 

読者は多分、マラカンドが縁にギザギザの欠け目がある大きなカップであるという説明を覚えておられるだろう。この縁の多くは、まだ敵によって保持されていた。カップから抜け出そうとする部隊は、両側の高所から見渡されている欠け目を通る狭い道路を切り抜ける必要があった。かなり長い距離に渡って広く展開することは不可能だった。そこに将軍が今行うべき作戦の難しさがあった。マクレー大佐がブッディスト・ロードで部族民の最初の攻撃を阻止したように、救援部隊が停止させられる危険があった。8月1日、騎兵隊は北キャンプへの道を下り、かなりの迂回を行うことでこの困難を回避しようとした。しかし、これによって彼らは悪い路面に入り込んでしまい、退却する羽目になった。もし「グレーデッド」ロードが通行可能であれば、それはチャクダラ救援の道だった。もつれた、険しい土地の性質を見るに、多くの頂上と地点の中でその中の一つが他のものより重要である、ということは素人目には異常に映るかもしれない。しかしそれはその通りなのである。マクレー大佐と第45シーク隊がしっかり守っている陣地の前の高所には突出した支脈があった。これが門を開き、内部に閉じ込められている部隊を解放する鍵だった。後に誰もがこれがどれほど明白なことだったかを理解し、なぜ自分たちが以前それを考えなかったのかと思った。ビンドン・ブラッド卿はそこを最初の攻撃目標として選択した。そしてゴールドニー大佐と約300人の兵士に自分が合図したらすぐにそこへ前進するよう指示した。

 

8月2日の午前四時半に、彼は「グレトナ・グリーン」に赴き、救援部隊が整列し、夜明けに進軍する準備ができているのを見た。全員が厳しい行動を予測していた。疲労と不眠に悩まされ、多くの兵士が成功を疑っていた。しかし、疲れてはいても彼らは心を決め、命懸けの闘いに向かって自らを奮い立たせていた。最高司令官は彼の言葉通り自信を持って穏やかだった。種々の指揮官を呼び寄せて計画を説明し、全員と握手した。厳しく、決然たるひとときだった。夜明けの最初のかすかな光が東の空にゆっくりと伸びてきた。星の輝きが淡くなった。山の後ろには太陽のきざしがあった。そのとき前進命令が出た。すぐに救援部隊は出発し四段の深い「グレーデッド(*段のある)」ロードを降りていった。同時にゴールドニー大佐は第35シーク隊の250人と第38ドグラ隊の50人とともに、今では彼の名で呼ばれている支脈を攻撃するために前進した。彼らは部族民が稜線に建てた石のシェルターに向かって静かに移動し、気付かれることなく百ヤード以内に到達した。敵は驚き、ちぐはぐで効果のない発砲をした。シーク隊は叫びながら前方に突進した。なんの損失も被ることなく尾根は奪取された。敵は地面に七人の死者と一人の捕虜を残して無秩序に逃げ去った。

 

そのとき、作戦行動のすべての意味が敵と味方に等しく明らかになった。いま獲得されたこの地点からは、北キャンプへの道との合流点までの「グレーデッド」ロード全体を見渡すことができた。道を降りて行く救援部隊は損失や遅延なしに展開できるようになった。ドアが開いた。敵はこの機動作戦に完全に驚いて、唖然として、最大限の混乱の中、あちらへこちらへと走り回っているのが見られた:ビンドン・ブラッド卿のディスパッチの生々しい言葉を借りるなら「アリ塚をかき乱されたアリのように。」やがて彼らは状況を把握したと見えて、高地から降り、メイクレジョン将軍の前面のベッドフォード・ヒル近くの位置に陣取った。そして近距離から激しい銃火を放った。しかし部隊はすでに展開されており、持ちこたえるための人数を移動させることが可能だった。彼らは発砲で時間を無駄にすることなく、銃剣で前進した。ガイド隊の先進中隊は前方の丘を急襲し、二人が死亡、六人が負傷した。残りの部隊の突撃において損害はさらに少なかった。完全にパニックに襲われた敵は文字通り何千人も高台に沿って右側に逃げ始めた。後に七十人の死者が残されていた。軍勢は疲労と苦しみの記憶に逆上し、勝利の衝動に触発されて無慈悲な血気で彼らを追撃した。

 

ビンドン・ブラッド卿はスタッフとともにキャッスル・ロックに登って作戦全体を監督した。この位置からは戦野全体が見えた。あらゆる側面から、そしてあらゆる岩から、総崩れで敗走する敵の白い姿が見えた。道は開かれた。通路はこじ開けられた。チャクダラは助かった。偉大で輝かしい成功が成し遂げられた。ぞくぞくする歓喜が全員を身悶えさせた。その瞬間、自らの作戦が勝利するのを見た将軍は地上の人間が経験する感情の中で最も素晴らしいものを経験したに違いない。その瞬間、ルーチンワークの退屈な年月、階級の低い兵士たちの長い坂の上り、無能な上官への日頃の従属、五回の戦闘の疲労と危険が報われた、と私たちは想像するかもしれない。おそらくそれは状況に反していて、回想を楽しむ時間などなかっただろう。勝利が得られた。それによる利益を獲得しなければならない。敵は平野を横切って退却しなければならない。ついに騎兵隊にチャンスが来た。四個戦隊は現場へと急いだ。

 

平原に向かって整列した第11ベンガル槍騎兵隊は、渓谷目がけて容赦なく追撃し始めた。ガイド隊はアマンダラ峠を奪ってチャクダラを解放するために急いだ。すべての水田と岩の間で強力な騎兵たちは逃げる敵を倒した。いかなる慈悲も求められず、与えられず、すべての部族民は直ちに捕えられ、槍で突かれるか切り倒された。彼らの死体は戦野のあちこちに密に投げ捨てられ、輝く緑の水田に黒と緑の染みをつけていた。それは恐ろしく、スワットとバジャウルの住民が決して忘れることのない教訓だった。それ以来彼らの槍騎兵隊への恐怖は並外れたものになった。百人もの勇猛な未開人を慌てふためかせて丘に追いやったり、何時間も平地に降りてこないようにしたりするには、数人のスワール(*インド騎兵)で十分なことがよくあった。

 

その間、歩兵隊は迅速に前進していた。第45シーク隊はアマンダラ峠近くの、敵が必死に守る要塞化されたバトヘラ村を襲撃した。村に最初に入ったのはソーヤー大佐の到着によって連隊の指揮から解放されたマクレー中佐だった。バトヘラだけで八十人の敵が銃剣の餌食になった。それは恐ろしい報いだった。

 

私はこの大虐殺のシーンをもう終えたいと切望している。戦いの流血を身動きせずに見つめる観客は実際に自分自身のこととして、自らすべてのためらいを投げ捨て、時の衝動に押し流され、文明がその上に不確かな厚みのベールを投げかけているに過ぎない心の奥底のすべての残忍な本能に溺れる、追撃の恐怖から目を逸らしてはならない。

 

チャクダラの救援における犠牲者は次のとおり:―

 

    第11ベンガル槍騎兵隊― 死亡と負傷後の死亡 3/負傷 3

 

                      死亡   負傷

    ガイド歩兵隊・・・・        2    7

    第35シーク隊・・・・       2    3

    第45シーク隊・・・・       0    7

    第24パンジャブ歩兵隊・・・・   0    5

    第8ベンガル山岳砲兵中隊・・・・  0    1

                 総死傷者―    33

 

チャクダラ救援のニュースは、インド中で深い感謝の気持ちで受け止められた。そしてイングランドの庶民院で国務大臣が電報を読み上げたとき、歓声を上げなかったメンバーは数少なかった。その少数者には注意を払う必要もない。

 

 

第六章:チャクダラの防衛

 

 ・・・力の塔よ

  風の中に堅固に立っていた塔よ。

                        テニスン

 

砦―警告―駆け足の帰還―最初の攻撃―騎兵隊のダッシュ―継続的な攻撃―信号塔―守備隊の疲弊―セポイ・プレム・シン―危機的状況―緊急の訴え―最後の攻撃―救助に来た騎兵隊―見事な仕上げ―死傷者

 

この章が取り扱うのは文明の前哨線でたびたび発生し、特に野蛮な部族に取り囲まれた広大な帝国の歴史に頻繁に見られるエピソードである。科学の力で武装し、相互の信頼によって団結し、強化された兵士、あるいは入植者の小さな一団は、何千人もの好戦的で容赦ない敵に孤立した駐屯地を攻撃されることがある。通常、守備隊の勇気と装備は、ロルクズ・ドリフト(*南アフリカ)、チトラル砦、チャクラダ、またはグリスタン(*ティラ近辺)のように、救援部隊が到着するまで持ちこたえることができる。しかし時には防御側が圧倒され、サラガリ(*前述グリスタン)やハルツーム(*1885年のゴードン)のように後に物語る者が一人もいなくなることもある。―政治的または愛国的な理由ではなく、義務や栄光のためではなく―その貴い命そのもののために戦う人物/彼らがそう望んだからではなく、彼らがそうしなければならないから戦う人々の光景には何か不思議に凄まじいものがある。常に土手を溢れさせ、彼ら全員を溺れさせる危険がある野蛮主義の増水中の大洪水に対して、彼らは社会的進歩の堤防を守っているのである。そうした状況は臆病者を勇者にし、勇敢な人物には最も気高い英雄的行為と献身の機会を与える。

 

チャクダラ砦が守っているのは流れが速く、幅が広く、一年のほとんどの季節において手に負えない急流であるスワット川の通路である。それは山から約百ヤード離れた平野に突然立ち上がる岩石の円丘の上に建てられている。スケッチと写真は通常その上の小丘と建物のみを示し、それを見ると誰もが小さな砦の、絵に描いたような難攻不落の様相に感銘を受ける。ただしそのバランスが頭でっかちであり、その防御はその上に位置する威圧的な崖から見渡せることに気づかない場合の話である。その構築において遮蔽の原則は完全に無視されていた。信号塔がある山の尾根上に立ったなら、真っすぐに砦を見下ろし、発砲することができた。すべての開放空間は見渡されていた。すべての胸壁が露出していた。ただし大砲を装備していない敵に対しては、無期限に保持できた/しかしすべての内部交通が銃火に晒されているという事実は、駐屯部隊による防御を苦しいものにしており、徐々に隊員の数が削られ、要塞が奪取されることにつながりかねなかった。

 

スワット川にかかる細く、揺れ動くワイヤーブリッジの長さは約500ヤードである。南端は小銃射撃の銃眼を持つ、巨大な鉄の扉で閉じられている。側面には二基の石の塔があり、その一基にマキシム機関銃が取り付けられている。川の向こうには要塞化された円丘、強力な石の角堡(*防護壁の外に角状に突出した稜堡)、馬のための囲いからなる要塞本体があり、銃眼のある壁と多くのからまった有刺鉄線で守られている。そして200ヤード離れた崖の上に信号塔がある。

 

この駐屯地は蜂起の発生時には、第11ベンガル槍騎兵隊の二十人のスワールと第45シーク隊の強力な二個中隊の約200人で編成されており、H.B.ラトレイ中尉に指揮されていた。[実際の戦力は次のとおり。第11ベンガル槍騎兵隊、サーベル20本。第45シーク隊、ライフル180丁。英国電信士2人/病院ハビルダー1人/憲兵ナイック(*インド伍長)(第24パンジャブ歩兵隊)1人/ジェマダール(*インド最下級士官)(ディリ徴集兵)1人。英国軍将校―第45シーク隊、ラトレイ中尉、ホイートリー中尉/V.ヒューゴ外科医大尉/政治エージェント、ミンチン中尉。]蜂起が差し迫っているという噂がますます高くなっていた。7月も末に近づくと、ラトレイ中尉は部下に警報とともに持ち場に就く訓練をさせた。また彼が万一のために必要と考える準備をした。23日、彼はD.A.A.G.から公式の警告を受け取った。[代理―補助―将軍―副官。確かに、これと、代理―補助―補給担当―将校(*D.A.Q.M.G.)という驚くべき肩書は、より賢明で適切な用語「旅団副官」と「旅団補給担当官」に変更した方が有益だろう!]ハーバート少佐は部族民の蜂起を「ありうるが可能性は低い」と評していた。その後、砦ではすべての予防措置が行われた。26日、外でスケッチをしていたセポイが、部族民の大集団が谷に向かって進んでおり、彼自身がコンパス、双眼鏡といくらかの金を奪われた、というニュースとともに駆け込んできた。

 

しかし混乱して切迫した状況において、マラカンド守備隊のイギリス人将校たちは駐屯地の防衛のためにすべての軍事的予防措置を講じはしたものの、リボルバーだけの武装で谷を自由に騎行する習慣を放棄しなかった。また、彼らは娯楽をやめなかった。26日の夕方、ラトレイ中尉はいつものようにポロをするためにカルに行った。ちょうど試合が終了したとき、二人のスワールが急いでやって来て彼に手紙を渡した。チャクダラのもう一人の将校、ホイートリー中尉からのものだった。大人数のパシュトゥーン人が旗を立てて砦に向かって来ているという警告だった。すぐに彼は全速力で帰途についた。部族民の大きな集団の近くを通り過ぎたが、どういうわけか彼らは彼を気に留めなかった。そして彼は無事に砦に到達した。ちょうどギリギリで間に合ったのである。恐るべき男たちの大集団が砦に迫っていた。彼はマラカンドの幕僚将校に電報を送って攻撃が差し迫っていることを報告した。その直後、敵によってワイヤーが切断され、小さな守備隊は戦闘準備に入った。

 

ディリのカーンの徴集兵隊のハビルダーはいかなる現実の攻撃の際にも、向かい側の丘に火を灯して警告することを政治局と約束していた。10:15に一つの炎が立ち上がった。それは信号だった。警報が鳴った。守備隊は持ち場に行った。しばらくの沈黙があった。そして暗闇から一斉射撃が始まり、8月2日まで止まらなかった。すぐに砦の西面への攻撃のために前進してくる部族民の姿が見えるようになった。防御側は効果的に発砲した。敵は勢いよく前進してきた。そして深刻な損害を被った。やがて彼らは撃退されて退却した。

 

二回目の攻撃はすぐに北東の角に対して行われ、再び守備隊に打ち負かされた。午前4時に騎兵隊の囲いに三回目の攻撃が行われた。部族民はハシゴを担ぎ、大きな決意を抱いて前進してきた。致命的な銃火が彼らを迎えた。その後、彼らは撤退し、包囲戦の最初の夜は散漫な射撃で終了した。守備隊は一晩中自らの持ち場に留まった。夜が明けると敵が北西の丘に撤退しているのが見えた。彼らはそこから絶え間ない銃撃を続けた。防御側の兵士は石の壁で守られていた。銃弾が絶え間なく中に入って来たが、多くの兵士は不思議に被弾しなかった。

 

一方、激しい攻撃を受けていたにもかかわらず、マラカンドではチャクダラの小さな隊に救援隊を送ることが決定されていた。ライト大尉と第11ベンガル槍騎兵隊の四十人のスワール、そしてマラカンドの輸送将校、第2ボンベイ擲弾兵隊のベイカー大尉は27日の夜明けに北キャンプを経由する道を出発した。遠くまで行かないうちに、敵が丘の上から銃火を浴びせてきた。彼らは敢えて平野に踏み出すことをせず、起伏の多い地形の特徴を利用したのである。戦隊がポロ・グラウンドに通じる道路に到着したとき、ライト大尉は敵が平野に集合しており、突撃を可能にするために速度を速めているという情報を受け取った。しかし、部族民は槍騎兵隊を見て丘に逃げ込み、幸運にも狙いの定まらない銃火を絶え間なく放っただけだった。やがてバッケラの村に到着し、その先にアマンダラ峠が見えてきた。これは南側から谷の中央の流れが速い川まで延びている長い尾根の切れ目である。そのとき川は流れが激しく手に負えなかったため、チャクダラへ行くには尾根の上か、間を通るしかなかった。しかし峠は敵によって守られていた。

 

おそらくマラカンドではまだ誰も知らなかったことだが、ライト大尉はこの時までに敵の数が膨大なことに気づいていた。マラカンドからアマンダラへの道中、すべての尾根と丘の上には旗が翻っていた。騎兵に攻撃されない場所であればどこにでも、彼らは密集していた。墓地[墓地は辺境の景観においてよく目にする目立った特徴である。そのうちのいくつかは非常に広大で、すべては非凡な尊厳を持っている。]と峡谷と村に男たちが群がっていた。その姿はあらゆる方向にあった。アマンダラ峠のはるか向こうから、さまざまな兵力の部族民の群れが旗を掲げて、攻撃に加わるために、急いでやって来るのが見られた。しかし、これらの恐るべき兆候は騎兵隊員を怖気づかせるにはほど遠く、チャクダラがいかに重要かということを目の当たりにして、いかなる代価を支払ってでもそこを強行突破するという決意を固めさせただけだった。

 

道路の右側の墓地から降る弾の雨の下、簡単な協議が行われた。アマンダラの隘路は両側を敵に占領されていた。おそらく十数人の兵士を失うが、戦隊は全速力で駆け抜けることができるだろう。しかしこれは倒れた者が放置され、拷問と肉体損壊の末の惨めな死を迎えることを意味していた。負傷者を収容しようとすれば戦隊の全滅につながるだろう。他に方法がければそこを駆け抜けなければならず、負傷者は放置されることになる。何らかの代替手段が望ましかった。そのときあるスワールが、川の土手に沿って岩を迂回する道があると言った。ライト大尉はそちら選択した。

 

道は悪かった。尾根の約半分を通過した後、それは急峻な白い岩によって突然途絶えた。実際には、それは現地人が「ムサックス」(膨らませた革)を浮かべて川を渡っていた場所への道だった。今戻ることは失敗を意味した。ためらうことなく、どうにかして通り抜けられることを信じて、騎兵たちは右側を向いて丘を登り、岩の間を行った。歩いて移動するのすら難しい路面を通り過ぎた後、左側に峡谷が見えた。それはあたかも尾根の向こう側に開けた平地に通じているように見えた。四十頭の馬がひしめき合ってこの峡谷を下り、道を選ぶ余地もなく、争って岩から岩へとジャンプした。明らかに騎手たちが意識していたように彼らの命は馬たちの利口さにかかっていた―突然敵が現れた場合には。

 

戦隊が川に向かって右側に速足で逸れるのを見るやいなや、峠を保持していた部族民たちは、彼らがチャクダラに向かうための決死の努力をしようとしていることを理解した。彼らは地形をよく知っていた。そして十分早くそこに着くことができれば敵を全員倒せると確信して、尾根上を急いで走った。それは競争だった。最初の部族民は、騎兵隊が峡谷にいる間に攻撃するのに間に合った。彼らは将校がリボルバーを使用できるほど近くまで接近してきた。しかしパシュトゥーン人は息切れしていて酷い銃撃を受けた。数頭の馬が撃たれた。中でもライト大尉の馬は腿の大きな骨を撃ち抜かれた。しかし勇敢な動物は持ちこたえて、騎手を無事にチャクダラに運んだ。

 

馬たちの素晴らしい活躍によって、敵の戦力が集中する前に岩を通過することができた。しかし全ての兵員をがっかりさせたのは、渓谷が平原ではなく、川の支流に通じていたことだった。騎兵隊の前にあったのは幅が広く、流れが速く、深さが分からない水流だった。しかし、戻ることは今や問題外だった。彼らは突っ込んだ。第11ベンガル槍騎兵隊はおそらく、インドではどの現地騎兵連隊より優れた騎手である。彼らの強い馬は、流れに逆らって頑張り抜いた。何人かは危うく流されそうになった。ライト大尉は最後に渡った。この間、ずっと敵は発砲しながら接近していた。やがて渡渉が成し遂げられ、戦隊は馬が膝まで沈む水田の島に集まった。その先には、また幅約五十ヤードの支流が流れていて、明らかに最初のものとほとんど同じ深さがあった。敵の弾丸は、四方に「水の閃光」を作った。この二番目の急流を渡渉すると、戦隊は再び敵と同じ川岸にいた。沼のような場所だった。ライト大尉は部下を下馬させ、応射させた。それから彼は振り向いて再び流れに戻り、小さなポニーに乗っていたため水流に脚をとられていた病院助手を救助した。この後、行軍は再開された。戦隊の行く路面はずっと重く、ひどい悪戦苦闘が展開された。水田の端に沿って走る敵は絶え間なく発砲を続け、良く狙いをつけるために膝をついた。一人のスワールが手を上に放り出して倒れた。背中を撃たれていた。さらに数頭の馬が撃たれた。そして別の兵士が鞍上でぐらつき、地面に崩れ落ちた。停止命令が出された。下馬での銃撃が開始された。負傷者は拾い上げられた。そして徐々にチャクダラが近づいて来て、ブリッジヘッド・マキシム機関銃が部族民に引き揚げを余儀なくさせた。[この件の詳細については、その危険を共有した第2ボンベイ擲弾兵隊のベイカー大尉に世話になった。]

 

こうして砦の守備隊は必要な補強を受けた。私はこの雄々しい騎行についてやや長く記述した。なぜならそれは、勇敢な兵士と良い馬はどんな障害物にも阻止されないことを示しているからである。ライト大尉はチャクダラの指揮を引き継いだ。しかし、彼は引き続きラトレイ中尉に防衛の指揮を委ねることにした。騎兵は防壁の後ろでの戦いには精通していないのである。

 

11:30に日中の暑さの中を部族民は再び攻撃してきた。彼らは砦の北側と東側を囲み、押し入ろうと奮闘した。彼らは防御側の小銃射撃によって大きな損失を被った。死者が進入路に厚く折り重なった。またしても彼らは日暮れまで回収されなかった。狂信によって分別をなくした多くのガジが旗を掲げて銃火をものともせず押し寄せ、まさしくその壁の真下で弾丸で穴だらけになって倒れた。

 

マラカンドと通信することは今ではほとんど不可能だった。ヘリオグラフ(*日光反射通信機)にたどり着くにはオペレーターがひどい銃火にさらされる必要があった。夕方、信号塔は石の胸壁の後ろから絶え間ない一斉射撃を続ける男たちに囲まれていた。その全ては晒されており、ほんの一瞬でさえ危険だった。

 

正午、主要な攻撃を撃退した後、信号塔の警備に六人の兵士が加わり、食糧と水も送られた。この困難な作戦を、マキシム機関銃と、自分の持ち場を離れることができるすべての守備隊員の銃火が援護した。8月1日まで、このようにして毎日水が信号塔に送られていた。距離は長く、道は急勾配だった。敵の銃火は続いていた。この局面において物資の供給ができていたのは素晴らしいことである。

 

夜が近づき、防御側は新たな攻撃に対応する準備をした。ホイートリー中尉はその後ろにいつも敵が集まる地点を観察し、日光がある間に、その上に砦のマキシム機関銃と9ポンド砲の照準を合わせておいた。午後11時部族民は叫び、わめき、ドラムを叩きながら前進してきた。砲とマキシム機関銃が発射された。そして一回の砲火で七十人以上の敵が死亡したと言われている。いずれにせよ、攻撃は一時間半遅れた。守備隊は終日持ち場に留まっていた。今彼らは少し休むことが望ましかった。しかし、1時に北東の角で新たな攻撃が起こった。再び敵はハシゴを持ち出し、必死に猛って突撃してきた。そして撃ち倒された。

 

その間、すべての空き時間は駐屯地の遮蔽を改善するために使われた。ベイカー大尉は自らこの仕事に当たり、あらゆる手段を行使した。丸太、砂袋、石、土を入れた箱が壁の上に積み上げられた。人命の損失が大きくならなかったのはこれらの予防措置のおかげである。

 

継続的な射撃が28日に行われ、午後5:30に再び敵襲があった。まず彼らは以前の攻撃の時のように、小さな自然の遮蔽物と、闇に紛れて砦の全周に建てた石の胸壁の間の開放空間を短い突進を繰り返して、三々五々前進してきた。これらの一部は防壁から200ヤード以内にあった。彼らが接近するにつれて銃火は激しくなった。その後、総攻撃がかけられた。彼らは砦の騎兵隊が守っていた面を大きな半円状に取り囲んで、国境のすべての部族を代表する200近くのきらびやかな色の旗を誇示しながら、壁の直前まで突進してきた。そのうちの数人は実際に絡まった有刺鉄線を通過して、囲いの中で殺された。しかし、すべての労力は守備隊に打ち負かされ、そして朝にかけて攻撃は徐々に消え去り、通常の狙撃手だけが残った。彼らの中には特異な無謀さを示した者たちがいた。一人の男は有刺鉄線によじ登って中に入り、近くのキャンプにいた防御者に三度発砲した後、殺された。

 

同様の光景で木曜日の夜が明けた。守備隊は生じた合い間を防御を強化し、遮蔽を改善することに費やした。特にマキシム機関銃と野戦砲の台座への進入経路に力を入れた。午後3時に敵はチャクダラ村から出てきた。そして格別の努力をして、壁をよじ登るためのハシゴと、有刺鉄線に投げかける草の束を運んできた。彼らは主に信号基地に対して攻撃を仕向けた。この建物は丈夫な四角い石造りの塔である。その入り口は地面から六フィート以上の高さにある。最上部の周囲には狭いバルコニーの一種であるマチコンリス回廊があり、床には発砲するための穴が開いている。これは良い銃眼である。4時、それは近距離から襲われた。砦の守備隊は銃火によって塔の守備を助けた。敵は大胆にも防御側の小銃射撃の下に突入し、入り口から約三ヤードのところの大きな草の山に火を放った。炎が上がった。残忍な喜びのわめき声が上がった。しかし実害がなかったのを見て部族民に沈黙が戻った。日没時に砦のマキシム機関銃の照星が撃ち落とされ、防御側は一時的にその強力な武器の力を奪われた。しかし彼らはすぐに代用品を作り上げ、すべての実用的な目的に応えることが可能になった。午後8時、敵は戦闘に疲れた。銃火は次第に静まって散漫な小競り合いになった。敵は一晩中、死者を運び去るのに骨を折った。しかし翌朝、信号塔の周りにまだ五十体以上が横たわっていた。彼らの損失は甚大だった。

 

30日の朝にも戦闘が停止することはなかったが、前夜の敗北に落胆した敵は午後7時まで攻撃して来なかった。その時間になると前進してきて新たな奮闘をした。そして再び撃退された。おそらく読者は単調な攻撃と反撃の連続の長い物語にうんざりされていることだろう。しかし実際、守備隊はどのような状況にあったのだろうか?彼らは―暇を見て数時間の睡眠をとるこの日まで―九十六時間も戦い、監視し続けていたのである。水漏れしている船に乗って、絶え間なくポンプの汲み出しに骨を折っている男たちが、疲労が増し、船が一時間ごとに沈んでいくのに気づいたときのように、彼らは救助が期待される方向に不安な疲れた目を向けた。しかし、誰も来なかった。そして溺死よりも悪い死もある。

 

兵士は銃眼で、そして野砲の任務中に眠りに落ちた。攻撃の進行中でさえ、無礼な自然現象が立ち現れ、兵士たちは小銃射撃の咆哮や敵の野蛮な姿から、完全な疲労困憊による平和な無意識の中へと漂流した。やつれてはいても疲れ知らずの将校たちが頻繁に彼らを起こした。

 

普段だったら、勇敢なセポイたちは絶望していただろう。砦は敵に囲まれていた。マラカンドも襲撃された。おそらく他の場所も同じだろう。英国領インド帝国全体が一つの大変動によって消滅してしまったようだった。将校たちは彼らを励ました。女王陛下の政府は決して我々を見捨てない。我々が持ちこたえることができれば救助してくれる。そうでない場合には復讐してくれる。彼らを率いる若い白人への信頼と、恐らく彼らの首領であって、必ずや彼らを守ってくれるであろう海の向こうの神秘的な君主への漠然とした、半ば崇拝的な信仰によって彼らは僅かに残っていた力を取り戻した。戦いは続いた。

 

包囲戦の間中、マラカンドとの信号伝達を維持することは極度に難しくなっていた。しかし信号通信士の英雄的行為はそれに勝った。特にセポイ・プレム・シンは命の危険を冒し、毎日塔の円窓から出てヘリオグラフを立てた。そして近距離からの恐るべき銃火の中で主力部隊に緊急のメッセージを送ったのである。極度の危険、ヘリオグラフによる連絡操作の繊細さ、消費時間、必要な落ち着きが組み合わさって、この行動をこの前後に記録されている行動と同様の勇敢なものにした。[最近、ビクトリア十字章をそれに値する現地人兵士にも与えるという提案がなされた。こうした勲章の価値は、それを英国のすべての臣民に開かれたものにすることによって、さらに高められるだろう。競争が激しいほど成功の名誉は大きくなる。スポーツ、勇気、そして神の視座においてすべての人間の条件は平等である。]土曜日の早朝、水が信号塔の警備隊に送られた。その後、月曜日の午後4:30まで補給はなかった。

 

砦への攻撃が開始されたとき、敵はおそらく1500人に達していた。それ以来彼らは1日と2日まで毎日増加しており、12,000―14,000人の勢力だったと推定されている。事態は今やさらに重大な局面を呈し始めた。31日の夕方五時、砦の東側に猛烈な勢いで新たな攻撃がかけられた。しかしそれはマキシム機関銃と野戦砲によって大きな損害を被って撃退された。一晩中発砲が続いた。そして日曜日の朝にはこれまでよりもはるかに多数の敵が現れた。いまや彼らは孤立した民間病院を占拠し、壁に銃眼をつくり、そこから小癪な発砲を続けていた。また彼らは信号塔につながる小尾根を占領し、これによって守備隊とのすべての連絡を遮断した。その日、不幸な兵士たちには水が届けられなかった。天気は猛暑だった。尾根からの発砲はすべての内部連絡を困難かつ危険にした。敵はマルティニ・ヘンリー・ライフルとスナイダー銃で大規模に武装しており、小銃射撃には最も悩まされた。塔の小隊は水を求める緊急の信号を送り続けたが、水は供給できなかった。状況は危機的になった。ラトレイ中尉の公式レポートの簡単な言葉を引用する―

 

「事態が非常に深刻になったため、緊急の救助を要請することにした。しかし信号の発信が困難で危険なため、長いメッセージの送信はできなかった。そこで極力短く、ただ二つの単語だけを送信することにした。“Help us.”」

 

それでも守備隊は決死の戦いを繰り広げた。部族民は尾根、民間病院、隣接するヌラーを占領したが、防御の内側に足を踏み入れるものはなかった。

 

やがて、闘争の最後の日がやってきた。敵はいかなる代償を払ってもその場所を奪取することを決意したと見え、明け方に途方もない数で襲撃して来た。彼らはハシゴと草の束を運んで来た。発砲が激しくなった。要塞は遮蔽されていた。しかし砦に降りかかり、全方向の防壁を傷つけた弾丸の雨によって数人の兵士が死傷した。

 

事態に危機が迫ったそのとき突然、アマンダラを突破した騎兵隊の救援部隊が現れた。強力な騎兵たちは抵抗する者をすべて容赦なく追撃し、切り伏せた。彼らが川を挟んで砦と反対側の橋頭保に到着すると、敵は反転して逃げ始めた。包囲の間、守備隊は頑強に、死に物狂いで持ちこたえていた。救援が近づいた今、ラトレイ中尉はゲートを開け放ち、六人の兵士を引き連れて民間病院に突撃した。ベイカー大尉、ホイートリー中尉と他に数人が後に続いた。病院は奪還された。そこを占領していた約三十人の敵は銃剣で殺された。堂々たる仕上げだった。帰る途中、出撃部隊は騎兵隊―第11ベンガル槍騎兵隊―が部族民でいっぱいの胸壁に阻止されているところに遭遇した。彼らはその側面に突撃して占有者のほとんどを殺し、続けて残りも敗走と破滅に追い込んだ。最後に胸壁を去ろうとした男はラトレイ中尉の首を撃った。しかし軍事的行動と同様に身体能力においても抜きんでているこの将校は彼を切り倒した。これで戦いは終わった。これより適切な結びは思いつかない。

 

包囲戦の犠牲者は次のとおり:―

                    死亡    負傷

    第11ベンガル槍騎兵隊・・・・  1     1

    第45シーク隊・・・・      4    10

    ディリ徴集兵隊・・・・      1     0

    その他・・・・          1     2

               合計、すべての兵士― 20

 

これが損失である/しかし砦のすべての兵士は七日七晩の間、死と隣り合わせだった。

 

騎兵隊の馬はずっと敵の銃火にさらされていたが、ほとんど支障しなかったというのは重要な事実である。砦が自分たちのものになることを確信していた部族民たちは、この素晴らしい動物を生きたまま手に入れるため、撃つことを差し控えたのである。

 

注意深い公式の調査で確認できる限り、敵はチャクダラへの攻撃で2000人以上の損失を被った。

 

[弾薬の消費に関する以下の統計は興味深いかもしれない:―

 

                             発

     7月28日 マキシム機関銃・・・・     843

           マルティニ・ヘンリー・・・・ 7170

     7月29日 マキシム機関銃・・・・     667

           マルティニ・ヘンリー・・・・ 4020

     7月30日 マキシム機関銃・・・・    1200

           マルティニ・ヘンリー・・・・ 5530

     7月31日 マキシム機関銃・・・・     180

           マルティニ・ヘンリー・・・・ 2700

 

これは一人あたり一日約二十発である。射撃統制が優れていたに違いない。]

 

 

第七章:スワットの門

第3旅団の編成―戦いの爪跡―下スワットの降伏―特別部隊―ランダカイの戦闘―砲兵の準備―側面攻撃―尾根の奪取―追撃―悲惨な事件―勇敢な武勲―ビクトリア十字章―剣とペンの騎士―仏教徒の遺跡―他日の光―ブナー―部隊の帰還

 

マラカンド峠は、山々に囲まれて東西に走る長く広いスワット渓谷へと続いている。六マイル東のチャクダラで谷は二つに枝分かれしている。一方の枝は北方向のウチに向かって伸び、再び西に曲がって最終的にパンジコラ川に突き当たる。その向こうはナワガイの大渓谷である。この枝から少し先へ行くとチトラルへの道がある。この枝に沿って現在マラカンド野戦軍はモーマンドに向かって前進しようとしているのである。もう一方の枝は谷を東に延長している。チャクダラの数マイル先で南の山々から突き出た長い支脈が谷を塞いでいる。その基部の周辺に川の流れが切れ込んでいる。街道は川と支脈の間の狭い石の土手道を通っている。ここがランダカイ、または何世紀にもわたって部族民がそれを「スワットの門」と呼んできた地点である。この門の向こうは上スワットであり、古来の美しく神秘的な「ウディアナ」である。この章では門の突破と谷の頂きへの遠征について記述する。

 

マラカンドとチャクダラでの激しい戦いは、イギリス人に対して蜂起した山岳民族の連携がどれほど恐るべきものであるかを示していた。最も遠い孤立した谷、最も離れた村々さえもが異教徒の打倒に加わるために武装した男たちを送り出した。すべてのバジャウル族はその敵対度によってランク付けされた。ブナヴァル族とウトマン・ケル族は男を上げた。マッド・ファキールに従う男たちは最大で二―三千人と推定されていたが、現在は武装した12,000人以上であることが分かっていた。軍事的および政治的状況が深刻な様相を呈してきたため、第三予備旅団を次のように構成して動員することが決定された。

 

               第3旅団

       指揮―J.H.ウォードハウス准将 C.B. C.M.G.

     第2大隊ハイランド軽歩兵隊

     第1大隊ゴードン・ハイランダーズ

     第21パンジャブ歩兵隊

     第3大隊 第1グルカ隊

     第3中隊 ボンベイ工兵隊

     第14英国野戦病院

     第45現地野戦病院

     第1野戦医療兵站部

 

二週間前の戦いは、かつての晴れやかな風景に重大で恐ろしい爪痕を残していた。稲穂は四方八方に踏みにじられていた。燃やされた村の廃墟は遠くからインクのしみのように見えた。敵が受けた恐るべき損失は戦闘員のみならず、住民のかなりの減少をもたらした。マラカンド基地への攻撃で約700人の部族民が死亡した。開放空間が近代兵器とマキシム機関銃に使用機会を与えたチャクダラの包囲戦では2000人以上が死傷した。その遺体は何日もその地域に散らばっていた。立っている稲穂の中、村の廃墟の中、そして岩の間に、燃え盛る太陽の下に腐乱死体が横たわって、恐ろしい臭いで谷を満たしていた。これらを貪り食うため、にわかに膨大な数のハゲタカが集まって来て、前の章で言及した、死体を襲うために穴や隅っこから出てきた不愉快なトカゲと豊富な獲物を奪い合った。品位と健康に関するあらゆる動機が元気を取り戻した勝者に敵の遺体の埋葬を促した。そしてこの仕事はほんの数日で成し遂げられた。しかし、それでも道を外れた場所には埋葬部隊の手を逃れた遺体がかなり沢山残っていた。

 

一方、スワット渓谷の部族民が受けた罰と、その大きな損失は多くの人々を意気消沈させていた。降伏するために数人の代表団が来た。下スワット族は無条件に降伏し、自分たちの村に戻ることを許された。彼らはたちまちこの許可を利用した。そして荒廃した家を動き回って、損害を修復しようとしている姿が見られた。他の者たちは道端に座って、彼らの谷に軍隊が着実に集積していくのを不機嫌に、失望しながら見ていた。しかし、それはただ単に彼らが武力に訴えた結果だった。

 

おそらくマラカンドを攻撃した部族民は、半ばそこにいた兵士をサーカーの唯一の軍隊と思っていた、と言っても過言ではない。「やつらを殺せ」と彼らは言った「それですべて終わりだ。」電信線がはるか遠いインド南部から呼び寄せる連隊について、彼らは何を知っていただろうか?自分たちが世界をざわつかせたこと/軍の将校がイギリスから7000マイルの海と陸を急行して山間のキャンプに来たこと/長い列車が遠くの倉庫から弾薬、資材、補給を前線に運んでいたこと/賢明な投資家が彼らの行動が金銀比価にどの程度影響するかを検討していたこと/あるいは聡明な政治家がスワットの蜂起が差し迫った補欠選挙にどのように影響し得るかを思案していたことに彼らは気づいていなかった。この無知な部族民たちには、その広大で複雑なシステムのすべての部分が最も軽微な接触にさえも震え、揺れる、現代文明の鋭敏さなど思いもよらないことだった。

 

彼らはマラカンド峠の砦とキャンプと、川にかかる揺れる橋だけを見ていた。

 

マッド・ムラーに見捨てられ、二個旅団に立ち向かった下スワットの人々は完全に打ち負かされ、征服された。しかし上スワット族はその聖職者たちに励まされ、「門」の後ろは安全であると信じて、ずっと独立的な態度を決め込んでいた。彼らは政府がどのような協約を提示するのかを尋ねるために使者を送って来て、その問題を検討すると言った。彼らの反抗的態度は、政務官をしてサーカーの決意と力を印象づけるために、彼らの地域への軍隊の派遣を勧告させることになった。

 

そこで上スワット渓谷への遠征が裁可された。ビンドン・ブラッド卿は前進に必要な準備を始めた。さらなる戦闘の見通しは軍団、とりわけチャクダラの救援に間に合わず、これまで長くて埃っぽい行軍しかして来なかった面々に熱心に歓迎された。どの部隊が選ばれるかということについて、多くの憶測と興奮があった。誰もが自分の連隊が必ず行く/自分たちの番である/そしてもし連れて行かれなかったなら大きな恥になるだろう、と主張した。

 

しかし、ビンドン・ブラッド卿はすでに決定を下していた。彼は前進する可能性を考えてアマンダラにかなりの兵力を集中していた。そして行動が裁可されるとすぐに次のように隊を組織した:―

 

                  第1旅団

     指揮―メイクレジョン准将

       王立西ケント連隊。

       第24パンジャブ歩兵隊

       第31パンジャブ歩兵隊

       第45シーク隊

 

     以下の分隊とともに:

       第10野戦砲兵中隊

       第7英国山岳砲兵中隊

       第8ベンガル山岳砲兵中隊

       第5中隊マドラス工兵隊

       2個戦隊 ガイド騎兵隊

       3個戦隊 第11ベンガル槍騎兵隊

 

この部隊の戦力は3500のライフルとサーベル、一八門の砲に上った。十二日分の物資が運ばれ、兵士は「80ポンド規模」の装備で進んだ。つまり、テントその他の快適さと便利さはなかった。

 

部隊が出発する前に、悲しい出来事が起こった。8月12日に、7月26日夜に負傷したJ.ラム中佐が死亡した。早期に切断手術をしていたらその命は救われていたかもしれない/しかし、これはレントゲン検査によって弾丸の摘出が可能になることを期待して延期されたのであった。機械は少し遅れてインドから到着した。それはマラカンドに到達するとすぐに試みられた。しかし運搬途中で機械が損傷していたことが判明し、何の結果も得られなかった。その間に壊死が始まった。勇敢な軍人は切断手術を受けたが、それに耐えられないほど弱っていたため、日曜日に死亡した。彼の大腿骨は弾丸によって完全に粉砕されていた。彼はアフガニスタンとゾブ渓谷で勤務し、ディスパッチにおいて二度言及されている。

 

14日にビンドン・ブラッド卿は特別部隊に加わった。そして16日に谷を数マイル上ったタナに移動した。同時に彼はウォードハウス准将に、ブナーの南の峠の方面に小さな分遣隊を送るよう命令した。そこでハイランド軽歩兵隊、第3中隊ボンベイ工兵隊、および第10ベンガル槍騎兵隊の一個戦隊は、第3旅団があったマルダンからラスタムまで進軍した。この動きによって彼らはブナヴァル族を脅し、上スワット渓谷から注意を逸らせたのである。このようにして敵の戦力を削いだビンドン・ブラッド卿は「スワットの門」を突破するために前進した。

 

16日の夕方、ビートソン少佐指揮下の第11ベンガル槍騎兵隊による偵察によって、敵がランダカイの陣地を強く守備しているという事実が明らかになった。沢山の旗が誇示されていた。そして騎兵隊が近づくと前線の全体から銃撃された。戦隊はすぐに退却し、状況を報告した。将軍は夜明けに攻撃することを決めた。

 

17日の午前6:30に騎兵隊が出動した。そしてすぐにジャララと呼ばれる村の近くの仏教遺跡で部族民に出会った。小競り合いが起こった。その間に歩兵隊が接近していた。敵の主な陣地が明らかになった。ランダカイの支脈の全ての稜線上に、空を暗く縁取る旗印が見られた。その下では部族民の剣の刃が日の光に輝いていた。尾根の上には石の胸壁の長い列があって、その後ろには敵が密集していた。5000人以上がいたと推定されている。

 

これがどんなに強力な陣地だったかを理解するのは難しいことではない。軍の左側には手に負えない川があった。右側は急峻な山だった。正面には敵に保持されている長い尾根があった。谷を抜ける唯一の道は、尾根と川の間の土手道だった。前進するには敵を尾根から追い出す必要があった。ビンドン・ブラッド卿は前方に騎行して土地を偵察し、配置を決めた。

 

正面攻撃による陣地の奪取には大きな損失が伴うだろう。敵は手強く配置されているので、前進する部隊は激しい銃火にさらされる。一方、一度尾根が奪取されたなら、部族民の駆除は保証される。そこは良い陣地なのは彼らがそれを保持している間だけである。敗北の瞬間は破滅の瞬間になる。理由は以下のとおりである。尾根の背後にあるのは沼のような水田であって、敵は非常にゆっくりとしか退却できない。彼らの安全な退却路は支脈の上から丘の主稜線上に続いている。つまり彼らの退却路はその前線の延長線上にあったのである。もちろん、これは戦術的に人々が陥り得る最悪の状況の一つである。

 

尾根の背後にある土地がどのようなものかを知っていたビンドン・ブラッド卿は直ちに現状を認識し、それに応じて計画を立てた。敵の左翼を攻撃することを決定したのである。これによって敵の側面に回り込むだけでなく、適切な退却路を断ち切るのである。一度味方の軍勢が長い尾根から主要な丘に続く地点を確保したなら、尾根に残っているすべての部族民は捕えられるだろう。そこで彼は次のような命令を出した:―

 

王立西ケント隊は前面を偽装し、敵の注意を引くこと。歩兵の残り、すなわち第24、第31パンジャブ歩兵隊、第45シーク隊は丘を右方向に登り、尾根の頭に側面攻撃を仕掛けること。騎兵隊は敵がそれを見渡していた尾根から追い出されるやいなや―工兵中隊が修理のために配置されている―土手道を通って前方に突進する準備を整えておくこと。そして水田を横切ってその先の開けた土地に逃げようとする敵を追撃すること。強力な砲兵隊の全てが直ちに戦闘を開始すること。

 

そして軍は前進した。王立西ケント隊は主要陣地の手前の小さな支脈で、仏教遺跡から敵の一部を追い払うことによって戦いを開始した。大砲がタナ村近くの狭い道路で動けなくなる可能性があったため、第10野戦砲兵隊は後方に残されていた。しかし、それは無事に到着し、今や急いで準備を整えて、午前8:50に敵の陣地、彼らが強力に守っている石の砦に砲門を開いた。数分後、第7山岳砲兵中隊は王立西ケント隊が奪取した支脈で戦闘を開始した。こうして大砲の重砲火が攻撃のための道を用意したのである。野戦砲の大きな砲弾は、それまで十二ポンドの破裂弾の爆発を見たことがなかった部族民を驚愕させた。二個山岳砲兵中隊がさらに彼らを狼狽させた。最初の十五分の砲撃の間に多くが逃げ去った。残りはすべて反対の斜面と胸壁の後ろに隠れた。

 

その間、側面攻撃が進行していた。メイクレジョン将軍と歩兵隊は急な丘の斜面を登り、尾根と主要な丘の接合地点に向かって着実に移動していた。ついに支脈の上の部族民は彼らを脅かす危険に気づいた。彼らは退却路をはっきりと意識した。彼らは白い軍隊が土手道に沿って強行突破を試みることを想定して、尾根の下端にかなりの数の予備兵力を配置していたのである。今や彼らは皆、孤立という大きな危険にさらされていることに気がついた。彼らは半島にいて、兵士たちは地峡を確保していた。そこで彼らは尾根伝いに左翼に流れ始めた。彼らは最初側面攻撃に応戦しようとしたが、その後破裂弾の砲撃が激しくなり、小銃射撃が増したため、ただ退却だけを望むようになった。山岳民族の丘の移動速度は非常に速かったため、ほとんどの敵は側面攻撃で孤立させられる前に逃げることができた。しかし逃げる際に射殺されたり、大砲に殺されたりした者も多かった。数人の勇敢な男たちが第31パンジャブ歩兵隊に突撃したがすべて殺された。

 

ビンドン・ブラッド卿は敵が総崩れになったのを見て、王立西ケント隊にほぼ無人になった尾根の正面への前進を命じた。イギリスの歩兵隊は急いで急勾配の丘を登り、石の胸壁を奪取した。この陣地から彼らは側面攻撃との連絡を確立した。そして全軍は長距離射撃で逃げる部族民を追撃した。

 

「スワットの門」はこじ開けられた。軍が土手道に沿って前進できるようになった。しかし、これはさまざまな場所で敵によって破壊されていた。工兵隊は急いでそれを修復した。その間、好機が向こうの平原にあることを知っていた騎兵隊は狂わんばかりの焦燥の中で待たなければならなかった。道路が十分に修復されて一列の通行ができるようになると、すぐに彼らは先を争って通過し、土手道の向こう側に二―三騎ずつ現れた。

 

いまや事件が起こった。それは素晴らしい勇気ある行動の機会をもたらした。しかし不必要な生命の損失を伴ったため、悲惨なものと呼ばなければならない。騎兵隊が荒れた路面を通過すると、先頭の騎手たちは約一マイル先に、丘に向かって素早く走って行く部族民を見つけた。追撃の興奮に夢中になって、抵抗がわずかだったために敵を侮って、丘に到達する前に敵を捕らえようと、彼らは勢いよく前進した。

 

アダムズ中佐は平野に入るとすぐに、墓地近くの小さな木立を奪取することができれば、退却する部族民に効果的な下馬銃撃を加えられると考えた。そこで、彼はできるだけ多くの兵士を集めて、マクリーン中尉とタイムズ紙の特派員フィンキャッスル卿と共に、その地点に向けて騎行した。一方、先頭の戦隊を指揮するパーマー大尉と、インドのタイムズ紙の戦争特派員を務めていたランカシャー・フュージリアー連隊(*火打ち石銃兵隊)のグリーブス中尉は敵を追って、水田を全速力で騎行した。戦隊は追いつくことができず、湿った土地でだらだらと長い列になった。

 

丘のふもとでは地面がより硬く、これに達すると、二人の将校は無謀にも敵の中に突入した。この精神によって帝国は多くの命を失ったのだが、多くの戦いでそれを得たのである。しかし戦いというより、むしろ策略に負けた部族民は猛然と追跡者に振り向いた。尾根上の部隊はすべてを目撃していた。パーマー大尉は旗の持ち主を切り伏せた。別の男が彼を攻撃した。鮮烈な打撃が大尉の腕を跳ね上げた。弾丸が手首を粉砕したのである。別の男が馬を殺した。グリーブス中尉は身体を撃たれると同時に地面に落ちた。敵は周りを囲み、横たわった彼を剣で叩き切り始めた。パーマー大尉はリボルバーを抜こうとした。この時、二人のスワールが沼のような水田を抜け出して直ちに全速力を出し、叫び声を上げながら救助に来た。そして部族民を切りつけ、滅多切りにした。彼らはすべてバラバラに切られるか撃ち倒された。丘の斜面は敵に覆われていた。負傷した将校たちはそのふもとに横たわっていた。彼らは囲まれていた。これを見てアダムズ中佐とフィンキャッスル卿、マクリーン中尉と二、三人のスワールが支援に駆けつけた。彼らの突撃によって部族民は少し後退し、激しい銃火を浴びせてきた。たちまちフィンキャッスル卿の馬が撃たれ、彼は地面に落ちた。彼は立ち上がり、傷ついたグリーブスをアダムズ中佐の鞍に持ち上げようと努力した。しかし、この瞬間に第二弾がこの不運な将校に当たって、グリーブス中尉は即死した。支援している間にアダムズ中佐は軽度に、マクリーン中尉は致命的に負傷し、二頭を除くすべての馬が撃たれた。ひどい銃火にもかかわらずグリーブス中尉の遺体と他の二人の負傷した将校は救助され、小さな木立に運ばれた。

 

生き残ったアダムズ中佐とフィンキャッスル卿の両将校はこの勇敢な偉業ゆえにビクトリア十字章に推薦され、それを受け取った。また公式の発表によれば、生きていればマクリーン中尉もそれを受け取っていたはずだった。思いがけない死が勇気の報酬を奪うことがあってはならない、と大勢の人々が思った。そして彼が素晴らしい兵士、良きスポーツマンとして知られていた辺境では特にそうだった。

 

フィンキャッスル卿とグリーブス中尉の両極端な運命については、少しばかり考察する価値があるかも知れない。両将校とも軍に正式に雇用されていなかった。両者とも自費で旅をし、戦争の何かしらを見るためにすべての障害を回避し、克服する努力をしていた。剣とペンの騎士、彼らには率いるべき軍勢、果たすべき任務、自らの行為を報告するべき注意深い指揮官はなく、自らの命以外に差し出すものは何もなかった。彼らは高い賭け金を支払った。そして戦場以外ではそこまで気まぐれではない運命の女神は、一方には兵士が望み得る限りの王の最大の贈り物とも言われる最大の名誉を、そして他方には死を払い戻したのである。

 

敵の敗走によってランダカイの戦闘は終了した。こうして数時間でほとんど損失なく、部族民が難攻不落と思っていた「スワットの門」はこじ開けられた。ブラジア・クレア大尉に指揮されたガイド騎兵隊の一個戦隊は、敵を追撃してアブエ村の近くで小競り合いに勝利し、夕方6:30頃にキャンプに戻った。[この士官はこの事件における手腕と判断力ゆえにディスパッチに言及された/しかし彼は辺境では一ヶ月後のハモンド将軍の命令によるママニへの見事な偵察でより有名である。多大な損害を被りながらも最も価値ある情報の入手に成功したのである。]戦いの最中、約1000人の部族民が輸送隊を脅かした、しかし、これは元気のない連中だった。第11ベンガル槍騎兵隊の二個戦隊との短い小競り合いの末、二十人の死傷者を出して退却したのである。その日の総死傷者数は次のとおり:―

 

                    イギリス軍将校

    死亡―R.T.グリーブス中尉、ランカシャー・フュージリアー連隊

      ―H.L.S.マクリーン中尉、ガイド隊

    重傷―M.E.パーマー中尉、ガイド隊

    軽傷―R.B.アダムズ中佐、ガイド隊

               現地兵―負傷― 5

               その他―負傷― 2

               総犠牲者―  11

 

将校の死をもたらし、ビンドン・ブラッド卿が公式ディスパッチに「不幸な出来事」と記した事件さえなかったならば、総犠牲者が七人に過ぎなかったことを覚えておく必要がある。非常に強力な陣地をほとんど損失なしに奪取できたのは、第一に将軍の作戦計画/第二に、彼が集中させた大砲の力あってのことだった。10月20日にダルガイの基地を急襲する最初の企てによってダーセットシャー連隊は深刻な損失を被ったのだが、その前に大砲による攻撃で揺さぶられたことは、ランダカイの戦闘を目撃していた人々を大いに反省させた。

 

翌18日朝、部隊は上スワットの谷を上って進軍を続けた。現地人はすっかり怯えており、もはや抵抗することはなく、和平を求めた。ランダカイでの彼らの損失は500人を超えていたことが確認された。彼らは正規軍がその強力な武器を使用できるようになったなら対抗するチャンスがないことを知った。

 

軍が肥沃で美しい渓谷を進むと、すべての兵士は多数の仏教遺跡に感銘を受けた。かつてここには繁栄した都市と文明化された人々がいたのである。法顕[仏教王国の歴史 ジェームス・レッジ、文学修士、法学博士訳]によると、ここには「計500のサンガラマ」、すなわち修道院があった。これらの修道院では以下のもてなしの法が実践されていた。「他所からビクシュ(托鉢増)が到着したときには、彼らの必要は三日間満たされる。その後は自分で寝る場所を探すよう命じられる。」すべては時とともに変わってしまった。その都市は今や廃墟にすぎない。野蛮人が文明的で穏やかな仏教徒に取って代わった。主人はもてなしを求める旅行者と関わる面倒を避けるため、彼をさっさと「寝る場所(*墓場)」に案内するのである。

 

「言い伝えがある。」と、その歴史の最も暗い時代に地球の最も荒れた国々を旅した勇敢な僧は続ける。「ブッダが北インドに来たとき、彼はこの地に来て足跡を残した。それは見る人によって長くも短くも見える。」博識の法顕は「それは今も存在する。そしてそれに関する真実は現在も同じである。」と断言しているが、様々な騎兵隊の偵察はそれを発見できなかった。残念ながら私たちはまたしても、それが時間の潮流に消し去られたと結論しなければならない。この仏教徒のペデケル(*当時の人気旅行ガイドの名前)は、ここで「彼が衣を乾かし/邪悪なドラゴン(ナガ)を改宗させた場所」の岩も見るべきであると言う。「それは十四腕尺(*約七メートル)の高さで二十腕尺(*約十メートル)以上の幅があり、その一面は滑らかである。」このことは良く信じられているのだろう/しかし、あらゆる大きさの岩の数があまりに多すぎたため、兵士たちはどれが竜が悔い改め、ブッダが衣を乾かした現場なのかを確かめることはできなかった。

 

その仲間はジェララバード、またはその地域の都市に向かって進んで行ったが、法顕は「公園」の緑と肥沃な美しさに魅了され、快適な谷に残り、「夏は静養していた。」それから彼はソフートの地に降りた。それはおそらくブナーである。

 

経済的と思われないような何ものも好まれない、この忙しく、実用的、無味乾燥な現代においてさえ、しばし過去のベールを上げ、かつてそうだったであろう世界を垣間見るのは無益なことではない。キリスト教紀元の五世紀は、人類の歴史の中で最も暗く憂鬱な時期の一つだった。大ローマ帝国はゴートのアラリック、フンのアッティラ、ヴァンダルのゲンセリックといった打撃の前に崩壊してしまった。古典時代の芸術と武勇は、ヨーロッパを水没させた野蛮の大洪水の中に沈んだ。教会はアリウス主義の論争で激しく揺れていた。守らなければならなかったその純粋な宗教は、迫害の血で汚され、迷信の恐怖によって堕落させられた。これらすべてが西洋諸国を苦しめ、人類の衰退または滅亡の予兆のように見えたとき、現在はローマを略奪した野蛮人よりも獰猛な野蛮人に支配されている北インドの荒々しい山々には、ニルヴァーナという言葉で表わされる穏やかな入滅の達成にその人生を捧げた/穏やかで、繁栄した、勤勉で知的な人々がいた。私たちは時間がもたらした大変革を振り返り、学びと進歩の中心地が年月とともにどのように変化したかを観察するとき、おそらく悲しい結論、文明の太陽が直ちに全世界を照らすことは決してできない、という結論は不可避である。

 

19日に部隊はミンガオラに到着した。そしてディーン少佐が各部族の降伏を受けている間、部隊はここに快適なキャンプを張って五日間待った。彼らは敗北によって非常に謙虚になり、穀物と飼料を供給することで軍隊の機嫌をとろうとした。停止中に800を超えるさまざまなタイプの武器が引き渡された。ミンガオラに到着した夜、キャンプに数発の銃撃があったが、村人たちは罰せられることを恐れて「狙撃者」を追い払った。21日にコトケ峠までの偵察が行なわれ、土地の性質に関する多くの価値ある情報をもたらした。全員がその景色の美しさに感銘を受けていた。24日に部隊がバリコットに戻るとき、彼らはヒマラヤの輝く雪の頂きが空の青と水田の緑を隔てている美しい谷の思い出を持ち帰った。

 

軍隊がバリコットで休憩している間、ビンドン・ブラッド卿は自らスワット渓谷とブナヴァル族の土地の間のカラカール峠を偵察した。ブナヴァル族はユサフザイ族のユサフ支族に属している。彼らは好戦的で乱暴な人々である。インド反乱(*1857―59)の鎮圧の後、反乱に加わったセポイと現地人将校の多くが、避難するためにその谷に逃げてきた。ここで彼らは半ば力によって、半ば説得によってその地位を確立した。彼らは土地の女性と結婚して定住した。1863年、ブナヴァル族はイギリス政府と衝突し、歴史上アンベイラ戦役として知られる激しい戦闘が続いた。インドからの難民は再び熱心に白人の軍隊を批判し、そしてその並外れた勇気と獰猛さゆえに「ヒンドゥスタンの狂信者」と呼ばれた。三十六人の将校と八百人の兵士という犠牲の上にブナーは鎮圧された。ついに第101フュージリアー隊が「岩山の哨兵線」を奪取し、作戦の終わりまで保持した。多大な費用をかけてインドから連れてこられたゾウたちが作物を踏みつけた。「ヒンドゥスタンの狂信者」のほとんどは戦闘で死んだ。ブナヴァル族は政府の協約を受け入れた。そして軍隊は撤退した。それ以来1868年、1877年、1884年に彼らは境界の村々を襲撃したが、遠征すると脅されたために罰金を支払い、損害を回復した。1863年の頑強な抵抗以来の評判は、辺境部族の間で彼らが指導的地位に就くことを可能にしていた/そして彼らはこれに乗じてイギリスに対するいくつかの暴動を扇動し、荒立ててきた。マラカンドとチャクダラの襲撃者の中に、黒と濃紺の服装をしている彼らを見分けることができた。今や彼らは元の谷に撤退し、そこから政府に反抗してすべての協約を拒否していた。

 

ビンドン・ブラッド卿とその護衛が峠の頂上に近づいたとき、そこの見張りが数発の銃弾を発射したが、抵抗はなかった。すべてのブナヴァル族はその地域の南の入り口を守るために急行していた。ラスタムのウォードハウス准将の軍隊に攻撃される危険があると考えたのである。将軍はコタルに到着し、足下の谷全体を見た。大きな村々が平野に点在し、肥沃で繁栄した景観を呈していた。

 

無防備なカラカール峠は軍隊の通行が可能であり、政府が同意した場合二週間以内に難なく、ほとんど戦うことなくブナーを征圧することができる。

 

この件についてインドに電報が打たれ、大いなる遅延と躊躇の後、総督は戦勝者である将軍の勧告に反対した。ブナヴァル族の始末が望ましいことは完全に間違いなかったが、政府はリスクに尻込みしたのである。こうして二週間近くマラカンド野戦軍は休眠状態になった。インド政府がブナーに攻撃することを恐れているというニュースが、辺境に山火事のように広がり、部族民の意気を復活させた。彼らは弱さの兆候を見つけたと思った。それがまったく間違っているわけでもなかった。しかしその弱さは物質的というより精神的なものだった。

 

ブナーの処罰は延期されているだけであり、数か月後には完了するだろうという主張がある。[1897年記]しかし峠を強行突破することなくその土地へ入る機会は二度とないかもしれない。

 

8月26日、部隊はタナに戻り、上スワットへの遠征は終了した。

 

[以下は7月26日から8月17日までのスワット渓谷での戦闘で命を落とした部族民の最も信頼できる推定値である。数字には負傷した後に死亡した者も含まれている。その数は戦闘中に即死した者の二倍以上である―(*つまり即死者は総死者数の三分の一以下、すなわち約700以下、負傷後の死亡者数は1400以上)

 

  1.下スワット   パシュトゥーン人 ・・・ 700  墓地に埋葬

  2.上スワット   パシュトゥーン人 ・・・ 600  墓地に埋葬

  3.ブナー固有            ・・・ 500  墓地に埋葬

  4.ウトマン―ケル          ・・・  80

  5.ユサフザイ            ・・・  50

  6.その他の部族           ・・・ 150

            合計― 2080

(*前述の通り、ブナーはユサフザイの一支族)

 

 

 1、2、3は現地での最近の調査の結果である。

 4、5、6は現地情報に基づく推定値である。

 

部族民には外科的または内科的知識がほとんどなく、援助の申し出をすべて拒否したため、負傷者の中の死者と負傷後死者の割合は非常に高かっただろう。負傷者のその後の死亡数(*前述1400)と回復数が等しいと仮定すると、合計損失(*即死者数700と負傷者数1400と1400の合計)は約4000になる。これらの数値を各戦闘の個別の推定値と比較して、照合することが可能である。

 

  マラカンド     ・・・  700

  チャクダラの包囲  ・・・ 2000

  チャクダラの救援  ・・・  500

  ランダカイの戦闘  ・・・  500

        合計― 3700

 

 

第八章:モーマンドの地への前進

 

遠征の原因―シャブカドルの戦闘の概要―動員された兵力―作戦の全体計画―マラカンド野戦軍の前進―パンジコラ渡渉―この地の政治的側面

 

この章の冒頭において物語を語る立場の変化に対する注意が必要である。私はこれまで一連の出来事を客観的なヒストリー形で記録してきた。しかし今後は他の人々の証言と同様、自分の記憶にも頼ることができる。[私は読者を退屈させたり、個人的な事情を差し挟んで物語の価値を下げたりしたくはない。首尾一貫させるためには私とマラカンド野戦軍との関係を説明すれば十分だろう。私はイギリス軍の現役騎兵将校が命令を受けるまで待つとすれば、かなりの時間を待つことになるであろうことに気がついた。(*チャーチルは当時南インドのバンガロールの連隊に赴任していた)そこで連隊から六週間の休暇を取り、9月2日に記者としてマラカンドに到着した。パイオニア誌とデイリーテレグラフの特派員として、また遅かれ早かれ戦力として軍に加わることを期待して。]目撃者によって記されたとき、歴史的記録はその価値を高めるか、失うかは疑わしいところである。個人的な観点から見るなら、すべてのものはそれが個人に影響を与えた度合いに応じて緩やかな遠近感を伴って見えるものである/そして私たちは自分が聞いたものよりも、見たものの重要性を相対的に誇張する傾向があり、物語の細部の正確さが増せば、全体のバランスの正確さが失われるだろう。それはとても良い論点だが私は意見を述べようと思わない。この本に着手した本来の目的は、北西辺境での戦争の姿を本国の英国人に紹介することだったと記憶している/存在するだけではなく、見ることができる姿である/そして私は個人的な物語という文体の採用によって、この目的の達成がより容易になるという考えに傾いている。歴史的記録としてはあまりにローカルで、専門的で、重要性が低いが、読者が場面や状況の真の印象を掴むために役立つ多くの事実が本書の中には盛り込まれている。記事は重々しくないほうがより鮮明になり、裁判官的でないほうがより活き活きしてくる。「歴史の尊厳」から降りるそれぞれのステップに、それに見合った関心の高まりが伴う限り、私たちはその快い道を、下る道であったとしても、気兼ねなく辿って構わないだろう。

 

第九章では、部隊の作戦の新しい段階も紹介している。モーマンド族が敵となり、場面がスワットからバジャウルに変わる。その地に進軍する前に、インド政府がこの強力で好戦的な部族に対して遠征隊を派遣する事になった理由や経緯を簡単に考察しておくことが望ましいだろう。

 

辺境を一掃した狂信の津波は、他のすべての国境の人々と同様に、モーマンド族に影響を与えた。しかし、彼らの状況はいくつかの重要な点でスワット渓谷の住民とは違っていた。このモーマンド族は全く刺激されたり、干渉されたりしていなかった。彼らの土地を通る軍用道路はなかった。要塞化された基地が敵意をかき立てたり、独立を脅したりはしていなかった。もし彼らが長く享受してきた孤立を何より尊重していたなら、彼らは、イギリスのある人々に非常に強く気に入られているらしい、劣化した野蛮主義の状態にいつまでも留まっていられたかも知れない。しかし、彼らは侵略者になった。

 

この獰猛な部族民が住んでいる荒涼とした陰鬱な山岳地帯の心臓部は、ヤロビの寺院と村である:前者は奉献された陋屋、後者は要塞化されたスラムである。この人目につかず邪魔の入らない隠れ家はハッダ・ムラーとして有名な、非常に高齢の、独特の神々しさを持つ僧侶の住居だった。彼の名前はナジブ・ウ・ディンである。しかし部族民は敬意ゆえに五十年近くその名を呼ぶことがなかったため、それは異教徒の記憶と記録の中だけに残っている。しかしインド政府は何度かこの男の性格をまざまざと見せつけられていた。約十三年前、彼はアミールと仲違いし、彼に対してモーマンド族を蜂起させた。彼の本国と出生地はアフガニスタンのハッダ村だったため―アミールは反乱を起こした臣民に、その責めを負うためにカブールへ出頭するよう命じた。しかしアフガニスタンの法的手続きをよく知っていたずる賢い僧侶は招待を断り、それ以来外部の支配と制約がないモーマンド地域に隠居していた。

 

こうして追放の罰を課すことに満足して、アミールはその罪を忘れることにした。彼はそのムラーの大親友である部下の司令官「シパ・サラー」への手紙の中で、彼を「イスラムの光」と表現した。とても強力な光、確かに、彼はそれが自分の領内にいることを望まなかった/しかし国境の向こうにいるのであれば、その非常に神々しい人物に尊敬を示すのは適切なことだった。そこで彼は部下の役人に彼を大事にし、尊敬するように指示した。こうして彼は―必要なときに使用できる―強力な武器を手にした。扇動についても個人的な動機についても、ハッダ・ムラーは長い間英国の権力に対する苦々しい敵だった。1895年、彼はモーマンドの戦士を派遣してチトラル救援部隊に抵抗させた。それ以来、彼は説教や他のムラーたちとの通信によって、前進してくる文明に対抗する大きな連合体を育て上げることに積極的に携わってきたのである。

 

1896年、彼はノウシェラとスピンカーラのマンキ・ムラー―今はインド政府を支持する比較的従順なムラー―との長い宗教論争を終結させた。自らの意見を述べた本を出版し、敵対者のそれを粉砕したのである。この作品はデリーで印刷され、インド中のマホメダンの間で大々的に販売された。無料の複写が「シパ・サラー」およびその他のアフガニスタンの名士に送られ、ハッダ・ムラーは国中で名声を得た。自らの影響力が増したことに加えて、その文筆における成功が彼の奮闘を刺激した。

 

マッド・ファキールがスワットとブナーを鼓舞している間、この強力な僧侶はモーマンドを扇動した。彼は肉体的には弱者であることが知られていたが、その神々しさと、彼ら自身の特別な聖人であるという事実が、その雄弁に劣らずこの野蛮な部族を強力に動かしていた。ジハードが宣言された。イスラム教はいつまで侮辱されているべきだろうか?イスラム教徒はいつまで北の不毛の地に潜んでいるべきなのか?僧侶は彼らに立ち上がって白い侵略者の撲滅に参加するよう促した。死んだ者は聖人となる/生き残った者は豊かになる。カフィールたちは真の信仰者が使ってよい金や他の多くのものを持っているからである。

 

略奪と楽園の組み合わせの誘惑に抵抗することは難しかった。8月8日、6000人近くの大勢の集団が国境を越え、イギリス領に侵入し、シャンカルガルの村を焼き払い、シャブカドルの砦を攻撃した。この場所は辺境の防御システムの前進基地で、ペシャワルの北西約十九マイルに位置している。通常約五十人の国境警備隊員が駐屯している。それは強力に築かれており、ペシャワル守備隊の出陣の準備ができるまで襲撃者の注意を引き、前進を遅らせることを目的としている。このケースにおいて、これらの目的は見事に達成された。

 

モーマンド族の侵攻のニュースがペシャワルに届くやいなや、第20パンジャブ歩兵隊のJ.B.ウーン大佐が指揮する遊撃隊が動員されて、砦の方向へと前進した。8月9日の夜明け、彼らは部族民がシャブカドル近くの手強い陣地にいることを発見した。ウーン大佐の配下の兵力は小さかった。構成は次のとおり:―

 

   砲4門 第51野戦中隊

   2個戦隊 第13ベンガル槍騎兵隊・・・・     槍151本

   2個中隊 サマセットシャー軽歩兵隊・・・・ ライフル186丁

   第20パンジャブ歩兵隊・・・・       ライフル400丁

 

合計約750人の兵士。敵の数は6000人だった。それでも、すぐに攻撃することが決定された。

 

その後の戦闘についてはマラカンド野戦軍の運命と遠隔的に結びついているため、詳細に説明するつもりはない。前進してきた歩兵隊が攻撃できるのは600ヤードの前線だけだった。敵の戦線ははるかに長く、素早く両翼を回り込んできた。銃火の応酬が激しくなった。多数の死傷者が発生した。退却が命じられた。アジア型の戦争ではよくあることだが、相当な圧迫を受けていた。九時頃の状況は危機的なものだった。このとき、ペシャワル地区の指揮官であるエルズ准将が戦場に到着した。彼はすぐに、第13ベンガル槍騎兵隊の二個戦隊に命令を出した。大きく右翼に移動して、前線を横断する突撃によって敵の前進を阻止するべし。運動会のときのように「撃ち方やめ」が号令された。そしてそれは停止された。ほとんどの部隊には騎兵隊の動きが見えなかったが、突然、全員が敵の銃火が緩んだことに気づいた。そして部族民が無秩序に退却して行くのが見えた。騎兵の力が目覚ましく発揮された。巧みに率いられた二個戦隊は、理論家が不可能な路面と断じるだろう巨大なヌラーの川床の一.五マイルの見事な突撃を成し遂げた。そして岩と石の間で速歩にペースを落とした。敵は戦野から追い出された。六十人が実際に槍騎兵に突き刺され、残りは気落ちして無秩序に辺境の向こうの彼らの丘に退却した。

 

死傷者は次のとおり:―

 

                イギリス軍将校

  重傷―A.ラム少佐        サマセットシャー軽歩兵隊

    ―S.W.ブラッカー大尉   王立砲兵隊

    ―E.ドラモンド第二中尉   サマセットシャー軽歩兵隊

  軽傷―A.V.チェーン中尉    第13ベンガル槍騎兵隊

 

                イギリス軍下士官と兵

 

                         死亡  負傷

  第51野戦中隊、王立砲兵隊     ・・・・  0   2

  サマセットシャー軽歩兵隊      ・・・・  3   9

 

                現地兵

 

  第13ベンガル槍騎兵隊       ・・・・  1  12

  第20パンジャブ歩兵隊       ・・・・  5  35

  その他               ・・・・  0   1

 

          総犠牲者数、すべての兵士―  72

 

こうした蹂躙はこれらの野蛮人による英国領土の意図的な侵害であり、「フォワード・ポリシー」であろうが「フォワード・ポリシー」でなかろうが、罰せられずに済むことはもちろんあり得ない。しかし、インド政府がブナヴァルの問題に示したゆらぎとためらい、カイバル峠の要塞の衝撃的で不名誉な遺棄がすべての人心に新しかったため、モーマンド族討伐の命令は軍全体に最大の安心感をもって受け入れられた。司令官が準備した作戦の全体的な計画は次の通り:―

 

1.ビンドン・ブラッド卿とマラカンド野戦軍の二個旅団は相応の騎兵と砲とともに南バジャウルを通ってナワガイに移動し、9月15日にその場所からモーマンドの地に侵入する。

 

2.同じ日にエルズ少将が同じ戦力でシャブカドルを出て国境の山に入り、北東に進軍して合流する。

 

3.これがなされた後、連合軍はビンドン・ブラッド卿の最高指揮下にモーマンド地域を通ってシャブカドルに戻る。ついでに彼らはハッダ・ムラーのヤロビ村に対処し、部族民の服従を確実にするために必要な罰を与える。軍はその後、既に組織することが決められていたティラ遠征隊に利用される。

 

ナワガイの先の地形については何も知られておらず、地図が存在しない/途中に食糧、飼料、水の供給が存在しない、という事実がこれらの作戦の準備と実行をいくらか困難なものにしていた。配給の問題に関しては広いマージンを認める必要があり、現地のすべての不測の事態や障害に備えるため、ビンドン・ブラッド卿は第2旅団にラバ輸送を完全装備した。道路が通行可能であれば、ラクダを伴った第3旅団が続く。

 

用いられた軍の構成は次のとおり:―

 

               一.マラカンド野戦軍

 

   指揮―ビンドン・ブラッド少将

 

                   第2旅団

 

   ジェフリーズ准将 C.B.

  バフ隊

  第35シーク隊

  第38ドグラ隊

  ガイド歩兵隊

  第4中隊(ベンガル)工兵隊

  第7山岳砲兵中隊

 

                   第3旅団

 

   ウォードハウス准将

  女王陛下の連隊[この連隊は第3旅団ではゴードン・ハイランダーズと交代した。]

  第22パンジャブ歩兵隊

  第39パンジャブ歩兵隊

  第3中隊(ボンベイ)工兵隊

  第1山岳砲兵中隊 王立砲兵隊

 

              騎兵隊―第11ベンガル槍騎兵隊

 

         連絡線 第1旅団

 

  メイクレジョン准将

  王立西ケント隊

  ハイランド軽歩兵隊

  第31パンジャブ歩兵隊

  第24パンジャブ歩兵隊

  第45シーク隊

  第7英国山岳砲兵中隊

 そして、次の追加部隊:―

  1個戦隊 第10ベンガル槍騎兵隊

  2個戦隊 ガイド騎兵隊

 

               二.モーマンド野戦軍

 

                  第1旅団

 

  第1大隊 サマセットシャー軽歩兵隊

  マキシム機関銃支隊 第1大隊デボンシャー連隊

  第20パンジャブ歩兵隊

  第2大隊 第1グルカ隊

  AおよびB分隊  第5英国野戦病院

  3個分隊 第31現地野戦病院

  A分隊  第45現地野戦病院

 

                  第2旅団

 

  第2大隊 オックスフォードシャー軽歩兵隊

  第9グルカライフル隊

  第37ドグラ隊

  CおよびD分隊 第5英国野戦病院

  第44現地野戦病院

 

                  師団

  第13ベンガル槍騎兵隊

  第3山岳砲兵中隊 王立砲兵隊

  第5(ボンベイ)山岳砲兵中隊

  第5中隊(ベンガル)工兵隊

  第28ボンベイ先発工兵隊

  第1パティアラ歩兵隊

  CおよびD分隊 第63現地野戦病院

 

遠征軍の実際の動きを記録することは、その物語に着手した者の最も大切な義務の一つである。簡潔に、明瞭にするために、また興味のない読者には読み飛ばされてしまうだろうから、私はビンドン・ブラッド卿がパンジコラ川を渡って旅団を移動させた行軍と、作戦の全体を速やかに説明することにしたい。マラカンド野戦軍がゴーサムに無事に宿営した後、その背景を吟味し、道中の出来事に注目するため、読者にはもう一度戻って来ていただくことにする。

 

8月末、ラバ輸送を備えた第2旅団はスワット渓谷のカルにいた。第3旅団はウチにいた。9月2日シムラから明確な前進命令が届いた。この指示に従って、ビンドン・ブラッド卿は数日前にあらかじめウチから移動していた第3旅団のウォードハウス准将に命令を出した。ディリのカーンの徴集兵部隊からパンジコラ川にかかる橋を引き継ぎ、通路の安全を確保するべし。6日、第3旅団はサライからパンジコラまで行軍した。そして橋を敵の手に落ちる寸前に確保した。敵は既にそれを奪うために集まっていたのである。この通路を見渡す強力な位置に第10野戦中隊の十二ポンド砲が配置された。そして旅団は左岸でキャンプした。同じ日にジェフリーズ准将が司令部とともにカルからチャクダラまで行軍した。7日に彼はサライに進み、8日にパンジコラの渡渉を果たし、コトカイの先の土手でキャンプした。10日、両旅団はゴーサムに行軍し、そこで合流した。マラカンドとの連絡線上にある、チャクダラとサライに病人と負傷者のための宿場が設置された。パンジコラの後方に前進兵站部が設営され、それを守り、通路を保持するための追加部隊がスワット渓谷から移動した。

 

細部が機械的に非常にうまく機能したゴーサムでのこの集結に対して、バジャウルと隣接する谷の部族民が反抗的な態度を取らないはずがなかった。大きな会合が開かれ、9月7日までは断固たる抵抗のあらゆる兆候が見られていた。恐るべき連合体が現れたため、ゴーサムあるいはその近辺での戦闘を予測して、ビンドン・ブラッド卿はおそらくテル・エル・ケビール以後の英国のどの戦闘よりも大規模な、六個戦隊、九個大隊、三個砲兵中隊を自由に使えるよう手配した。[この勝利におけるイギリスの死傷者に関しては多くの誤解が存在するため、二十分間の戦闘で11人の将校と43人の兵士が死亡し、22人の将校と320人の兵が負傷したことをはっきりと述べておかなければならない。]

 

しかしこの予測は失望に変わる運命にあった。強力な部隊の整然とした容赦ない前進は部族民を警戒感で満たした。彼らはパンジコラ橋の奪取を中途半端に試みた、そして機先を制されていることに気づいて再び議論に入った。不決断のこの局面において、政務担当官はそのすべての術策を弄した。そして突然、私たちの行く手に集合した巨大な連合体の全てが、南の海に基部を溶かされた氷山のように崩壊したのである。

 

博愛主義者が何と言おうとも、部族民には立場をはっきりさせて、公然と前進に抵抗するよう勧めるのが良い方針だっただろう。もし彼らがそうしていたならば、地上のあらゆる場所を知り、奪い合ってきた勝利者である指揮官に率いられた、強力な大砲に支援された強力な二個旅団は、間違いなく彼らにひどい損害を与えて打ち負かしていただろう。バジャウルは一撃で片付き、人命の損失はおそらくその後に発生したよりもはるかに少なかったことだろう。私たちの交渉の目的はそうではなく、抵抗を分散することだった。重大な局面になるべきで、そして手術されるべきだったこの炎症は今や全身に撒き散らされ、今後の章にその結果が示されることになる。

 

こうして旅団が無事にゴーサムに着いたため、読者には一旦マラカンドに戻って、そこから司令部スタッフの行軍に同行していただくことにする。9月5日、私が同行を喜びとするビンドン・ブラッド卿とそのスタッフはキャンプを出発し、カル平野を越えてチャクダラへと進んだ。この絵のような要塞の風景と状況についてはすでに説明したが、ここで夜になったため私たちは休止し、行軍は翌朝、遅滞なく続けることになった。チャクダラからサライまでは十二マイルの行程である。カトガッラ峠の頂に達するまで、道は絶え間なく谷を上っている。「カトガッラ」とは「喉を切る」という意味である。実際、この陰気な隘路が暗く恐ろしい行為の現場だったと信じることは難しくない。そこから二マイル下るとサライである。途中私たちは第2旅団に出会い、ラバの長い列と行軍する兵士を避けるため、道路を離れなければならなかった。

 

サライの谷の幅は約二マイルで、そこから急峻な山々が立ち上がっている。すべての小尾根に古代の仏教徒の住居だった赤レンガの遺跡を見ることができる。放り出され、忘れられて久しい初期文明のこれらの遺物は関心を刺激し、内省を呼び起こさずにはおかない。それは心を「パンテオンから犠牲の煙が昇り、フラビア朝の円形闘技場にキリンとトラが繋がれていた」時代に立ち返らせる。そしてそれは私たちに未来までも推測させる、いつか旅行者が、平然と落ち着き払って、英国のかつてのインド領有を示す石と鉄の小さな欠片を調査する日が来るのだろうか。実際、残るものは僅かだろう。私たちが目下の利益のため、未来ではなく現在の虚飾のために築くなら、私たちがいつか世界で力を失ったとき、その痕跡は時間とともにたちまち消し去られるだろう。しかし、おそらく遠い後世のいまだ生まれぬ批評家が、「古イギリス時代」にインドの歴史上のどの時代よりも米の収穫が豊富で、耕作地のエーカー数が多く、人口が多く、死亡率が低かったことを思い起こすなら―私たちはピラミッドよりも輝かしい記念碑を打ち立てたのだろう。

 

私たちは6日の夜に第2旅団と一緒に宿営し、翌朝まだ星が輝いている間に行軍を再開した。サライから五マイルの所で道は細くなり、ラバの踏みならした道になる。そしてこの先は車輪の通行に適していない。それにも関わらず、第10砲兵中隊はそこを通って砲を移動させることに成功し、無事にパンジコラ川へと運んで行った。実際、兵士たちは敵に近づくために多くのことを成し遂げるものである。川の峡谷の前に広がっているのは陰鬱だが壮大な景色である。向こう岸には大きな崖が急峻に聳え立っている。道は岩の壁で途切れている。川の流れは速く、橋の約一マイル下流で狭い裂け目に突入して山間に消える。そこには魚がたくさんいるが、流れが速く危険である。そして軍がその近くに野営している間に二人の砲兵が落水して命を落とし、流れ去った。確かに数頭のラクダの死体が押し流され、渦に巻かれて、岩に打ち付けられるのを見るにつけ、その事故を理解するのは難しいことではなかった。

 

ようやく橋に到達する。それはワイヤーロープで支えられた脆弱な構造物である。両端には門があって、その側面には小さな泥の塔がある。砲台は右側の小丘の上に設置され、砲身の長い砲が砲眼から反対側の丘を覗き込んでいた。チトラル戦役で多くの厳しい戦いがあったのはこれらの丘の基部辺りである。橋から約半マイル先に、ガイド隊が非常に強く圧迫された場所があった。圧倒的な数の部族民のため一晩中窮境に立ち、大佐が殺され、橋が壊れ、川が洪水に襲われたのである。

 

野外電信は橋頭で止まっていた。そして半ダースの軍事通信士がいる小さなテントがあって、何千マイルもの海と陸地を通って私たちとロンドンをつないでいる細い糸が切れたことを示していた。この先は明滅するヘリオグラフを備えた信号局の短信が唯一のリンクとなる。私たちは電線の末端にいた。私はしばしば反対側の末端に立ち、届いたニュースをテープマシンがカチカチと打ち出すのを見たものである/軍の動き/行動の見通し/戦い/死傷者。なんと違った光景だろう。秋の夕方のクラブ/外の交通の雑音/タバコの煙と電灯の中で―メンバーは心配そうに寄り集まって、議論し、疑問を呈し、主張したものである。そして電線のたった一時間先へ行けば、渦巻く泥水に輝く明るい日光/峻厳な黒い岩/谷の一マイル上には旅団の白いテント/川沿いに連なる鮮やかな緑の水田の長い縞模様/そして前景には茶色い服の武装した男たちの戦場である。どちらの末端に居るべきかについて、私には全く疑いがない。ニュースを聞くよりもニュースを作る/批評家よりも俳優になった方が良い。

 

橋を渡るには鞍を降り、馬を引いて一列に並ぶ必要があった。それでも構造全体が揺れるため、歩行は困難だった。そのような条件下において輸送隊の通過には終日を要した。ラバの長い列を担当した不運な将校は休みなく働いていた。しかし、司令部スタッフはさっさと通り過ぎた。そして約一マイル先でジャンドル川の支流の浅瀬を渡り、正午頃コトカイのキャンプに到着した。そして翌日、私たちはゴーサムに進んだ。しかし道路は特に興味深いものではないため、読者にはこれ以上の説明を快く免除していただけるのではないか、と私は思い始めている。私たちはホコリと暑さに難渋しながらそれを行く必要はない。様々な事件によって注目されることのない、軍の日常の動静の物語は、退屈でうんざりするようなものである。しかし従軍中の兵士の生活を真に理解しようとするなら、行軍の疲労とキャンプの単調さを精神的に共有しなければならない。優れた功績、戦争のスリリングな瞬間は情勢のハイライトに過ぎず、その背景はルーチンで、重労働で、不愉快なものである。

 

第2旅団は第3旅団と合流するまで、そして政務担当官と部族民のジルガ(*民会)との間の保留中の交渉が再開するまでゴーサムに残った。

 

すべての文書において純粋にローカルな用語は推奨されない。インドに広く普及した歴史が存在しないのは、おそらくそのページに散りばめられたキャラクターの異様な名前とその異名のせいだろう。この記事の中で私は訛った聞き苦しい方言を避け、現地語の使用を最小限に抑えるよう努めた。しかし最近採用されたばかりのこの用語は、おそらくその意味を説明するのに都合が良いため、近頃新聞でよく使われている。ジルガは部族民の代表団である。必ずしも部族全体を代表しているとは限らない。それは―非常に頻繁なことだが―少数派の申し入れに過ぎないのかもしれない。それは時折、そのメンバーだけの意見を述べていることがある。したがってある日に決まったことが翌日にしばしば無効になる。ジルガが朝に和平の協約を受け入れるかもしれない、そしてキャンプはその夜急襲されるかも知れない。しかし今の彼らは本物だった。そして部族の名前と権威を代表して話をした。彼らは政府の協約を聞くため、終日ディーン少佐のテントの前にやってきて、列をなしてしゃがみ続けた。課された主な条件はライフルの引き渡しだった。財力と人口の計算に基づいて決められた数が各部族に要求された。日夜闘争に明け暮れている人々にとって、この刑罰は特別癪に障るものだった。しかし、他の道はなかった。代表団は服従し、協約を遵守することを約束して出立した。彼らの武器を集める努力と熱意を促すために合同作戦は三日間遅らせられ、軍はマンダ近くのゴーサムに野営した。

 

私はこの休みを利用して、少なからず胸騒ぎがするが、ディリとバジャウルの部族政治のもつれた、世に知られていない問題に触れようと思う。助成金の支払いによって恩恵を受けている人々は別として、僧侶によって扇動されたすべての人々は英国政府に対して苦々しい敵意を持っている。今や彼らは戦うことを切望しており、彼らを縛っているのは怒りや狂信によってたやすく乗り越えられる恐怖だけだった。地域全体に四人の主要なカーン(*アジアの王族、貴族の称号)が存在し、絶対的な支配権からうっすらした宗主権に至るまで、地域ごとに様々な権力を行使している。最も重要なディリのカーンは政府に公認されている。彼はイギリスの影響力に支えられており、すでに言及したようにチトラル街道を保護し、維持するための徴集兵を集めることを委任されている。これらの仕事ゆえに彼は報酬と一定の武器弾薬手当を受け取る。領民は彼の英国への共感を嫌悪しているためその支配に強く反発しており、彼が自分を守る助けになるのは政府が与える武器と金銭だけである。言い換えるなら彼は人形である。

 

ナワガイのカーンは恐怖によってインド政府に友好的な態度を示すことを強いられていた。領民はこれに憤っている。それゆえ彼の立場は不安定なものである。彼はイギリスのエージェントからいくらかの無形の援助を受けている。政府がいつまで彼を支持し続けるかは分からないが、彼の困難な立場もまた部分的に理解しているため、領民はこれまでその支配に嫌々服従してきた。

 

ジャーのカーンの地位と態度はそれに似ているが、彼はそれほど影響力のない首長である。四番目の実力者であるカル(*マラカンド峠の麓のカル平原とは別。マムンド渓谷直下の平原。)のカーンは、おそらく最も正直で信頼できる人物である。彼は後の章にも登場する。そして読者には彼の行動によってその人格を判断する機会があるだろう。このように、これらの谷の支配者たちはすべての人々と敵対しているため、イギリスへの友好的な態度を維持することが好都合である。それゆえ彼らは領民に嫌われている。

 

ここで人気のある一派のリーダーに注目しなければならない。いつものながら彼は不在である。1895年のチトラル遠征の後、ウムラ・カーンはその領地から追放され、カブールに逃げた。彼はそこに留まっていた。アミールは英国政府に対してバジャウルで彼が問題を起こすことを防ぐ義務を負っていた。アミールが戦争を望めば、彼はウムラ・カーンを送り返すだろう。これは地域全体―特にジャンドル渓谷、サラルザイ渓谷、およびマムンド渓谷―に強い徒党を作り、イギリス人とその友好的なカーンに敵対するだろう。アミールはインド政府への最近の手紙でこのことをほのめかした/そして、おそらくそのような段階に至るのは彼の宣戦布告の前か、私たちのそれの後だろう。しかしアフガニスタンの元首は自分に王位を与え、それ以来助成金によってその収入を増加させた大きな権力に戦争の挑発をすることで今得るものは何もなく、失うものが多いことを知っていた。一方、自らの国境の部族への影響力を維持し、自分が強力な敵になり得るという事実をインド政府に印象づけることを強く望んでいるがゆえに、彼は機会が訪れたら切るべきトランプ・カードとしてウムラ・カーンを持ち続けているのである。追放されたカーンはバジャウルにおける権威を維持するために、郎党を武装させ、養うための資金を十分に供給されていた。

 

このように簡単に説明した状況は、以下の章に関わる作戦によってほとんど変更されなかった。軍事デモンストレーションと抵抗した部族に課された厳しい処罰が、友好的なカーンの忠誠心と立場を強化した。一方、戦争が人々の敵意を異常に増大させることはなかった。そしてある一部族はその勇気によって特別な名声を得た。それは将来、彼らがトラブルを起こす力になるだろう。しかし、話の先取りはしないことにしたい。

 

 

第九章:偵察

 

ジャンドル渓谷―七人のカーン―辺境外交―バルワ―アフガニスタンのナポレオン―非実用的な考察―スズカケノキの下で―武器問題―その意義―ウトマン・ケルの峠―手つかずの谷―成功した「はったり」―夜の宿営地

 

両旅団の歩兵隊がマンダ近くのゴーサムで停止している間、騎兵隊はあらゆる方向に毎日偵察を行った。視界にある対象は地形学的であり、時に軍事的であり、他の者には外交的、インド的応用でその言葉を使うなら「政治的」だった。

 

10日、ディーン少佐はジャンドル渓谷の様々な首長を訪問した。私は彼に同行の許可を求め、了承を得た。手の空いているすべての人々は暑くてホコリっぽいキャンプからの転地に乗り気だった。そして結構な一団が結成された。その中にはビートソン少佐、ホブデイ少佐、フィンキャッスル卿など既に本書に登場した名前もあった。第11ベンガル槍騎兵隊の戦隊が護衛を務めた。

 

ジャンドル渓谷は約八マイルの長さがある。そして幅はおそらくその半分である。それはパンジコラからナワガイまで続く主渓谷に起始し、他のすべての側面を高く険しい山々に囲まれている。ほぼ半マイルの幅がある川床には、私たちの訪問時には小さな小川が流れているだけだった。それに隣り合う水田には巧みに工夫された堤と水路で水が引かれている。平原自体は乾燥して砂だらけだが、冬には中等度の収穫が得られる。多くのスズカケノキの木立が地下水の存在を証明している。

 

この谷は自然および政治的特徴において、アフガニスタンの谷の典型と見なして良いだろう。七つの別個の城が七人の別々のカーンの拠点を形成している。これらの有力者のうちの数人がマラカンド攻撃に関係していたため、要塞への私たちの訪問は完全に友好的な性質のものではなかった。死ぬまで戦うという最も神聖な誓いを結ぼうとして、彼らは丸四日間を費やした。しかし大きな部族連合は崩壊し、間際になって彼らは和平を決定したのだった。しかしパシャン人は中途半端なことはしない。険悪な表情や不機嫌な沈黙でその歓迎の温かさを損なうようなことはしない。私たちが最初の要塞化された村に近づくと、首長がその軍勢とともに馬に乗って私たちを出迎えに来た。そして多くの言葉で忠誠を主張し、私たちの無事な到着に喜びを表明した。彼は見栄えが良く、スタンピング・ローンの種牡馬に姿よく騎乗していた。その服装は印象的だった。金のレースに厚く覆われたゴージャスな深紅のチョッキから、手首をボタンで留めた、流れるような白いリネンの袖が伸びていた。また長くてゆるい、だぶだぶのリネンのズボンも足首の上で留められていた。そして靴の先端は奇妙に尖っていた。この印象的な装いは豊かな刺繍が入った小さなスカルキャップと、装飾用の剣によって完成されていた。

 

彼は優雅に機敏に馬を飛び降りてディーン少佐に剣を捧げた。少佐は騎馬して同行するように言った。兵は毛むくじゃらのポニーに乗った、かなりバラバラの様式のライフルで武装した四―五人の悪辣な見かけの男たちで、距離を置いて後に続いた。砦は百ヤード四方の囲いだった。その壁はおそらく高さ二十フィートで、泥で塗りつぶされた粗石と散在する木材の層で築かれていた。その上部全体に沿って銃眼が並んでいた。それぞれの角には進入路に縦射を加えるための高い側面塔があった。この好戦的な住居の門には約二十―三十人の部族民が集まっていた。率いていたのは年配の、長い白いローブを着たカーンのいとこだった。全員が私たちに厳粛な敬礼をした。護衛が間隔を詰めた。一団は砦の射程圏内から速足で出て行った。前進偵察隊は壁を周って遠い側に位置をとった。こうした細かな事柄が容れられた後、会話が始まった。それはパシュトゥ語で行われたので、当然ながら二人の政務担当官以外の私たち全員には理解できなかった。どうやらディーン少佐は二人の首長の行動を非難していたようだった。彼は彼らがパンジコラにかかる橋を奪取して、マラカンドを攻撃するために集まった狂信的な群衆に通路を提供したことを責めた。彼らはいかにもあっさりとこれを認めた。「では、なぜいけないのか?」彼らは言った/「良いフェアな戦いがあった。」今、彼らは和解しようとしている。彼らは恨みを持っていない。なぜサーカーは持つのか?

 

しかし、このスポーツマンのような見解は受け入れられなかった。引き渡すよう命じたライフルはどこにあるのか、という問いがなされた。これに彼らはぽかんとした。ライフルなどなかった。ここにはいかなるライフルもあったことはない。兵士に砦を捜索させて彼ら自身に見させなさい。命令が出された/三、四人のスワールがカービン銃を構え、下馬して、疑わしそうに少し開けられた大きな重たい門に入った。

 

門は小さな中庭に通じており、それはあらゆる側面を防衛側から見渡されていた。目の前には、規模が良く分からない大きな低い部屋があった:一種の番所である。聞こえてきたのは男たちのざわめきだけだった。外壁は五フィート近くの厚さがあったので、山砲にも耐えられただろう。強力な建造物だった。

 

武器の鹵獲作戦に慣れている槍騎兵隊は予想される一般的な場所を急いで捜索したが、何も見つけられなかった。しかし彼らはあることに気づいて、すぐに報告した。砦には女性や子供がいなかった。これは不吉なことだった。私たちの訪問は予想外のことであり、彼らを驚かせた。しかし彼らは既に全ての緊急事態に備えていた。彼らはライフルを隠し、戦闘の準備をしていたのである。

 

二人の首長は優れた善良さで微笑んだ。もちろん、ライフルはなかった。しかし、事態は彼らにとって予想外の方向に向かった。彼らはライフルを持っていなかった―ディーン少佐は言った―よろしい、それでは彼ら自身が来なければならない。彼は槍騎兵隊の将校を振り向いた/一つの分隊が前方に進み、二人を囲んだ。抵抗は無駄だった。逃走は不可能だった。彼らは人質だった。しかし彼らはオリエントの落ち着きをもって行動し、避けられないものを冷静に受け入れた。彼らはポニーを用意させ、騎乗して私たちの後に従って護送された。

 

私たちは谷を登って行った。各々の砦に近づくと、カーンとその郎党が出てきて私たちを出迎えた。これに際して明らかな悶着はなく、関係は終始友好的だった。谷の頂上はこれらの中で最も強力な小君主の本拠地、バルワである。この砦はウムラ・カーンのものだった。その卓越した建築はその非凡な男の知力を証明していた。チトラル遠征の後、それは政府によって現在の所有者に与えられた。しかし、彼は谷の他の族長たちとほとんどの近親者に酷く憎まれていたため、彼にはイギリスへの忠誠以外の選択肢はなかった。彼は私たちを丁重に迎えてくれた。そして砦に入って中を見るよう私たちを誘った。すべての予防措置を取り、歩哨を配置した後でこれは行われた。それは私が見た中ではアフガン建築の最高の見本だった。まさにこの砦にファウラー中尉とエドワーズ中尉が1895年にウムラ・カーンの捕虜として監禁されていたのである。新しい主はバルコニーのある部屋に案内してくれた。そこからは渓谷全体の素晴らしい景色を見ることができた。監禁用のより悪い場所は沢山あった。砦は注意深く防御されていた。そして、さまざまな進入路を完全に見渡すことができた。銃眼と塔の賢明な配置がすべての死角をカバーしていた。壁の内側のブラシウッドの回廊からは、防御側が身体を晒すことなく銃撃できるようになっていた。中央には塔があった。運命の女神が微笑まなかった場合にはそこが守備側の最後の拠点になるのである。

 

ここに何と奇妙な共同体のシステムが明らかになったことだろう!背後に山を背負い、谷の残りの部分、すべての同族に対して、死の恐怖と戦争の可能性を常に心に留めながら、それぞれ部分的に武力、英国のエージェントの支援、また敵との絶え間ない確執によって生き抜いている男がここにいたのである。

 

これらの谷間では「万人対万人(*の闘争)」である。逮捕された二人のカーンは丘に逃げることもできただろう。彼らは罰されることを知っていた。それでも彼らは敢えて自らの要塞を離れなかった。無防備な砦におそらく隣人、親族、兄弟が足を踏み入れ、それを我が物にしてしまうからである。これらの砦のすべての石は裏切りで血塗られている/土地は一エーカー毎に殺人現場である。バルワでは、ウムラ・カーンが兄弟を殺した。憤怒や堂々とした戦いによってではなく、背後から冷淡に計画的に殺したのである。そのようにして彼は権力を獲得したのだが、モラリストは身震いしながら「フォワード・ポリシー」さえなかったなら、今頃彼は完全に満ち足りた暮らしをしていただろう、と言うのかもしれない。このウムラ・カーンは数多くの才能を持っており、知性において同胞よりはるかに抜きんでていた。辺境ではそれは偉大な殺人者であったということを意味するが、彼は偉大な男だった、そして彼は交渉中だった速射銃と「ヨーロッパモデルで」訓練していた軍隊によって多くのことを成し遂げていたかもしれない。しかしインド政府の意思による表や裏からの介入によって、このアフガニスタンのナポレオンのキャリアは断たれた。彼を利用することができたかもしれない。イギリスの支配力に触れた強い男は共に働くのに最適な道具であり、ウムラ・カーンの鼻柱を折って感服させてから元の地位に復帰させたなら、彼は法と秩序を維持するための役に立っただろう、と辺境をよく知る人々は言う。戦う時にアフガン人はどちらの側で戦うかをあまり気にかけない。今日、私たちを手助けする悪い男たちと悪い同盟者たちがいる。実務に疎い人物は、世界で重要な地位を占めている私たちが、いったいどうしてこうした国境の首長たちのせせこましい陰謀に関わり、そのような道具を使って手を汚さなければならないのか、という疑問を持つかも知れない。大英帝国が一人の残忍なカーンをその隣人に、または一つの野蛮な部族を別のそれに対抗させてバランスを取るのは適切なことだろうか?それは百万長者が砂糖鉢の角砂糖を数えるのと同じくらい、私たちの帝国の威厳をはるかに下回っている。しかしこの地域を占領することが私たちの所有物の安全のために必要ということならば、それを強力に支配することに私たちの自尊心はより同意しやすいだろう。それについてはもっと威厳があったほうが良いのかも知れない。しかし威厳を保つには最も費用がかかる。そして、私たちが現在の誇り高い地位に到達できたのは、この点において常に健全な商業の原則に導かれて来たからだろう。

 

要塞の周りを見て、それを構築した手腕と知識を賞賛した後、私たちはカーンに砦の壁からほど近い、小さな泉のほとりの美しいスズカケノキの木陰に案内された。ここには非常に快適だが、通常は虫でいっぱいの、多くの網縁台や現地のベッドがあった。その上に私たちは座った。

 

マイザル、その他の多くの辺境での歓待事件を忘れるわけにはいかないので、すべての進入路に歩哨が置かれ、十分な護衛が戦闘態勢を維持していた。そして私たちは朝食を―最も素晴らしい朝食を―摂った。

 

快適さと便利さのための準備において、辺境軍の部隊に比肩するものはない。彼らはアルダーショット軍事演習におけるイギリス連隊より快適に、より不快ではない現役生活を送る。行軍が長くても短くても、平和的でも敵対的でも、戦闘が成功しても失敗しても、その兵站部は決して失敗することはない。実際、敵には常に槍と弾丸があり、友軍にはサンドイッチと「ペグ(*テントを張る小杭、洗濯ばさみ)」があるというだけである。

 

この機会に、私たちの糧食はカーンのもてなしで補われた。食べ物を背負った男たちの長い列が現れた。ある者は梨やリンゴといった果物/他の者は山積みのチャパティ(インドの種なしパン)やピラフの皿を持ってきた。

 

私たちの騎兵隊も忘れられてはいなかった。その中のマホメダンは、提供された食物を遠慮なく受け入れた。しかし、シーク教徒は済まなそうに沈黙を保ち、辞退した。彼らはイスラム教徒の手で調理されたものを食べることができないのだった。そこで彼らは食欲をそそる料理を物欲しそうに見つめながら座って、少しばかりの果物で満足することにした。

 

その高い徳を痛々しいほど意識している彼らの姿は非常に厳かで立派だった。しかし私は、もし傍観者が私たちではなかったなら、スズカケノキが宗教的偏見に対する理性の勝利を目撃していたかもしれないと考えずにはいられなかった。

 

日中の暑い間を私たちはこの心地よい木立で休み、睡眠と会話で何時間も過ごした。これがより好意的な土地でのピクニックパーティーである、という幻想を壊すものはあちこち歩き回る歩哨だけだった。そして影が長くなったので、私たちはキャンプへの帰還を開始した。

 

到着するとすぐに政務担当官は喜び、兵士たちは失望した。部族民が政府との協約を受け入れる決心をしたことが判明したのである。ウトマン・ケル族の百丁のライフルがすでに引き渡されていた。今やそれらはディーン少佐のテントの外にあって、忙しく調査する将校の群れに取り囲まれていた。

 

旅行や戦争の物語において、物語の中に結論や議論を散りばめるのと、最終章にそれらすべてを集めるのとでは、どちらが望ましいかについては意見が分かれており、どちらかの意見に従って実践されてきた。私はためらうことなく前者の方法をとることにする。物語はそれが起こるに従って語られるものであり、途中で考察や内省が生じるに従って読者の注意はそこに向けられるからである。したがってゴーサムのキャンプのメインストリートに百丁のライフル、おそらくそれが全てではない百丁のライフルが積まれている間に、辺境部族への武器の供給問題の余談をしておくのが好都合だろう。

 

国境の人々の永続的な内戦状態は、当然致命的な武器に対する強い要求を生む。良いマルティニ・ヘンリー・ライフルは、この地方では常に400ルピーまたは約25英国ポンドの値段で買い取られる。このようなライフルの実際の価値は50ルピーを超えないため、意欲的な商人に非常に大きな利ざやが生じることは明らかである。辺境全体で、そしてずっと下のインドでまでも、ライフルは熟練したずる賢い泥棒に盗まれる。ラグマン渓谷(*ジャララバード北西の谷)に住んでいるウト・ケルという一部族は武器の運輸を特別な生業にしていた。その泥棒は最も大胆で、その代理人は最もずる賢かった。彼らのやり口のいくつかは非常に巧妙だった。一つの話は繰り返す価値がある。棺桶が鉄道輸送に提出された。故人の親族が同行していた。彼らは死んだ男は辺境に埋葬されることを望んでいたと言った。臭いは死体の腐敗が進行していることを示していた。鉄道職員は非常に不快な物体の通過のためにすべての施設を提供した。誰もその前進を阻止しなかった。それは近寄りがたいものだった。棺桶と会葬者が安全に辺境に渡って行った後に初めて、棺桶の中には一ダースのライフルが隠されていて、死体の代わりに四分の一頭分の「よく熟成した」牛肉が入っていたことが警察に知らされた!

 

残念ながら、辺境部族が武器を入手する手段は盗難だけではない。ウトマン・ケル族が引き渡した百丁のライフルのうち三分の一近くが政府のマルティニ銃だったと宣告された、政府の刻印があったのである。現在ではそういうライフルは存在しないと思われる。そうした宣告がなされるとたちまち、破棄されたそれらについて、兵器庫当局が責任を問われる、これはヨーロッパ人の監督の下ではすべての事例において行われることである。そのようなライフルが破棄されずに国境部族民に所有されているという事実は、兵器庫に関係する誰かが不正で違法な輸送を行っていることの非常に重要な証拠である。徹底的な調査が行われたことは言うまでもない。

 

これらのライフルに関連するもう一つのポイントは、三つに切断して正式に破棄された場合でも、その断片には市場価値があるということである。部族民によって再結合されたものを私はいくつか見せてもらった。もちろん、これらは非常に危険な武器だった。他の百丁にも語るべき奇妙な逸話があった。二―三丁はロシアの軍用ライフルであり、おそらく遠い中央アジアの基地から盗まれたものである。一丁はマイワンド(*アフガニスタン西部)で奪われたスナイダー銃であり、それが属していた不運な連隊の番号を帯びていた。いくらかはおそらくヨーロッパからアラビアとペルシャの陸地経由で/その他はカブールの武器工場から来たのだろう。それは需要を満たすための供給のたゆまぬ努力の一風変わった事例だった。

 

武器問題の重要性はいくら強調しても強調しすぎることはない。大辺境戦争を独特なものにした長距離ライフル射撃は新しい特色である。これまで私たちの部隊は大胆な剣の攻撃に直面しなければならなかったが、発砲に直面することは比較的少なかった。前者に対し、近代兵器は効果的である。しかし、どんなに訓練しても、いかに有能であろうとも、弾丸が兵士に当たるのを止めることはできない。これは問題のほんの一部である。戦いにおいて部族民が十分持っているものは兵士も十分持っているべきである。結局は栄光の不可分の付随物にすぎない死傷者よりも、重大な検討事項が持ち上がってくる。山岳地帯での輸送はラバとラクダに完全に依存している。一つの旅団に補給するだけでも、非常に多くの数が必要である。夜にはこれらの動物をしっかり守られたキャンプにぎっしり詰め込む必要がある。近くの丘から見渡されず、ヌラーから攻撃されないキャンプ場を谷に見つけることはできない。歩哨を出すことは「剣で突撃されたり」、激しい攻撃の際に敵本隊の銃火で仕留められたりする危険がある。[これは剣の突撃がまだ懸念されているスワットとバジャウルに当てはまる。]その結果として、輸送動物は夜間に長距離銃火にさらされなければならない。この後の記事で、読者はこのように輸送用ラバが大量に殺されるのを二度見られることになる。一定の数が殺されると旅団は石炭のない機関車同様に無力になる。動けない。援助がない限り飢えなければならない。年々部族民は射撃の腕を上げ、より良いライフルでより完全に武装するようになる。彼らが私たちの動物を絶えず狙撃するという方針に気づいたなら、すべての行動は停止させられるかも知れない。そして、こう考えるがゆえに私は辺境で行われることは何でも、できるだけ早く行われなければならないという結論に達するのである。では話に戻ろう。

 

翌9月11日、軍隊はゴーサムで停止していたが、別の戦隊が諜報将校H.E.スタントン大尉 D.S.O.のウトマン・ケル地方に入る峠の地形的偵察の護衛を命じられた。新しい地図を作成し、既存の地図の詳細を追加および修正する機会は軍隊がその地方を通過するときにのみ発生するため、見過ごされてはならない。道はナワガイへ通じる主渓谷を上っていた。私たちは早めに出発したが、道は長く、峠の入り口に着く前には日が高くなっていた。風景は私が今まで見た中で最も奇妙なものの一つだった。川の対岸にはウトマン・ケル族の住居があった。そして私は、七マイル✕三マイルのエリアに、堀、塔、小塔を備えた四十六の独立した城を数えた。風変わりな印象だった。それはグリム童話を連想させた。まるで私たちが通常の地上を去って、空想の不思議な国、巨人や鬼のリゾートに迷い込んでしまったかのようだった。

 

峠にたどり着くために、私たちは大きな村を横断することを余儀なくされた。そして狭く、曲がりくねったその通りの状態は騎兵にとって想像し得る限り最も厄介なものだったため、攻撃に対する可能な限りの予防措置が取られた。やっとのことで戦隊は安全に通過して、その先で隊列を組んだ。峠への急な登りが見えるようになった。偵察するべきルートが二つあったため、パーティーは分割された。急いで朝食をとった後、私たちは上り始めた。かなりの距離を馬上で行くことができた。コース上の全ての難しいターンにはスワールが配置された。急いで戻って来なければならない場合の退却の安全を確保するためである。村の首長はガイドとして私たちの安全を大いに心配してくれる、陽気で愉快な道連れを同行させてくれた。しかし、これらの人々を当てにすることはできなかった。谷の反対側には隊の前進に歩調を合わせて移動する多くの人影が見られた。やがて馬と付き添いの大部分を放棄しなければならなくなった。私は峠の上まで、スタントン大尉とロイターの特派員でもある戦隊の指揮官コール大尉と二個騎兵隊に同行した。その日は非常に暑く、困難な登山は癒しようのない喉の渇きを引き起こした。ついに私たちは頂上に到達し、コタルに立った。

 

アレクサンドロスがインドへの行軍で山を越えて以来、おそらく白人が見たことがなかっただろう谷を私たちははるか下に見ていた。多くの村々がその奥深くに点在しており、また他の村々は丘に寄り添っていた。離れ離れの砦が目につき、大きな木々は水の不足がないことを示していた。それは登山の努力が報われる景色だった。たとえそれが引き起こした渇きが癒されなかったとしても。

 

スタントン大尉がスケッチ―あの有用な景色のスケッチのうちの一枚―を作成している間、今や迅速騎兵隊偵察のすべてのものに代わって、私たちは親切で清潔なヨーロッパ人ウエーターが近くにいたなら注文して持参させる飲み物の名前を挙げる空想を楽しんだ。私が何を選んだかは忘れたが、それは非常に長くて非常に冷たいものだった。ああ!想像力は現実にどれほど遅れていることか。私たちが眼前に思い浮かべた鮮やかな印象―深いグラス、そしてチリンと鳴る氷―は不快感を消し去ることはできなかった。

 

その間、私たちのガイドは地面にしゃがみこみ、指さされたすべての村の名前を発音していた。間違いがないことを確認するため、一連の質問はもう一度繰り返された。彼は大いなる自信と誇りに満ちた態度で、それぞれを今度はまったく違う名前で呼んだ。しかし間違った名前はどれもこれも同じようなものである。谷の村々は田舎者の気まぐれで名づけられて公式の歴史に残るのだろう。しかし、今では論争不要とされている多くの記録も、おそらくこうした貧弱な権威に由来しているのである。

 

スケッチが終了して私たちは降下を開始し、問題なく馬のところに辿り着いた。戦隊は村の近くに集結した、そしてもう一つのスケッチパーティが私たちよりたくさんの冒険をしたことを聞いた。

 

指揮していたのはヘスケス中尉だった。彼は若い将校で、1895年のマラカンド峠の襲撃で重傷を負ったが、再び現役に志願して第11ベンガル槍騎兵隊に所属していたのである。峠のふもとで彼は部隊を下馬させ、数人の兵士を連れて登り始めた。峠は部族民に占領されていた。彼らはさらに前進するならパーティーを攻撃すると脅した。中尉は答えた。自分は反対側にある土地を見たいだけで、誰にも危害を加えるつもりはない。同時に彼は道を進んだ。そして部族民も事を荒立てることを望んでおらず、ゆっくりと後退しつつ何度も狙いを定めたが、発砲はしなかった。彼は峠の頂点に達し、副諜報将校のウォルターズ中佐はその先の土地の最も貴重なスケッチを作成することができた。それは大胆な行為だった。そして何よりもその大胆さによって成功したのである/もし部族民が発砲していたならパーティーの中に生きて降りることができた者はほとんどいなかっただろう。村を二度も横断することは望ましくなかったため、戦隊はそれを迂回して帰り、太陽が沈むとともにゴーサムのキャンプに到着した。

 

英印旅団の軍事キャンプは通常の原則に基づいて配置されている。歩兵隊と砲は四角形に展開している。動物と騎兵は中に置かれる。中央には司令部のキャンプがある。准将のテントは師団を指揮する将軍のテントに面している。周囲には胸壁が構築されていて、その高さは敵の近接度と活動に応じて変化する。この胸壁は流れ弾からの防御になるだけではなく、突然の攻撃の場合には兵士が布陣する戦線になる。その背後に歩兵隊が横になって眠る。各中隊の一部は身支度をし、軍装して予備歩哨になる。彼らのライフルはしばしば銃剣を装着した状態で低い壁沿いに置かれる。騎兵隊が防衛の一部を担わなければならない場合、彼らの槍も同様に配置されることがある。一列の見張りと共に二五ヤードごとの歩哨がキャンプを囲んでいる。

 

月明かりの中で景色を見ることだけが、旅の苦労が報われる経験である。たき火は弱まって赤く光る小さな点になった。銃剣は規則正しい青白い点の列になって濡れ輝いている。退屈な沈黙は絶え間なく落ち着きのない動物の動きと、時折の馬の嘶きに破られる。すべての谷は闇に沈んでいる。山々は高く黒々と聳えている。その山腹のはるか上まで部族民の篝火が瞬いている。頭上には月の淡い輝きに包まれた星空がある。それは芸術家に劣らず哲学者にもインスピレーションを与える光景である。キャンプは抑制された物音に満ちている。ここは反省のための、静かな、まじめな考え事のための場所ではない。その日はエキサイティングなものだったかもしれない。翌日には戦闘があるかもしれない。何人かは殺されるかもしれない。しかし、戦時の命は今を生きるだけである。休息をとるには十分疲れている。そしてキャンプは、それを構成する様々なアイテムがすべて魅力を持っていると言えるならば、肩をすくめて、過去を悔やまず、不安を持たずに未来を見つめるのである。

 

 

第十章:ナワガイへの進軍

 

シュムシュクへの進軍―最初の銃撃―コ・イ・モール―ランバト峠―ワテライ渓谷―9月14日の夜―イナヤット・キラの野営

 

土地の性質に関して入手できる地図や情報を検討した後、ビンドン・ブラッド卿は二つのルートでモーマンド族の地に入ることを決めた。(1)第3旅団はナワガイ峠を経由する。(2)第2旅団はランバト峠を越える。こうすることで地域がより徹底的に掃討され、補給がさらに便利になるのである。第3旅団が踏破するべき距離は長いため、第3旅団は第2旅団を追い越し、9月12日に十二マイルを行軍してシュムシュクに到着した。これまで先を行っていた第2旅団は七マイルの楽な行程でジャーまで移動し、支援距離内でキャンプをした。

 

司令部スタッフは第3旅団に移り、彼らと行軍した。最初の五―六マイルは騎兵隊が前日に偵察していた道路だった。再び、全員が谷のウトマン・ケル側にずらりと並んだ数多くの城に感銘を受けた。多くの熱血漢は立ち止まって、この素晴らしい場所のいくつかを爆破したいと思ったことだろう。しかし政府の協約は守られた、そして縦隊は白と青で装った防御者に覆われた砦を、不快な軽蔑の目で見ながら、ゆっくりと通り過ぎた。

 

数時間騎行した後、スタッフは澄んだ急流の岸の木陰で朝食をとった。

 

私たちは二百ヤード離れた水の上にじっと座っているコガモの大きな群れを見た。誰もが興味を持った。たくさんのライフルがあった/しかし、猟銃はどこにあるのか?厳格かつ迅速な検索が行われた。相談を受けた軍の政務担当官デイビス氏は、やがてショットガンを持っている友好的なカーンを見つけた。さらに時間がかかった後、この武器が持ち込まれた。コガモはまだ平気で水に浮かんでいた。猟銃は危機感を起こさせなかった。彼らは谷でたくさんの射撃音を聞いていたが、通常は鳥に向かって発射されたものではなかった。エキサイティングな瞬間が到来した。誰が撃つべきか?大きな責任だった。大勢が断った。ついに、この数日後にナワガイで負傷した、マン獣医大尉が志願した。彼は銃を取り、苦労して忍び寄った。(*ショットガン、すなわち散弾銃の有効射程は40―50ヤード)彼は注意深く這って行った。私たちは感情を抑えながら見つめていた。突然二発の銃声が鳴り響いた。それが最初だった。その後に多くが続いた。200ヤード離れた隊列の兵士たちはすっかり目が覚めた。コガモの群れは急上昇して飛び去ったが、死傷した四羽が後に残された。私たちがこの鳥たちを拾い上げたときの満足感が間違っていなかったことは、その日の夕食での彼らの素晴らしさによって完全に証明された。

 

さらに一マイルほど行くと幅約三十ヤードのワテライ川に出会った。これはジャンドル川に合流し、そしてパンジコラ川に流れ込むのである。これを越えて対岸に上がると、軍は幅十マイル、長さ十六マイルほどの広く平らなカル高原に出た。高い土地に立つと谷の巨大な規模が明らかになった。東(*原文では西)を見渡せばパンジコラの背後の丘、以前のキャンプ地、そしてジャンドル渓谷の入り口が見えた。正面の突き当りの山脈の切れ目がナワガイ峠だった。左側にそびえ立つのは、コ・イ・モールの大山塊、別名「孔雀山」である。壮麗な峰で、高さは約8000フィート、その頂上はペシャワルとマラカンドの両方から見える。その名前はおそらく訛りである。アリアン(*アレクサンドロス東征記の著者)はメロス山と呼んでいる。その麓に以前はニーサ市が立っていたが、他の多くの都市と同じくアレクサンドロスの武器の前に跪いた。その住民は和平を懇願し、政治を「憲法の秩序」によって行い、「インドの他の地域では成長しなかったツタがここでは成長した」と自慢した。都市、ツタ、憲法の秩序はともに消滅した。山だけが残っている。少し北にはラムラット峠が見える。右側では、このなめらかな平野が丘陵地帯に流れ込んでいるように見えた。直径約十二マイルの、ほぼ円形の広い山ふところが谷に開いていた。突起した支脈が丘から流れ出て、湾と入り江のような、多くの暗い渓谷と深い窪みを形成していた。入り口の幅は大体一マイルだった。私が最初に覗いたときには、通り過ぎる嵐の黒い雲が、谷全体に暗く垂れ下こめていた。そして外の輝く太陽光とは対照的に、もやのかかった薄明かりがそれを満たしていたことを覚えている。それはワテライ、すなわち後に私たちがマムンド渓谷(*モーマンドとは別)と呼ぶ土地だった。

 

カルのカーンは川の向こう岸で将軍に会った。彼は明るい目、ふさふさした黒いひげ、白い歯の、背が高く見栄えの良い男で、常に笑顔を見せていた。彼は豪華な服を着ており、十数人の騎手を従えて、ハンサムではあるが御しにくいこげ茶色の馬に乗っていた。彼はビンドン・ブラッド卿を大いなる敬意と仰々しさで迎えた。カーンはパシュトゥ語しか話さないので政務担当官を通していくらかの会話が行われた。カーンは自分と隣人であるジャーのカーンの忠誠心を力説した。部隊の平和的な通過を安全なものにするためにできる限りのことをするつもりである、と言った。部隊が必要とする物資は自分の力が及ぶ範囲で自分が提供するであろう。彼は行軍する兵士と動物の長い列を心配した。将軍は彼を安心させた。部隊が邪魔されたり、抵抗されたりしなかったならば、夜間にキャンプに発砲がなかったならば、はぐれた兵士が彼の領民に殺傷されなかったならば、徴発が必要なすべての穀物と木材に対して現金で支払いを行うであろう、と。

 

カーンはこの約束を感謝と安堵で受け入れ、以後ナワガイとマムンド渓谷で行われた作戦中、忠実で名誉ある行動を保った。その力を最大限に発揮して血気盛んな若者を抑えた。他の部族が反乱に参加するのを思いとどまらせるため、その影響力をできる限り使った。部下の見張りに毎晩私たちのキャンプを監視させてくれたので、疲れた兵士たちは長く、良く眠ることができた。戦いの終わりには政府とマムンド族の仲介をした。彼はあるとき、それは到底任せられるようなものではなかったが、注目すべき奉仕を申し出た。第2旅団で兵力と弾薬筒がほとんどなくなった時、郎党とともに弾薬輸送隊を護衛しようというのである。この場合、もし彼が裏切っていたなら、最も重大な結果を招いたことだろう。しかし領民の反発と隣人からの復讐の脅しにもかかわらず、彼は最初から最後まで将軍との約束を守った。

 

彼の方では英国の誠実さについて不満はないだろう。戦闘はこの地方で一か月近く続けられたが、領有する村の一つも焼失することはなく、その作物が受けたすべての損害は気前よく補償された。彼は報復を受けないことを保証されていた。そして作戦の終わりにはかなりの金銭が贈られて、サーカーは敵を処罰できると同様に、味方に報いられることを彼に証明した。

 

第3旅団のラクダ輸送は道中で遅れた。長い行進で疲れていた兵士たちは荷物が来るまで炎天下にシェルターなしで数時間も待たなければならなかった。ようやくそれが到着すると、私たちはテントなしで可能な限りのキャンプをすることにした。毛布、棒で支えた防水シート、あるいは隣接する木の緑の大枝で即興のシェルターが作られた。これらの貧弱な覆いの下に兵士たちが横たわって夕暮れを待った。

 

インド反乱(*1857年)の期間中に、暑い気候の中を遠征しなければならなかったイギリス軍の苦しみは誰もが読んでいる。この谷の9月はそれを容易に想像したり、的確に説明したりできるほどの暑さだった。そして病院報告書が示す通り、太陽への曝露が英国の大隊にはひどく堪えていた。もちろん反乱の後、兵士の服装と装備に多くの有益な変更が加えられた。不十分なパガリー(*帽子の周りを一周する布)のついた小さなキャップは長い上掛けの覆いで陰が増えたピス・ヘルメット(*防暑帽)に代わっている。高い飾り襟と厚くてタイトなユニフォームはなくなり、クールで快適なカーキ色の服装に代わっている。脊椎プロテクターが背中を覆い、また他の方法で合理的な改善が行われている。しかし太陽に変化はなく、全ての予防策は最小限に過ぎなかったため、その弊害を防ぐことはできなかった。

 

時間がゆっくりと過ぎる。暑さは強烈である。エンジンの煙突の上で見られるように空気が焦げた平野の上で輝いている。猛烈な暖気の風が吹く。そして安らぎをもたらす代わりに、シェルターを四散させ、中にいる者を半ば窒息させるホコリの旋風を巻き上げる。水はなまぬるく、のどの渇きを癒すことはできない。太陽が西の山に向かって沈むにつれて、ようやく影が長くなり始める。全員が生き返る。動物たちでさえも全体の安堵感を共有しているように見える。キャンプの人々は日没を眺めるために外に出て、夕暮れを楽しむ。私たちの心からは日の天体に対する殺伐とした憎しみの感情が消えている。そして、翌朝五時からそれが再び自分たちを苦しめようとしていることを忘れようと努めている。

 

マラカンド野戦軍がモーマンド地方に入るまでに数日間の余裕があるため、ビンドン・ブラッド卿は両旅団に13日は停止しているよう命令した。第3旅団はシュムシュクに/第2旅団はジャーに。その間に二個偵察隊が送られた。一つはランバト峠の頂に、もう一つはワテライ渓谷の上方に。

 

モーマンドへの前進が始まって以来、初めて「狙撃」を受けたのが12日の夜だった。キャンプに向かって約半ダースの弾が発射されたが、眠りの浅い者の邪魔をしただけだった。しかし、それは始まりを告げていた。

 

翌朝、偵察隊が出発した。将軍はランバト峠に向かう一隊に同行した。その向こう側の未踏破の土地の性質を自ら確認するためである。歩兵の二個中隊は道を開くよう、他の二個中隊は峠の途中まで支援を続けるよう命じられた。ビンドン・ブラッド卿は六時に出発した。従う護衛は派手な槍旗に司令部のユニオンジャックを結びつけて景色に色味を加えていた。数マイル騎行した後、私たちは歩兵隊に追いつき、停止しなければならなかった。彼らを先に行かせて荒れた路面をきれいにさせなければならなかったのである。さらに一マイル先では下馬して徒歩で進まなければならなくなった。現地人の態度と振る舞いは最も非友好的だったが、抵抗はなかった。若者たちは丘に引き下がった。年長者は私たちを睨みつけ、罵りさえしたが、それにとどまった。村の墓地はあらゆる種類の財産、ベッド、水差し、穀物の袋でいっぱいだった。住民は私たちが略奪を望んでいるのではないか、そして神聖な場所であれば安全なのではないか、という二重の妄想の下にそれらをそこに置いたのだろう―というのが私たちの見解だった。彼らは不機嫌な顔つきをしていたが、結局は皆立ち上がって恭しく敬意を表することになった。

 

登山には骨が折れ、少なくとも一時間かかった。しかし、通り道はどこでも通行可能だった。あるいは簡単にラバの通行が可能になりそうだった。ジャングルでの、長年にわたるあらゆる種類の狩猟によって鍛えられ、強化されている将軍が最初に頂上に到着し、続いてウォードハウス准将と息切れしたスタッフが続いた。アンバサー渓谷の素晴らしい景色が広がった。それは乾燥して見えた。たくさんの村が見えたが水の兆候はなかった。これは深刻な問題だった。井戸に関する情報が信頼できるものではなかったため、谷の未知の危険の中に部隊を突入させる前に、貯水槽や川の存在を確認しておきたかったのである。いくらかの検討を加えた後、ビンドン・ブラッド卿は元の計画を修正して、第2旅団の二個大隊と一個戦隊だけに峠を越えさせ、残りはそのまま行軍してナワガイで合流することにした。そして私たちは戻って、昼食に間に合うようにキャンプに到着した。

 

一方、ワテライすなわちマムンド渓谷の偵察はより興味深い性質のものだった。ビートソン少佐指揮下の第11ベンガル槍騎兵隊の二個戦隊と、政務担当官のデイビス氏が派遣されていた。合意した協約をマムンドが実行するよう圧力をかけようというのである。彼らは五十丁のライフルを引き渡すと約束していた。しかし今、それを行う意志を見せていない。彼らは旅団は地域を行軍しているだけであって、停まっている時間がないことを理解していた。そして自らの武器をできるだけ長く保持することを決意していた。

 

騎兵隊が最初の村に近づくと、約300人の男たちが集まって旗印を見せ、槍騎兵に停止を求めた。口論が続いた。女性と子供を移動させるための時間が三十分与えられた。その後、戦隊は前進した。部族民は威嚇を続けながら、丘に向かってゆっくりと引き下がった。それから小さな一団がやってきて、ビートソン少佐に隣の村にスワット渓谷の戦闘で捕らえられた軍馬がいることを知らせた。マムンド族がマラカンドへの攻撃に関係していた、というこの自白は十分にナイーブなものだった。騎兵隊は村へ騎行した。馬は見つからなかったが、最初の村の差し出がましい情報提供者は、馬が繋がれていた場所を熱心に指し示した。この情報の結果として、そして部族民に元の協約の実行を促すためデイビス氏は見せしめを決心し、ビートソン少佐に馬を盗んだ者の家の破壊を許可した。これはその通りに実行された。煙が上がり始めるやいなや、半マイル離れたところで待っていた部族民がマルティニ・ヘンリー・ライフルで騎兵隊に弾の雨を降らせた。しかし交戦しようとはせず、速歩で退却した。彼らは追跡され、銃でよく狙われたが、正確な射撃には射程が長すぎたため、弾丸は頭上で無害のまま口笛を吹いただけだった。

 

槍騎兵隊が谷を去ると先の章で述べたことを例証する事件が起こった。それは現地人の日常生活に特有のものである。最初の村の人々は騎兵隊の注意を二番目の村に向けた。結果として二番目の村の一部が焼かれた。双方の住民はこの件をライフルで論議することになり、その夜最後に見たときには活発な小競り合いをしていた。しかし、どうやらすぐに争っていたことを忘れたらしい。

 

騎兵隊が発砲されたという噂は、彼らがキャンプに帰り着く前に広まっていた、そして、何らかの対抗措置がとられる見通しはいたるところで歓迎された。多くの人々がモーマンド遠征は単なるパレードであり、部族民はそれに従事している強力な軍隊に圧倒されていると考え始めていた。彼らはまもなく真実を悟らされることになった。私は戦隊が戻って来るのを見た。その背後でマムンド渓谷は夕闇と、一日中その上にかかっていた重い雲ですでに暗くなっていた。彼らは大いに喜んでいた。人生において撃たれたのに何の損害もないことほど爽快なことはない。スワールは鼻高々で馬に座っていた。若い将校の何人かはまだ興奮で頬を紅潮させていた。しかし彼らは見事にこの件についてすべて忘れてしまったかのように振舞った。彼らは数人の輩が彼らを「狙撃した」と信じた/それがすべてだった。

 

しかし、決してそれがすべてではなかった。なんらかのアフガンの「血火の十字架」(*スコットランド高地氏族が同族を戦争に召集する際に用いた)に当たるものが各部族の間を巡っていた。その夜は攻撃するために集まる時間がなく、開けた土地のキャンプは夜の銃撃には向いていなかった。他の旅団が近づいて来ていた。待つことになった。そこで彼らは時々銃撃するだけで我慢した。それは私たちが夕食をとっている間に始まり、朝の光が差すまでとぎれとぎれに続いた。負傷者はいなかったが、ヌラーの周りをうろついたり、時々発砲したりすることに夜を費やした部族民は翌朝戻って、自分たちのしたことを同胞に自慢しただろうと想像できる。「お前たちがみな夜中、暗闇の中でまどろみ、眠っている間、俺は、俺でさえ、一人で呪われた者たちの陣営を攻撃し、サヒブを殺したのだ。そうじゃないかね?兄弟。」すると兄弟たちはいつかその嘘が実証されることを期待しながら、間違いなくそうであり、彼こそが部族の誇りである、と答える。それが「狙撃者」の褒美だった。

 

翌朝早く、第3旅団と第11ベンガル槍騎兵隊の三個戦隊はナワガイに移動し、抵抗を受けることなく峠を通過した。将軍と司令部スタッフが彼らに同行した。そして私たちは向こうにベドマナイ峠がはっきり見える、広々とした大きな谷の中に入った。ここでようやく私たちはモーマンド族の意図についての確かな情報を得た。さらなる前進を阻止するためにハッダ・ムラーと1000人の部族民が集まっていたのである。結局のところ、戦闘になるだろう。夕方、ビンドン・ブラッド卿は騎兵隊の一個戦隊を率いて、峠へのアプローチと土地の全体的な地形を確認するために出かけた。戻ると同時に彼は18日に強行突破する、とインド政府に通信した。兵士たち、特にまだ交戦したことのないイギリスの部隊は来るべき戦闘を熱く期待した。しかし、事態は別の方向に向かった。

 

私たちが偵察から戻ったときにはすでに夕暮れだった。夜は楽しかったし、屋外で食事をした。それでも谷はとても暗かった。山々はビロードのように黒かった。やがて月が昇った。その神秘的な光が急速に谷間に溢れた。しかし、私は景色の美しさの描写を差し控えたい。すべての適切な単語はおそらく数多くの作家に何度も使用されてきたし、無数の読者に読み飛ばされてきた。実際、手の込んだ説明はそれを見たことがない人には何も伝えないし、見たことがある人には不要、と私は考えるようになった。自然は代理人によって賞賛されるべきものではない。しかし戦時には、特に辺境戦争では、誰しもが月の重要さを痛感する。「今夜は何時に昇るのか?」という質問が繰り返される/他のこと―攻撃、「狙撃」、突撃―のために。他に潮の干満もその動きに影響を受ける。

 

一方、ナワガイの平和なキャンプの静かな夕食中に私たちは「銀色の乙女」(*初雪)が東の山々に速やかに現れるのを見た。彼女は十一マイル離れた別のシーン、私たちが去った谷を凝視していた。

 

第2旅団はその朝、ジャーからランバト峠のふもとまで行軍した。翌日にはそれを通過しようとしていたのである。ジェフリーズ准将はこの行動を見越して、コタルを保持するためにバフ隊を派遣し、残りの部隊とともに麓でキャンプをした。夜明け前の前進を目的として採用されたキャンプの位置は敵の接近に好都合だった。地面は荒れ、多数の小さく曲がりくねったヌラーが交差し、岩が散らばっていた。ただし、他の場所でキャンプするなら翌日に長い行進が必要だった。攻撃はないだろうと思われていた。

 

8:15、将校たちが夕食を終えようとしていたとき、静けさの中に三発の銃声がした。それは合図だった。たちまちヌラーからガイド歩兵隊の前面への活発な発砲が始まった。キャンプ全体にうなりを上げた弾丸は、テントを切り裂き、動物を殺傷した。

 

ガイド隊は着実に応射した。テントの列の前に掘られたシェルター塹壕は他より高かったため、将校も兵も被弾しなかった。10時、敵のラッパ手が「退却」を吹き鳴らし、銃火は少量の落下弾だけになった。全員が事件の終了を祝福していた10:30、第38ドグラ隊が位置するキャンプの反対側で活発な攻撃が再開された。主にマルティニ・ヘンリー・ライフルで武装した敵は塹壕から100ヤード以内に忍び寄っていた。塹壕の高さはわずか十八インチだったが十分に兵士たちを守ることができた。将校たちは危険を顧みない見事な態度で惜しげもなく身体を晒した。輝く月光の下を平然と歩き回る彼らは格好の標的だった。准将は銃撃を管理して弾薬の浪費を防ぐため、キャンプの脅かされている側に出向いた。何千発も発射したにもかかわらず、大した成果が上がっていなかったのである。砲兵中隊が数発の照明弾を発射した。地面が非常に荒れていたため、それによって明らかになったものはほとんどなかった。しかし部族民はその匂いを毒ガスと思って警戒した。将校たちは遮蔽物に隠れるよう指示されていた。しかしメッセージを伝え、銃撃を統制する必要があったため、曝露の機会は非常に多かった。塹壕の上に姿を現すのは大変危険なことだった。第38ドグラ隊のトムキンス大尉は心臓を撃たれ、数分後、連隊の副官ベイリー中尉も殺された。箱で作った即席のシェルターの救護所に将校たちを運ぶのを手伝う際、ドグラ隊の付属将校ハリントン中尉は後頭部に脳を貫通する銃弾を受け、後に死亡した。すべてのテントが攻撃を受けた。そして穀物袋やビスケットの箱で可能な限りの遮蔽物が作られた。2:15に発砲は停止した。敵は死傷した仲間とともに撤退した。彼らは丘から離れた場所で日の光を浴びるつもりはなかった。しかしすでに彼らは少し長居しすぎていた。

 

明るくなるやいなや、コール大尉の指揮する騎兵戦隊が追跡を開始した。谷を長く全速力で駆けた後、山に向かう一団に追いついた。彼はすぐに突撃して、岩に到達する前にそのうちの二十一人を槍で貫くことに成功した。その後、戦隊は下馬してカービン銃で発砲した。しかし、部族民たちはすぐに向きを変え、隊の馬に向かって突撃した。一人のスワールが負傷し、数頭の馬が殺された。急所を脅かされた騎兵たちは急いで駆け戻って、自分の鞍に乗るのに辛うじて間に合った。馬に乗る際に焦ったため、四頭が逃げて全速力で走り去り、六人の騎兵が下馬したままで残された。コール大尉はそのうちの一人を自分の鞍の前方に乗せ、騎兵たちはその例に倣った。このように戦隊は動きを妨げられて退却した。そして射程距離外に出た後、逃げた馬を再び捕らえることに成功した。敵は騎兵隊が再び騎乗しているのを見て丘に避難した。しかし明らかに彼らの戦意は高かった。

 

マルカナイの夜襲の犠牲者は次の通り:―

 

               イギリス軍将校

  死亡―         W.E.トムキンス大尉 第38ドグラ隊

              A.W. ベイリー中尉 第38ドグラ隊

  負傷により死亡―    H.A.ハリントン中尉 第38ドグラ隊付属

 

               現地将校

  負傷・・・・          1

 

                   現地兵

                    死亡    負傷

  第八山岳砲兵中隊・・・・       1     1

  第35シーク隊・・・・        1     3

  第三八ドグラ隊・・・・        1     0

  ガイド歩兵隊・・・・         0     1

  その他・・・・            2     2

   総犠牲者数      16   /   馬とラバ98

 

一方、第3旅団はナワガイでの静かな夜を過ごしていた。しかし翌朝6時ごろ、ジェフリーズ将軍のキャンプが攻撃された、というメッセージがランバト峠のバフ隊からヘリオグラフで送られて来た/その激しい発砲は一晩中続き、犠牲者の中に数人の将校がいたとのこと。このニュースに全員が沸き立った。私たちが朝食をとっている間に、現地将校と第11ベンガル槍騎兵隊の十人のスワールが早くも到着して詳細を語った。マムンド族との六時間の戦闘:三人の将校が死亡、あるいは致死的な傷を負った/百頭近い動物が撃たれた。この情報を受け取ったビンドン・ブラッド卿はランバト峠通過の命令を取り消し、ジェフリーズ将軍にマムンド渓谷に入ること、部族民を徹底的に懲罰することを指示した。

 

私は命じられた作戦を目撃するため、現地将校の護衛の下で第2旅団に戻ることを許された。私は鞍に乗せることができるものを慎重に選んで、最も重要なものは外套、チョコレート、歯ブラシだったが、すでに出発していた護衛を急いで追いかけ、彼らが丁度ナワガイ峠を通過するときに追いついた。

 

最初の六マイルの間、道は網状の深い山峡を通っており、騎兵たちは非常に注意深く道を選んだ。小さなパーティーが攻撃されるとまずい場所だった。しかし数人の武装部族民には出会ったものの、幸運なことに彼らは私たちに発砲しなかった。ある地点でルートは前夜の襲撃者の一部が退却したと思われる深いヌラーを通っていた。これらはおそらくチャルマンガ渓谷に続いていた。彼らは明らかに損失を被っていた。負傷した男たちを運んだ現地のベッドがいくらか散らばっていた。おそらくこの場所で彼らは牛を見つけて乗り換えたのだろう。ようやく扱いにくい地面を通り抜け、ナワガイの平坦な平野に入ると、私たちは目をこらして旅団を捜した。谷を越えて七マイル離れたところに長い茶色の筋があった。それはマルカナイからマムンド渓谷の入り口まで行進する軍隊だった。五つの燃える村の煙が高い柱のように空中に昇っていた。山に対しては青く、空に対しては茶色く見えた。一時間の騎行で私たちは旅団に合流した。誰もが昨夜の出来事に夢中だった。そして全員が不眠ゆえに消耗しているように見えた。「あなた方は居なくて幸運だった」と彼らは言った。「もっと多くのことが起こるだろう。」

 

騎兵隊はすぐに追跡から戻った。彼らの槍の先は黒く血塗られていた。感謝を込めてニヤリとしたシーク兵に、あるスワールは誇らしげに武器を見せた。「何人?」あらゆる方向から質問が飛んだ。「二十一人」と将校は答えた。「しかし、やつらは闘志にあふれている。」

 

今や旅団にイナヤット・キラの近くの空き地でキャンプせよ、という命令が出された。これはカルのカーンが所有する立派な石造りの要塞で、言わば「グラント砦(*アメリカ西部でアパッチ族との戦いに使われた砦)」である。軍は行軍と前夜の戦いで非常に疲れていたが、敏速に塹壕を掘り始めた。キャンプに約三フィート半の高さの外壁が作られ、全員がそれをガリガリと引っ掻いて自分のための小さな穴を作った。これらの仕事で午後が過ぎた。

 

バフ隊はランバト峠の頂上から行軍して日没時に入って来た。彼らは夜の銃声を聞いており、その場にいなかったことに失望していた。それは「単なる運」だった。1895年のチトラル遠征中、彼らはすべての会戦の機会を逃すという不運を経験していた。今回も同じだった。全員が彼らを元気づけようとした。暗くなるやいなや攻撃の可能性が高くなった。

 

夕食後、キャンプの北にある大きなヌラーから銃弾が降って来るようになった。すべての照明が消され、テントは引き払われた。全員が自らスープ皿状に掘っていた場所に退いた。しかし攻撃は行われなかった。敵は友人を通して政務担当官に、自分たちは疲れているのでその夜は休むだろう、と伝えていた。彼らはキャンプの銃撃に数人の「狙撃手」を送った。彼らは二時頃まで気まぐれな一斉射撃を続けた後、撤退した。

 

前夜に休息を奪われていた人々は、銃撃にもかかわらず、すぐに眠りに落ちた。その他の疲労に圧倒されていない人々には、自分の穴に横たわってじっと星たちを見つめる以外の仕事はなかった―ピカデリー・サーカスと同じく、イナヤット・キラにも静かに輝くその公平な星たちを。

 

 

第十一章:9月16日、マムンド渓谷の戦闘

 

兵士に起床を促し、夜明け前に武装することを命じる、兵舎のラッパのように、

その音が朝の冷たい空気の中に、いかに鳴り響くことだろう。

灼熱の太陽が汝らの真上に来た時、その信仰と足元よ、堅固であれ、

ライフル銃が戦列に並び、澄んだ音色で突撃ラッパが吹き鳴らされるそのとき。

                        「下ベンガルでの説教」A.ライアル卿

 

図4. マムンド渓谷のスケッチ―9月16日の戦闘計画とともに

http://uedaeyeclinic.net/wp-content/uploads/2021/09/4.Sketch-of-the-Mamund-Valley-with-Plan-of-the-Action-of-the-16th-September.jpg

 

騎兵隊の小競り合い―シャヒ・タンギへの前進―反撃―支脈を降下する退却―敵の撃退―第二次攻撃とシャヒ・タンギの占領―暗闇―救出に向かうガイド隊―後衛―夜

 

物語は今、私がクライマックスと見なさざるを得ないところへ差し掛かった。マムンド渓谷の戦闘は非常に多くの鮮明な出来事と永続的な記憶によって思い起こされるため、私にとっておそらくその真の歴史的な重要性以上の重みを持ってしまっていると思われる。読者にはその間ずっと、私が個人的な視点と呼んでいるものを斟酌していただかなければならない。その間ずっと、作戦の規模がいかに小さいものだったかに留意していただかなければならない。パノラマを大人数の軍隊が満たすことはない。百丁の銃の雷鳴が響くことはない。騎兵旅団が閃く剣を振り回すことはない。決定的な地点に歩兵師団が振り当てられることはない。傍観者は丘の斜面だけを見るだろう。そして注意すれば、そこをゆっくりと動いている、風景の大きさの中ではほとんど目にもつかないほど小さな、茶色の服を着た数人の男たちを見ることだろう。この男たちが何をして、何に苦しんでいるか/彼らの行動が何であり、その運命がいかなるものであるかを見るため、私は傍観者に十分に接近していただこうと思っている。しかし傍観者には私が観察者としての役割を厳守しているかどうか、書いた内容を注視していただくようお願いしたい。もし何らかの語句や文章によって私がこれを逸脱したことが発見されたなら、悪意の工夫によるいかなる罰をも私は甘受するつもりである。

 

16日の朝、ビンドン・ブラッド卿の命令に従い、ジェフリーズ准将はイナヤット・キラの塹壕で囲まれたキャンプを出て、マムンド渓谷に入った。その目的は部隊の手の届く範囲にあるすべての防御設備のある村を燃やし、爆破することによって部族民を厳しく罰することだった。これを一日で完了し、その強さを見せつけた旅団は17日にナワガイに行軍し、18日と決まっていたベドマナイ峠への攻撃に参加することを期待されていた。結果的にこの期待は空しかったわけだが、これまで部族民から隊に対して真剣な抵抗がなされたことはなく、いかなる集会のニュースも将軍に報告されていなかったことを覚えておく必要がある。谷は見捨てられたように見えた。村は取るに足りないように、無防備に見えた。敵が立ち向かってくることはない、と誰もが決めつけていた。

 

起床ラッパは五時半に鳴り、六時に旅団は行軍を始めた。谷全体を一度に成敗するため、軍は三個の縦隊に分割され、次の任務が割り当てられた:―

 

一.ビビアン中佐指揮、第38ドグラ隊と数人の工兵からなる右縦隊はドモドロの村を攻撃するよう命じられた。二.ゴールドニー大佐指揮、バフ隊の六個中隊、シーク隊の六個中隊、工兵隊の半個中隊、第8山岳砲兵隊の四門の砲、および第11ベンガル槍騎兵隊の戦隊で構成される中央縦隊は、谷の最上部に進み、バデライとシャヒ・タンギ(シャイツゥンギと発音)の村を破壊するよう命じられた。三.メージャー少佐指揮、ガイド歩兵隊の五個中隊と数人の工兵で構成される左縦隊は谷の西端の村々に向けられた。

 

各大隊からの二門の砲と二個中隊がキャンプを守るために残され、ガイド隊の中隊の三分の一が調査隊を護衛するために切り離された。これにより戦野の歩兵の戦力は二十三個中隊に減少し、1200人をわずかに超えることになった。交戦していない第38ドグラ隊の300人の兵を差し引くと、この作戦に使用された総兵力は、すべての兵科を合わせて約1000人だった。

 

最初に右の縦隊の運命を取り扱うのが好都合である。ビビアン中佐は六マイル行軍した後、午前9時頃にドロモロの村の前に到着した。彼はそこが敵に強固に守られていることに気がついた。砲や援護なしで攻撃するには自軍の戦力が十分とは思えなかった。そこで自重してキャンプに引き返し、午後4時ごろ到着した。長距離射撃で二人の兵士が負傷した。

 

中央の縦隊は私が加入したコール大尉の槍騎兵戦隊に守られていた。七時ごろ、私たちは谷の北斜面の円錐形の丘の上に敵がいることを観察した。しばしば騎兵にとって双眼鏡よりはるかに有用な道具である望遠鏡を通して、その姿が見えた。青や白をまとった男たちの長い戦線があり、それぞれがその隣に武器をまっすぐに立て、テラスにしゃがんでいた。情報はすぐにゴールドニー大佐に送られた。歩兵は戦闘を熱望し、行軍を急いだ。騎兵隊は丘から1000ヤード以内まで進んだ。しばらくの間、部族民は座ってその足元の平地に徐々に展開していく軍隊を見ていた。そして砲と歩兵隊が近づくと、彼らは向きを変えてゆっくり山の斜面を上り始めた。

 

彼らの動きを遅らせよう、あるいは戦闘に誘い込もうとして、今や騎兵隊は速歩で射程圏内に入った。そして下馬して7:30ちょうどに発砲した。すぐに応射があった。丘の高い斜面から、基部のトウモロコシ畑から、そして村の塔から、少量の煙のパフがさっと吐き出された。小競り合いは一時間続いたが、敵は凸凹の地面に、兵士は墓地の墓石と木々によく覆われていたため、どちらにも大きなダメージはなかった。そのとき歩兵隊が到着し始めた。バフ隊はゴールドニー大佐の縦隊から切り離されて、バデライの村に向かって移動していた。第35シーク隊は長い尾根に向けて前進した。シャヒ・タンギはその角を回ったところに位置しているのである。彼らが私たち(*槍騎兵隊)の前をゆっくりと―むしろ迅速な行軍に疲れてぐったりと―横切ったとき、騎兵隊はよりふさわしい仕事を求めて鞍に跨り、走り去った。騎兵の武器―槍―を携えて。私はシーク隊と運命を共にすることになった。抵抗はほとんどなかった。数人の大胆な狙撃者が背の高いトウモロコシ畑から先頭の中隊に発砲した。他の者たちは山から長距離射撃を行った。どちらも損害を与えることはできなかった。今やゴールドニー大佐はライダー大尉指揮下の一個半中隊に円錐形の丘を掃討し、連隊の右翼を山からの銃火から守るよう命じた。約七十五人の兵士が急な坂を登り始めた/そしてその日のずっと遅くまで再び彼らに会うことはなかった。残りの四個半の中隊は前進し続けた。進路は上へ上へと積み重なった、丈の高い作物の段々畑の中だった。軍隊はこれらを苦労して上り、敵が守ろうとしたいくつかの塔から彼らを一掃した。半個中隊と仮包帯所が墓地の近くに残された。そしてさらに二個中隊が支援のために丘の麓に配置された。他の二個中隊はシャヒ・タンギに続く長い支脈の上昇を開始した。

 

丘の斜面で軍隊がどれほどゆっくり移動するのかを、見ないで実感することは不可能である。村に到着したのは十一時だった。敵は離れたところから「狙撃」したが、なんの損害も与えられなかった。誰もが戦わずに逃げた彼らの意気地のなさを罵倒した。村の一部と、刻んだわらの一種であるブーサの山に火を放ち、二個中隊はキャンプに戻る用意をした。

 

しかし八時頃、騎兵パトロール隊は谷の北西端に敵の大戦力がいることを報告していた。そこでジェフリーズ准将はガイド歩兵隊に主縦隊への合流を命じた。[時間が記されたメッセージの複写:―「ガイド歩兵隊を指揮している将校へ。―午前8:15送信。午前8:57受信。敵はカンラに集まっている/直ちにゴールドニー大佐の左翼につくこと。C.パウエル少佐、D.A.Q.M.G.」]キャンベル少佐は馬にまぐさをやっていた部下を集め、ゴールドニー大佐の部隊の元に急いだ。五マイルの行軍の後、彼は左翼前方で強敵と遭遇し、たちまち激しい銃撃戦になった。小銃射撃の音を聞いたバフ隊はバデライから引き返し、第35シーク隊の支援に駆け付けた。

 

両連隊が現場へと急いでいる間に、大きな銃声が聞こえて、私たちは自分たちがいるシャヒ・タンギ近くの支脈の頭部に危険が迫っていることに初めて気がついた。左翼への圧力が退却線を脅かしていた。一マイル以内からは支援が得られなかった。すぐに退却が命じられた。この時点まで、部族民はほとんど見られなかった。あたかも二個中隊の退却が攻撃の合図であったかのように見えた。しかしこれは敵の全体的な前進の一部であって、もし退却が命じられていなかったとしても、先進中隊は襲撃されていただろうという考えに私は傾いている。いずれにせよ、局面はたちまち変わった。遠い丘の中腹から男たちが素早く走り降りてきて、棚田から棚田へと飛び降り、岩から岩へと身をかわした。全員の発砲が増加した。退却を援護するために半個中隊が残った。遮蔽になる段々畑に次から次へと小さな突進を繰り返し、二人三人と接近してくる敵に対して、シーク隊は優れた腕前を発揮した。やがて約百ヤード向こうの岩の後ろに相当な数の敵がたまった。今や発砲が激しくなった。半個中隊は側面を脅かされていることに気づいて、次の陣地へと後退した。

 

特異な地形を説明するために余談が必要である。

 

頂上に村があるその支脈は三つの岩の小丘で構成されており、主丘に近いものほど高くなっている。これらは開けた地峡によってつながっており、それは銃火によって両翼から見渡されている。土地の断面はスイッチバック鉄道に似ている。

 

半個中隊はこれらの小丘のうちの最初の一つを損失なく立ち退き、次の小丘までの開放空間を素早く横断した。数人の兵士がここで倒れ、無事に運び去られたと私は思っている。敵は最初の小丘に登って二番目の小丘を見渡し、銃撃を開始した。再び中隊は退却した。カッセルス中尉は約八人の兵士と共に背後に残り、残りが開放空間を横切るまで小丘を守った。撤退するやいなや、彼らは中尉に退却を叫んだ。彼は命令を下した。

 

ここまでの朝の小競り合いは神経病者に喜びを、兵士に経験を、ジャーナリストに「ネタ」を与えたかもしれない。今や突然黒い悲劇が現場に現れ、数多くの鮮烈な些事の中にすべての興奮が消え去った。小丘を去るために立ち上がろうとしたとき、カッセルス中尉は鋭く向きを変えて地面に倒れた。二人のセポイがすぐに彼を掴んだ。一人が足を撃ち抜かれて倒れた。発砲を続けていた兵士が空中に飛び上がり、落下して、見たこともないほどの恐ろしい速さで口と胸から出血し始めた。他の者は足を蹴り出し、体を捻って仰向けに倒れた。四分の一はまったく静かに横たわっていた。こうして書いている間に小さなパーティーの半数が死傷したのである。敵は両翼に回り込み、また見渡していた。その銃火は正確だった。

 

マンゴル、シンという二人のサバダー少佐(*サバダーには少佐と大尉がいる)と三―四人のセポイが、二番目の小丘から負傷者を運び去るのを手伝うため前方に走った。彼らが現場に到着する前に、さらに二人の兵士が撃たれた。サバダー少佐はカッセルス中尉を掴んだ。彼は血に染まり、立つことができなかったが、戦線に留まることを切望した。他の者たちは負傷者を掴み、悲鳴とうめき声にもかまわず、尖った岩の上を乱暴に引きずり始めた。私たちが小丘から三十ヤードも離れないうちに敵はそこに突進して来て、発砲し始めた。連隊の副官であり、辺境で最も人気のある将校の一人だったヒューズ中尉が殺された。弾丸は唇の間に空気を吸い込むときのような、奇妙な吸収音とともに空中を通過した。数人の兵士もまた倒れた。ブラッドショー中佐が二人のセポイに将校の遺体を運び去るよう命令し、彼らはそれを始めた。突然、大勢の部族民がバラバラと丘の稜線に駆け寄って、剣を手に、大きな石を投げながら突撃してきた。冷静な観察者であり続けることは不可能になった。数人の負傷者が振り落とされた。サバダー少佐はカッセルス中尉を離さなかった。中尉の命は彼のおかげで助かった。他の将校を運んでいた兵士たちはそれを振り落として逃げた。体が地面に大の字になった。その上を汚れた白い亜麻布を纏った長身の男が湾曲した剣で急襲した。それは恐ろしい光景だった。

 

もし剣士たちが深く突撃していたなら、彼らは全員切り伏せられていただろう。しかし、彼らはそうしなかった。この荒々しい山の男たちは取り囲まれることを恐れていたのである。退却は続いた。今や集結していた二個中隊は、五―六回立ち向かおうとした。部族民はその度に両翼を圧迫した。彼らは地の利をすべて持ち、側面を包囲されたシーク隊と同程度を見渡していた。やがて支脈の底部に着いた。二個中隊の生き残った兵士たちは装着された銃剣とともにヌラーの中で反撃に転じた。部族民は勢いよくやって来たが、三十ヤード手前で停止し、怒号し、発砲し、剣をひらめかせた。

 

他の軍隊は見えなかった。見えたのは―おそらく突撃の後だったのだろう―散開した戦隊縦列で後退している私たちの騎兵隊だけだった。彼らの援助を得ることはできなかった。バフ隊とは約一マイル離れていた。深刻な事態だった。ゴールドニー大佐は自ら兵を再編成しようとした。おそらく六十人程になったシーク隊は強く圧迫され、発砲したが効果はなかった。そのとき誰かが―誰だったかは定かではないが―ラッパ手に「突撃」を鳴らすよう命令した。甲高い音が鳴ったのは一回ではなく、十数回だった。全員が叫び始めた。将校たちは必死に剣を振るった。そしてシーク隊は気合をかけながら敵に向かってゆっくりと前進し始めた。最高の瞬間だった。部族民は向きを変えて退却し始めた。兵士たちは即座に着実な銃火を放った。自らを苦しめた者たちを猛烈に撃ち倒したのである。

 

私はそのとき初めて、反攻は前線全体で行われたものであることに気がついた。私は単なる小事件について書いているに過ぎない。しかし読者はこの記事から辺境戦争における多くの損失の意味を悟られるだろう。勇敢で良く武装しているが、負傷者を抱え、登りに疲れ果て、数に勝る軍勢に圧倒された部隊が退却を命じられた。これは弱い軍隊が成し遂げるには難しすぎる作戦である。身近に支援がない限り、彼らは厳しく痛めつけられなければならない。そして敵を食い止めるために後に残る、小さな援護パーティーが寸断されたり、撃ち倒されたりするのは非常に頻繁なことである。マムンド渓谷では後に、この二個シーク中隊が試みたことを成し遂げるために大隊が丸ごと用いられた。実に、シーク隊の勇気に証人の必要はない。

 

支脈を退却している間、私は戦闘の全体的な局面を観察することができなかった。そして、今それを記す際に一つの小さな部隊の不運だけを取り扱った。それは個人的な視点によるものである。二個の先進中隊が丘から追い落とされている間に、そのほとんどがライフルで武装している、少なくとも2000人の部族民が旅団の左翼全体に総攻撃を行なった。騎兵隊、第35シーク隊の二個の支援中隊、および到着しつつあったガイド歩兵隊の五個中隊がこの攻撃に抵抗した。全員が交戦した。敵は旗印を誇示しつつ、大いなる勇気を奮って、激しい銃火の真っ只中を前進してきた。多くが死傷したが、彼らは長い散兵線を作って軍隊に向かって前進し続けた。第35隊の一個中隊が深刻に巻き込まれるようになった。これを見てコール大尉は指揮下の戦隊を前進させ、地面が荒れていたにもかかわらず突撃をかけた。敵はヌラーの中に旗印とすべてを投げ込んで、そこに避難した。そして近距離から騎兵隊に鋭い銃火を放ち、数頭の馬と人に命中させた。戦隊は退却した。しかし彼らの前進の精神的効果は絶大なものだった。攻撃全体が停止した。歩兵隊は銃撃を続けた。その後、部族民は退却を始め、十二時頃ついに撃退された。

 

今や戦闘を中断する機会が訪れた。旅団はバラバラでキャンプを出発した。そして深刻な抵抗はないと予想していた。不用意に前進していた。先進部隊は無造作に指揮されていた。敵は猛烈な反撃を行なった。その攻撃は撃退されて完敗に終わり、旅団は集結した。歩兵隊の疲労を考えるなら、おそらくキャンプに戻って翌朝再び始めた方がより賢明だっただろう。しかしジェフリーズ准将はシャヒ・タンギの破壊を完了し、敵の手に残されたヒューズ中尉の遺体を回収することを決定した。それは大胆な方針だった。しかしそれは軍のすべての将校によって承認された。

 

二回目の攻撃が命じられた。ガイド隊は左翼の敵を食い止めることになった。第35シーク隊に支援されたバフ隊は村を奪取することになった。それが可能なすべての部隊は戦野の縦隊に加勢するべし、という命令の信号がキャンプに送られた。そこで六つの新しい中隊が出発した。前進が始まると砲は旅団の右側の尾根で戦闘を始め、継続的に村を砲撃した。

 

敵は再び「狙撃」に戻った。彼らの姿はほとんど見えなくなった。しかし丘を登るには二時間を要した。バフ隊は三時に村を占領し、完全に破壊した。3:30にキャンプへの帰還命令が届いた。二回目の撤退が始まった。敵は再び力強く迫ってきた。しかし今回は二個ではなく十個中隊だった。そして後衛のバフ隊のリー・メトフォード・ライフル(*1888年、イギリス軍制式採用。黒色火薬から無煙火薬の移行に伴って速やかに同じメカニズムの後継機、リー・エンフィールド・ライフルに代替されたが、後者はイギリス軍で60年以上使用された。)は何者をも寄せつけなかった。五時十五分前に軍隊は丘を離れ、私たちは周囲を見回した。

 

この二回目の攻撃が行われている間に午後は過ぎ去った。辺境で申し分ない経験を積んでいるキャンベル少佐とコール大尉は、およそ二時頃、部族民との戦いを日中に終わらせることはできないという事実に気付いた。彼らの提案で砲の近くの支脈の上にいた将軍の参謀将校に次のようなメッセージが回光通信された。「今の時間は2:30である。帰り道でも戦わなければならないことを覚えておかれたし。」しかし准将はすでにこの可能性を予見していて、前述のとおり帰還命令を出していた。この命令は増大する敵の攻撃に強く圧迫されていた最右翼のライダー大尉の中隊には届かなかった。負傷者が彼らの退却を遅らせた。おそらく高所を取らなければならないと考えたがために、彼らは山腹をずっと上まで押し上げていた。そして今や私たちは熱く戦う彼らを二マイル離れた空の輪郭線の上に見ていた。

 

一時の休息を利用してポニーに餌や水をやっていた時、第16槍騎兵隊のマクナッテン中尉が私にそれを教えてくれたのである。私たちは望遠鏡を通して彼らを見た。それは奇妙な光景だった。入り乱れて走り回る小さな人影、小さな煙のパフ、空を背景にして剣を振るうミニチュアの将校のシルエット。彼らが命がけで戦っている、あるいは実際に何らかの危険にさらされている、などとは信じられないような気がした。それらはすべてとても小さく、非現実的に見えた。しかし彼らが強く圧迫され、弾薬筒を使い果たしていることが見て取れた。もう五時だった。北の山々に集まる重い雷雲が暗闇の接近を加速していた。

 

3:30頃、准将はガイド隊にライダーの支援に赴いて、隊の救出を試みるよう命じた。彼はそれをキャンベル少佐の裁量で行うよう指示したのある。それは困難な問題だったが、ガイド隊とそのリーダーにとっても同じことだった。彼らはその日の始めには最左翼にいた。次に中央に急行した。そして今、最右翼に行くよう命令されたのである。彼らはすでに十六マイルを行軍していたが、まだ元気だった。一列になって前線に向かう彼らを見て、私たちは舌を巻いた。一方、旅団の退却は遅れた。すべての部隊がお互いをサポートする必要があった。そして軍隊はガイド隊がライダー救出に成功するまで待っていなければならなかった。今や敵は一日中群れていた渓谷の北西端から大兵力でやって来た。それゆえ戦闘は初めて壮観なものになった。

 

旅団全体は広い平野を横切る梯陣をなしていた。最右翼ではライダーの中隊とガイド歩兵隊の両方が激しく交戦していた。砲兵隊の左後方、半マイル離れたところを第35シーク隊の二個中隊と工兵隊がゆっくりと後退していた。さらに左には第35隊の残りがいて、半マイルの間隔をおいてバフ隊がいた。騎兵隊は最左翼を守った。この長い軍隊は互いを目視ができたが、平地全体を横切る深く広いヌラーによって分断されていたので、ゆっくり後退し、接触を保つために頻繁に停止した。七百ヤード向こうには敵がいて、約三マイルの大きな半月隊形をとって絶え間なく発砲してきた。彼らの火力は効果的で、このときの犠牲者の中には死亡した王立砲兵隊のクロフォード中尉がいた。彼らの姿は小さな白い点の列のように見えた。すぐに暗闇が落ちてきた。煙のパフは銃火の閃光に変わった。大きな黒い雲が谷を覆って広がり、雷がごろごろと鳴り始めた。日光は消え失せた。景色がぼんやりしてきて、まもなく真っ暗になった。すべての連絡、すべての相互支援、すべての全体的統制が停止した。各部隊は間隔を詰め、約七マイル離れたキャンプへの帰還に最善を尽くした。激しい雷雨が頭上を襲った。鮮やかな稲妻が縦隊を照らし出し、敵が照準を合わせることが可能になった。個々の部族民はバフ隊の五十ヤード以内まで走り寄り、侮辱の言葉を叫びながらライフルを発射した。イギリス兵は限られたパシュトゥ語の嘲りと注意深い一斉射撃で応答し。軍隊は最大の着実性を示した。兵たちは肚を据えており、士官たちは元気で、射撃は正確だった。八時半には私たちは敵に煩わされなくなった。私たちは彼らを追い払ったと思った。しかし彼らはもっと良い獲物を見つけていたのである。

 

キャンプへの最後の二マイルは苦痛だった。銃撃が止んだ後、兵士たちは大変な疲労感に襲われた。バフ隊は十三時も間ぶっ続けで行軍し、戦っていたのである。彼らは前夜以来、早朝のビスケット以外の食事をしていなかった。その中の年配で経験豊富な兵たちはトラブルに笑い、帰ったら朝食、夕食、お茶を一緒にすると宣言した。若い兵たちはあらゆる方向に倒れ込んだ。

 

将校たちがライフルを運んだ。使用できるポニーやラバは疲れ果てた兵士たちを乗せていた。これもすべてではなかった。他の軍隊が私たちの前を通り過ぎた。さまざまな連隊の一ダース以上のセポイが道端に人事不省で横たわっていた。最終的に後衛が彼ら全員を連れ帰った。バフ隊は九時にキャンプに到着した。

 

その間、ガイド隊は孤立した中隊の生き残りを敵の手から救い出すという素晴らしい戦功を挙げていた。急いで行軍した後、彼らはライダーの部下たちが退却していた丘のふもとに到着した。シーク隊員たちはその日の骨折りゆえに完全に疲れ果てて、混乱していて、多くの場合、極度の疲労のため武器を使用することさえできなかった。部族民は戦闘中の中隊の両翼と後方に大勢で取り付いて、絶え間なく発砲し、踏み込んで個々の兵士を切り倒しさえした。将校は二人とも負傷していた。ガニング中尉は、弾丸で三か所を撃たれ、さらに二か所を深く剣で切られながら、助けを借りずに丘をよろめき下った。疲れていて、数で劣り、三方を囲まれ、無傷の将校がおらず、弾薬筒がなければ、終局は時間の問題である。全員がバラバラに切り刻まれているところだった。しかし今や助けが近づいていた。

 

ガイド隊は戦線を形成し、銃剣を装着し、丘に向かって駆け足で前進した。そのふもとから少し離れたところで彼らは立ち止まった。そして勝ち誇る敵に対して恐るべき圧倒的銃火を放った。戦野全体でこの中隊の一斉射撃の大きな爆発音が聞こえ、煙が見られたため、左翼にいた私たちは何が起こったのかと思った。急に停止させられた部族民はたじろいだ。中隊は退却を続けた。夕闇が迫るとともに数多くの勇敢な行動がなされた。ガイド隊のアフリディ(*カイバル峠付近を本拠とするパシュトゥーン人の一部族)中隊のハビルダー、アリ・グルは、大きなポケットのあるゆったりしたジャケットのようなキャンバス地の弾薬筒キャリアを掴み、それを部下のポーチから抜き取った弾薬でいっぱいにした。そして連隊とシーク隊の間の銃火の吹き荒れる空間を突進し、悪戦苦闘している兵士たちに貴重な包みを配布した。彼は戻る際に負傷した現地将校を背負っていた。これを見たガイド隊の数人のアフリディたちは叫び声を上げて気合を入れ、救助のために前方に駆け出した。彼らの勇敢さが負傷した他のシーク隊員たちを恐るべき運命から救った。ついにライダーの中隊は丘のふもとに到達した。そして生存者はガイド隊の援護の下で再編成された。

 

この寄る辺なく、暗闇と距離によって旅団から分断され、三方から敵に攻撃された彼らは、冷静にキャンプに戻るための戦いを続けたのである。多くの負傷者と荒れた地面に煩わされながらも、彼らはあらゆる攻撃を撃退し、その退路を絶とうとする部族民のすべての試みを打ち負かした。彼らは面目をほどこして安全に9:30にキャンプに到着した。将校の技量と経験、兵士の忍耐と気迫が、多くの人々に不可能と思われた任務の達成を可能にしたのである。そしてマムンド渓谷の戦闘における彼らの働きは最良の、最も有名な辺境連隊の歴史の輝かしい一ページを埋めることになった。[最前線に立った二個中隊の二人の将校、ホドソン大尉とコドリントン中尉の武勇はディスパッチにおいて特別に言及されるテーマになった。後にジェフリーズ准将は連隊全体の優れた功績を称賛した。]

 

バフ隊がキャンプに到着すると、それまで降りそうで降らなかった雨が降ってきた。降りは激しかった。闇は濃かった。キャンプは泥の海になった。ジェフリーズ将軍は敵襲を予想して外周を縮小するよう合図した。そのためキャンプのサイズは元の半分まで詰められた。

 

ほとんどのテントは打撃を受け、地面に山をなして一緒くたに積み重ねられた荷物とともに倒れていた。輸送動物の多くは解き放たれ、込み合った場所を徘徊していた。夕食やシェルターはなかった。兵士たちは徹底的に疲れ果てて、夕食抜きでぬかるみの中に横たわった。負傷者の状態は特に痛々しかった。打撃を受けたテントのいくつかは野戦病院だった。暗闇と雨の中では気の毒な仲間のために包帯を直し、モルヒネを注射する以上のことはできず、最後の者がドーリー(*インド式駕篭)から出たのは翌日の午後四時のことだった。

 

約一時間後に雨は止んだ。将校が眠りにつく前の部下に何か食べさせようと忙しくしていたとき、キャンプにすべての部隊が揃っていないことが判明した。将軍、砲兵中隊、工兵隊、四個の歩兵中隊はまだ谷にいた。まもなく私たちは銃声を聞いた。彼らは攻撃されていて―おそらく圧倒されている。彼らに援助を送ることは、より多くの軍隊が切り離されるリスクを負うことだった。バフ隊は疲れ果てており、最も深刻な損失を被ったシーク隊、そして一日中行軍しながら戦っていたガイド隊は考えられなかった。しかし第38ドグラ隊はかなり元気だった。将軍の不在下で指揮をとるゴールドニー大佐はすぐに四個中隊を整列させ、救助のための行軍を命じた。コール大尉は、彼らに一ダースのスワールを同行させることを申し出た。馬に鞍が置かれた。しかし命令は取り消され、その夜軍隊がキャンプを出ることはなかった。

 

この決定が正しかったかどうかは読者に判断していただくことにしたい。救援隊が暗闇と荒れた地面のために将軍を見つけられないこともあり得た。彼らがヌラーの間で打倒される可能性もあった。キャンプ本体の守備も多すぎるわけではなかった。敵の数は分からなかった。これらは重大事だった。一方、時折急増する銃声に数マイル離れた谷で戦友が命がけで戦っていることを思い出しながら、私たちが眠りにつくため横になっているのは兵士らしい振る舞いとは思えなかった。

 

 

第十二章:イナヤット・キラにて

 

  「二千ポンドの教育が

   十ルピーのジェザイル(*アフガンの手作りマスケット銃)に倒れる。

   ・・・・・

   構ってくる奴を強く殴れ。撃てる奴をまっすぐ撃て。

   オッズは安い男についている。」

                      ラッドヤード・キップリング

 

ビロット村の救援―夜の物語―休息と回復―ドモドロ―ザガイ―和平交渉―情勢

 

17日、夜明けの半時間前に騎兵隊は馬に乗った。そして荒れた地面を行くのに十分明るくなるとすぐに戦隊は行方不明の部隊を探し始めた。二時ごろから私たちは銃声を聞かなくなっていた。そこで私たちは彼らが敵を打ち負かしたものと判断していた。もちろん、その沈黙には他の理由があったかも知れない。ビロット村の近くで馬を止めたとき、壁や家の辺りで動く人影が見えた。先進縦列は慎重に進んだ。突如、彼らは短縮駈歩で壁に接近し、私たちは少なくとも数人が生きていることを知った。コール大尉は自分の戦隊を振り向いて手を挙げた。スワール隊は衝動を共有してあぶみの上に立ち上がり、歓呼し始めた。しかし応答はなかった。これも不思議ではなかった。村は修羅場だった。外壁の一つの角に戦闘の生存者がいた。(*外壁を二つの側面として)三つめの側面は浅い塹壕で守られていた。周りには男たちとラバの死体が横たわっていた。五―六人の現地兵士の遺体が急いで掘られた墓に埋葬されていた。彼らはマホメダンだったので、彼らの墓は部族民によって尊重されると考えられていた。[これらの遺体はその後掘り起こされ、原住民によって損壊された。これは軍のあらゆる宗教の兵士を激怒させ憤慨させる胸の悪くなるような行為だった。私がこの不快な問題に読者の注意を向けさせるのは、単に山の野蛮人たちの心の退廃について先の章で述べたことの正当性を示すためである。]十八人の負傷者が屋根のない小屋に並んで横たわっていた。痛みと不安に引きつった彼らの顔は、早朝の淡い光の中ですっかり青ざめていた。二人の将校が負傷しており、一人は左手を、もう一人は両足を撃たれていた。彼らは間に合わせの止血帯が取り除かれ、苦痛がいくらか緩和される瞬間を辛抱強く待っていた。准将のカーキ色のコートは頭部からの出血に染まっていて、話をしている唯一の参謀将校のヘルメットには弾丸の穴が空いていた。最も熱心にリアリズムを愛する読者は満足されただろう。食べ物、ドーリー、および医師がすぐに到着した。負傷者は野戦病院に運ばれ治療を受けた。無傷の者は急いでキャンプに戻り、朝食をとって行水をした。半時間後にその不吉な場所にいたのは、傷ついたラバを撃つ数人のスワールと、期待を込めて成り行きを見ていたハゲタカだけだった。

 

私たちはその夜の話を徐々に聞かされた。約三十人の工兵隊と第35シーク隊の半個大隊からなる砲兵隊がキャンプに戻りつつあった。ガイド隊の銃声が聞こえていたので、支援のために彼らは停止して一晩中外に留まること、という命令が七時頃出された。准将はその安全を何よりも心配していたのである。この命令が砲兵隊に届いたので彼らは工兵隊を(*砲の)護衛として戻った。そしてヌラーを再び横断して、ビロットの村の外でシークの二個中隊を伴った将軍に出会った。第35隊の半個大隊はどうやら命令を受け取らなかったらしく、そのまま行軍を続けた。王立砲兵隊のウィンター中尉が彼らを探すために送り返された。彼はそれを見つけられなかったが、ウォーリッジ少佐指揮下の元気な四個中隊に出会った。ガイド隊の二個中隊と第35隊の二個中隊である。彼らは将軍の増援要求に応じてキャンプから送られたのだった。ウィンター中尉は彼らを砲の護衛として連れ帰った。村に到着すると准将はすぐに彼らをガイド隊の支援に送った。彼は自分のシーク隊の二個中隊を計算していた。しかしウォーリッジが退去し、すでに夜の闇に消えたとき、この二個中隊も消えたことが判明した。彼らは暗闇の中で接触を失っており、将軍が停止していることに気づかずにキャンプに向かってしまったのである。こうして砲は三十人の工兵以外の護衛なしに残されることになった。(*この部分の描写は一読しただけでは分かりにくいが、分かりやすく書くとシーク隊へのはっきりした非難になってしまうので敢えてこのように書いたのではないかと訳者は推測する)

 

そのときバフ隊の十二人の兵士のパーティーが到着した。そして、彼らが砲の元に導かれた事情は記録しておく価値がある。バフ隊は村を通って撤退中に、敵の前進を阻止するためにしばらくの間マホメダンの墓地を保持していた。そこへジェフリーズ将軍の当番将校バイロン中尉が馬で乗りつけ、後方中隊を指揮していたムーディー少佐に告げた。道の百ヤードほど先に負傷した将校が護衛もなしにドーリーに横たわっている。数人の人手が欲しい。ムーディーは命令を発し、伍長以下十数人の兵士たちがそのドーリーを探し始めた。彼らはそれを見つけられなかったが、捜索中に村の外で将軍と砲と兵を見つけた。この連発ライフルを持った―連隊の名誉を完全に守った―十二人の勇敢な兵士たちの存在は、まさに局面を変えた。イギリス軍の運が彼らを村に導いていなかったなら、砲が奪われ、将軍が殺されていたことは疑いなく、もちろんそこにいた誰も疑っていなかった。幸運の女神は、特に戦争においては、小さな支点にその強力な梃子を使用するものである。

 

次に将軍は砲と工兵隊に村に入るよう命じた。しかし燃えるブーサだらけだったので不可能だった。そこで兵士たちは村の外で自らの塹壕を掘り始めた。村はすぐに敵でいっぱいになった。彼らは砲と兵が占めるスペースを二方向の家と壁から見渡し、約三十ヤードの距離から発砲し始めた。まるでその壁を敵に保持されているラケットコートにいるかのように、部隊全体が晒されていた。砲や負傷者を捨てていくことはできなかったので、彼らは動くことができなかった。幸いにも、この場所の多くの部族民はライフルで武装していなかった。彼らは石と燃えるブーサを小さな守備隊の真ん中に投げた。彼らはその光で良く狙いをつけた。誰もがありあわせの遮蔽物の下に隠れた。あまり沢山はなかったが。勇敢な現地砲兵ニハラは差し迫った命の危険に晒されながら、燃えるブーサを繰り返し外套で消した。ワトソンとコルビンの両中尉は部下の工兵たちとバフ隊の十二人の兵士とともに村に押し入り、銃剣で敵を追い出そうとした。しかし小さなパーティーが掃討するには村は大きすぎた。部族民は次々と場所を移動しながら繰り返し発砲した。彼らは数人の兵士を殺傷し、ワトソン中尉の手に銃弾を命中させた。しかし彼は奮闘を続け、再び撃たれて立っていられないほどの重傷を負うまでやめなかった。部下は彼を村から運び出した。再度の試みは無益だろうと思われた。

 

読者の注意はこの将校の勇気に向けられている。長い行軍と戦いの後、暗闇の中で、食物もなく、無勢で、重く痛い傷を負った後も揺るがず、怯まず戦い続ける人物に対してその勇気において対等な者は少なく、勝る者は全くいない。おそらく耐えることは挑むことと同じくらい高い勇武の形である。両方の組み合わせは崇高である。[両将校はこの時の行動によってビクトリア十字章を受けた。]

 

九時の雨によって銃火は止んだ。部族民は火薬が濡れることを恐れたのである。しかし十時ごろ再開した。今や彼らは村の壁に大きな穴を開け、そこから約一ダースの男たちが発砲して恐るべき効果を挙げた。他の者は壁に銃眼をつくり始めた。砲はこの獰猛な工兵たちに二十ヤードの距離から散弾を発射し、壁を粉々に砕き、多くを殺した。敵は弾丸、燃えるブーサ、石のシャワーで応えた。

 

そのように時間はのろのろと過ぎた。将軍とバーチ大尉は、両方とも夜の早い時間に負傷した。傑出した勇敢さで振舞っていたウィンター中尉は11:30頃に両足を撃たれた。彼はこれで四十五日以内に二回重傷を負ったことになる。彼はさらに失血によって気絶するまで、砲を指揮し続けた。現地人砲兵は自分も撃たれるまで彼を体で庇った。光景全体、切迫した、必死の戦い、ラバの死体、その後ろにうずくまる将校と兵士、ブーサの燃える山、ライフルの閃光、そして全てを覆う、あたり一面の夜の闇は―ドヌー(*アルフォンス、フランスの画家)の鉛筆に値する。

 

やがて、真夜中頃に助けが到着した。ウォーリッジの二個中隊はガイド隊を探しに行っていたが見つからなかった。今や彼らは再び戻って来た、そしてビロットでの発砲を聞き、将軍が支援を望んでいるかどうかを尋ねるため、第11ベンガル槍騎兵隊の伝令を送って来た。この気骨ある少年は―ほんの若い新兵だったが―そこら中にいる敵とほとんど同様に、わが方の兵士に撃たれる危険にさらされながら、村まで冷静に騎行して来たのだった。彼はすぐに救援の二個中隊を連れて来た。そして狩を邪魔された敵は暗がりへと撤退した。砲兵隊とその防御者がそれ以上どれだけ長く持ちこたえられただろうかは分からない。彼らは着実に人を失い、その数は非常に少なくなっていたので、いつ突撃を受けても不思議ではなかった。そういう話だった。

 

17日には作戦はなかった。兵士たちは休み、死傷者は数えられ、負傷者は包帯を巻かれ、自信が取り戻された。前日に殺害された英軍将校と兵の葬儀は正午に行われた。参加できる者は全員参加した/しかし軍葬の華美はすべて省略され、身体を覆うユニオンジャックはなく、墓の上での斉射はなかった。負傷者を煩わせないためである。その全員が間違いなくそうであったと言える/自国のための戦いの中で命を落とした人々の遺体がキャンプのどこかに―正確な場所が今は故意に忘れられているが―静かに埋葬された。記念碑はなかった。荒らされないことを保証するのは、知られないことだけである。とはいえ葬儀は印象的だった。戦争のゲームは一部の人々に戦利品、名誉、昇進、または経験を/他の人々には良く義務を果たしたという自覚を/そして他の人々―おそらく傍観者―にはプレイの楽しみと人々と事物についての知識をもたらす。しかし、ここにはすべてを失って兵士の墓だけを得るという―悪い数字を引いた人々がいた。支給品のブランケット、民族の誇り、帝国の威厳に包まれたこれらの形のない形を見ていると、戦争の栄光などぼんやりした実体のない夢の織物に過ぎないと思えてくる/そして私はバーク(*エドモンド)に思い至らない訳にはいかなかった。「私たちの存在はいかに影のようなものだろうか。そして私たちが追い求めているのはいかに影のようなものだろうか。」(*What shadows we are and what shadows we pursue.急死した友人への弔辞の中で故人の言葉として引用したもの)

 

交戦人数当たりの実際の死傷者数は、長年のインドにおけるイギリス軍のどの作戦よりも多かった。1000人を超えない軍隊において、九人のイギリス人将校、四人の現地将校、136人の兵士が死傷したのである。以下は全報告である:―

 

               イギリス軍将校

  死亡― V.ヒューズ中尉、副官   第35シーク隊

      A.T.クロフォード中尉   王立砲兵隊

  重傷― W.I.ライダー大尉   第35シーク隊付属

      O.G.ガニング中尉   第35シーク隊

      O.R.カッセルズ中尉   第35シーク隊

      T.C.ワトソン中尉   王立工兵隊

      F.A.ウィンター中尉   王立砲兵隊

  軽傷― ジェフリーズ准将、第2旅団司令官   マラカンド野戦軍

      バーチ大尉       王立砲兵隊

 

               イギリス軍兵士

               死亡     負傷

  バフ隊           2      9

 

               現地兵士

               死亡     負傷

  第11ベンガル槍騎兵隊   0      2

  第8山岳砲兵隊       6     21

  ガイド歩兵隊        2     10

  第35シーク隊      22     45

  第38ドグラ隊       0      2

  工兵隊           4     15

        総死傷者数  149   /    馬とラバ  48

 

一部では9月16日の戦闘は失敗だったと考えられている。私は事実に即してこの見解が正しいとは思わない。部隊は与えられたすべての任務を成し遂げた。彼らはすべての抵抗にもかかわらずシャヒ・タンギの村を最も完全に燃やし、部族民に200人以上の損害を与えたのである。敵は殺された兵士の死体から二十二丁のライフルを奪ったことで意気を上げたが、軍隊の勇気に感銘を受けていた。「もし」と敵たちは言ったと報告されている。「軍隊が分断されたとき、このように戦うのなら、私たちは何もできない。」私たちの損失は間違いなく重く、持っていたアドバンテージに釣り合っていなかった。それはマムンドの人数と戦闘力について、軍全体が共有していた無知ゆえのことだった。この出来事の後に大勢が賢くなったが、これらの部族民は軍隊と同じように武装していること、または彼らが自ら証明したように勇敢で恐るべき敵であるということは誰も知らなかった。「敵を軽んじるな」というのは古い教訓である。しかし好戦的で勇敢なすべての国々は、毎年新たにそれを学び直さなければならない。また私たちの損失は、それを救出するために全軍が暗くなるまで待たなければならなかった、ライダー大尉の中隊の孤立のためでもある。危険を冒すことなしに戦争はできない、また後装銃で武装した敵に対して損失なしに作戦することはできない、と言われている。弾丸から兵を完全に守る戦術はない。エラーに注目して困難を忘れ、危険の中で行われたことを安全な場所で批判し、平時の安らぎの中で戦時の行いを判断する呑気な批評家は、傷ついて、馬を撃たれ、最後の部隊とともに戦野に残り、部下の兵士の安否だけを気にかけている将軍の壮観は、私たちの軍事史の一ページに値しないものではないことを思い起こすべきである。

 

気さくで勇敢な戦友を失ったことによる意気消沈は、即時の戦闘の見通しによって払拭された。ビンドン・ブラッド卿はそのときナワガイの陣地で危険にさらされていた。しかし准将に命じたのは増援ではなく、部族民に対する精力的な作戦の遂行だった。そして18日朝、ドモドロ村を攻撃するために部隊が動いた。16日に第38ドグラ隊が非常に強力に守られていることに気づいた村である。再び敵は多勢だった。再び彼らは効果的な戦術を採った/しかし今回はチャンスが与えられなかった。旅団全体が攻撃のために行軍して集結し、射程外の平坦地に整列した。将軍とスタッフは前方に騎行して偵察した。

 

港の桟橋のような二本の長い支脈が丘から突き出していて、村はその陥凹部にあった。背後には5000フィートの険しい山が聳えていた。支脈に囲まれた土地はトウモロコシや大麦といった作物で一杯だった。砦と見張り塔が入り口を守っていた。8:30に前進命令が出た。敵は砦を守ろうとしなかった。それはたちまち奪われて爆破された。マムンド渓谷の戦闘において爆発は珍しい光景ではなかったが、それは見慣れないものだった。突然、厚い赤褐色のホコリの大きな雲が空中に飛び出し、あらゆる方向に膨張したのである。塔は真っ二つになって倒れた。ドーンという一連のくぐもった音が続いた。ホコリの雲が消え去ったとき、そこにはわずかな残骸しか残っていなかった。

 

今や敵が支脈から発砲してきた。両方の支脈が白い煙の小さな輪を頂くようになった。第35シーク隊は前進して右の尾根、第38ドグラ隊は左を片付けた。ガイド隊は村に移動し、メインの陥凹部を登った。バフ隊は予備だった。砲兵中隊は左翼で戦闘を始め、向かい側の丘の稜線を砲撃し始めた。彼らは器具を使って距離を測り、それぞれわずかに異なる距離で毎回二発の砲弾を続けざまに発射するのである。小さな二門の砲が大きな砲声を上げて爆発する。そして山のはるか上方に上下の二つの煙の玉が現れる。数秒後、砲弾の破裂音がかすかに戻ってくる。通常、一発は狙った地点の少し手前に―もう一発は少し先に―落ちる。誤差を割り出して次の弾丸を的中させるのである。部族民が発砲していたピークに破片と弾丸の粉塵が現れる。そして静かになって、人気がなくなる―顧みられることのない悲劇の現場である。徐々に支脈から敵が取り除かれた。そしてガイド隊は村を通り抜けて山の斜面を登り、急な水路の大きな岩の間に落ち着いた。孤立した狙撃手たちが弾の雨を降らせ続けた。私が観察している―ロックハート中尉の―中隊はこの中の一人を一斉射撃で殺した。私たちは彼が小さな水たまりのそばに座って石にもたれて座っているのを見た。もともと醜い男だったが、今では顎と顔の骨が弾丸でバラバラに砕けていたため、見るも恐ろしい姿になっていた。その唯一の衣服は腰で留めたぼろぼろの青い亜麻布の外套だった。彼はそこに座っていた―無知で、品がなく、むさ苦しいが、勇敢で好戦的な、典型的な部族民である/その唯一の財産、彼の武器は同胞に持ち去られていた。私は社会的生物としての彼の本質的な価値と、その週に殺された士官たちのそれを対比せざるを得なかった。この章の始めのキプリングの短詩が不思議な意味を持って思い起こされた。実際、私はワテライ渓谷でそれが引用されるのをよく聞いたものである。

 

今や工兵隊が村に入っていた。そして粗末な家々を破壊するための準備に取り掛かっていた。その平らな屋根は土で覆われており、最初に穴を開けておかないと良く燃えないのである。これには時間がかった。その間、部隊は獲得した陣地を保持し、敵との散漫な銃火の応酬を続けた。正午ごろそこに火がつけられ、濃い煙の雲が高い柱になって風のない空気中を昇っていった。そして軍の撤退が命令された。すぐに敵は反撃を始めた。しかし、ガイド隊の技量が上だった。各中隊の退却は丘のずっと下まで賢明に配置されていた他の中隊の銃火で援護された。敵に好機はなかった。一時までにはすべての中隊が破壊された土地から離れていた。バフ隊は後衛を引き受けた。そして、すぐに燃えている村を再び占領した部族民との活発な―幸運にも人命の損失を伴わない―小競り合いをして喜んでいた。これは半時間程度のものだっただろう。その間に残りの旅団はキャンプに戻った。

 

この非常に成功した仕事の犠牲者は少なかった。これは頑強な忍耐力を備えたジェフリーズ准将がマムンド部族民の精神を打ち破った六つの計画の最初のものだった。

 

                     死亡    負傷

  第35シーク隊・・・・         2     3

  ガイド歩兵隊・・・・          0     1

  第38ドグラ隊・・・・         0     2

                 総犠牲者数   8

 

敵の損失は相当なものだったが、信頼できる詳細は入手できなかった。

 

19日、軍隊は休息し、キャンプを出たのは採餌部隊だけだった。20日、戦闘が再開された。谷の入り口の位置からは丘のくぼみにあるすべての村が見えて、過去のものだけではなく、今後の戦闘の場所をも識別することができた。懲罰のために選ばれた特定の村の名前は決して口外されず、旅団がキャンプから数マイル行軍するまで目的は明らかにされなかった。したがって部族民は「栄光ある不確実性」(*glorious uncertainty)の状態に留まり、本当の多人数を集めることができなかった。午前5:30に旅団は出発し、騎兵隊に先導されて谷を行軍した―長い茶色の兵の流れだった。ほぼ中央に到着すると、軍隊はよりコンパクトな隊形を取った。そして突然先端がくるりと左に回転し、ザガイ村への行軍が始まった。すぐに山の斜面の高いところから空に、長い煙の柱が打ち上げられた。それは狼煙だった。他の丘がそれに答えた。この件は今や時間の問題となった。氏族が集まる前に村を占領し破壊することができれば戦闘はほとんどないだろう。しかし部隊が遅れたり手こずったりした場合、その戦闘がどのような規模になるかは分からない。

 

ザガイ村はドモドロ村と似た立地条件にある。長い支脈がその両側で谷へと伸び、その窪みの両側のテラスに家が建てられている。水路近辺の岩だらけの地面には大きなスズカケノキが豊かに美しく成長していて、丘の斜面に背景の陰鬱な茶色とは対照的な緑のパッチをつくっていた。軍隊が整然と接近するにつれて、絶え間ない太鼓の音がかすかに聞こえてきて、それはラッパの音によって時々変化した。騎兵隊が偵察に出かけ、その場所は強固に守られていると報告した後、速歩で駆けて側面の監視に行った。敵は支脈の稜線に旗を誇示していた。前進は続いた:ガイド隊は左翼、第38ドグラ隊は中央、バフ隊は右翼、そして第35シーク隊は予備である。約九時に左側から銃撃が始まり、四分の一時間後に中央付近で砲が戦闘に入った。ガイド隊とバフ隊は左右の尾根を登った。敵は例によって後退し、「狙撃」に入った。そして第38隊は前進して村を占領し、破壊するため工兵隊に引き渡した。彼らはこれをはなはだ徹底的に行い、十一時に家とブーサの山から濃い白い煙が上がった。それから軍隊は撤退するよう命じられた。「Facilis ascensus Averni sed ・・・/」(*ラテン語Facilis ascensus Averni, Sed revocare gradum,hic labor,hoc opus est.地獄に行くことは容易だが、戻るのは骨である。)この引用に煩わされるのは止めることにして(*チャーチルはラテン語が苦手だった)、私はアジア人に対する前進は通常容易だが、全ての退却は危険である、と説明しよう。村が破壊されている間に、敵が集まって来ていた。空を背景にした暗い点の多数の線として―山の頂上に彼らの姿が見えた/他の者は隣接する左右の谷から来ようとしていた。右翼の者たちは成功し、バフ隊がすぐに鋭く交戦した。左翼の騎兵隊は再びその武器の力を示した。少なくとも600人を数える大勢の部族民が戦闘の現場に到達しようと努力していた。そこにたどり着くには開けた地面を横切らなければならなかったが、それは槍騎兵隊の正面だったので彼らはそれをしなかった。この同じ部族民のうちの多くがマラカンドへの攻撃に加わり、インドの獰猛な騎兵にカルの平野中を追いかけ回されていたのである。彼らはその経験を繰り返すことを望んでいなかった。彼らがその友軍と彼らを隔てる空間を突破しようとするたびに、コール大尉と配下のわずか五十騎の戦隊が速歩で前進し、たちまち部族民は小走りで丘に戻った。長い時間、彼らは遅れさせられ、スワールたちに向かって、まもなく「お前たちをひき肉にする」とわめき立て、やってみろ、と返答されることに甘んじた。やがて丘を離れたなら騎兵隊から逃れられないことを悟った彼らは長い迂回路を使った。そして軍隊が村を破壊して立ち去った半時間後に到着した。

 

それでも退却が進行していると見るやいなや、すべての前線で全体的な攻撃が行われた。左翼では旗を掲げ、剣を振るって前進してくる約500人の軍勢がガイド隊を脅かした。彼らはこれを追い散らし、着実な長距離射撃で彼らを遠ざけ、多数を殺し、負傷させた。右翼ではバフ隊が別の支脈から見渡されることに悩まされていた。私が同行したハスラー中尉の中隊はこの側面射撃から地面によって守られていた。しかし非常に多くの弾丸が頭上で唸りを上げていた。それがどこから来るのかを見ようとして、中尉は稜線を越えて向こう側へ歩いて行った。ここの半個中隊は活発に交戦していた。山の高い地点から彼らに正確な銃火が向けられていた。私たちはリー・メトフォード・ライフルでその地点を射程に収めようとした。それはおよそ1400ヤードと測定された。部族民はマルティニ・ヘンリーで武装しているだけだった。それにもかかわらず彼らは優れた腕前を発揮した。R.E.パワー中尉が腕を射抜かれ、ほぼ直後にケーン中尉が胴に重傷を負った。幸いなことに弾丸は最初に剣の柄に当たっていた、もしそうでなければ彼は死んでいただろう。二―三人の兵士もまた負傷した。マルティニ・ヘンリー・ライフルの射程と能力を知っている者なら、それほどの長距離から損害を与え得る手腕と射撃術を高く評価するだろう。

 

撤退が進むにつれて部族民が近くへ寄ってきた。しかしバフ隊は恐るべき武器を非常に効果的に使用していた。私はその力が印象的に発揮されるのを目撃した。F.S.リーブス中尉は配下の中隊の撤退を援護するために一ダースの兵士を後方に残し、この時大胆に前進して来た敵に効果的に発砲させようとしていた。三百ヤード離れたところにヌラーがあり、その小隊を孤立させるため、敵はこれに沿って走り始めた。しかし私たちの銃火はある地点で彼らの前進線を見渡していた。やがて一人の男がその開けた場所を走った。部隊は即座に発砲した。このライフルの大きな利点は固定した照準器を使用できるため、正確な距離を容易に推測できることである。男は倒れて―白い点になった。他の四人が突進してきた。再び一斉射撃があった。四人全員が倒れて動かなくなった。この後、私たちはほとんど邪魔を受けることなく順調に後退した。

 

軍隊が丘から離れるとすぐに、敵は岩と尾根を占領し、撤退する兵士に発砲した。バフ隊の退却線は、滑らかで開けた土地の上にあった。十分間の活発な発砲があった。一人の将校と七―八人の兵士が倒れた。地面は湿っていて深く、弾丸は柔らかい泥に突き刺さり、奇妙で物珍しい音を立てた。部族民は敢えて開けた場所へ出てこようとしなかったので、部隊が射程外に出るとすぐに発砲は停止した。

 

最左翼に相当な数の敵の集団が現れた。そしてしばらくの間、彼らは丘を出て平野に入ろうとしているように見えた。しかし騎兵隊が速歩で前方に出ると、混乱して走って戻り、もと通りの一団になった。砲兵中隊はすぐにその真中に二発の榴散弾を爆発させ、大きな成果を挙げた。これで仕事は終わった。部隊はキャンプに戻った。死傷者は以下の通り:―

 

                イギリス軍将校

  重傷―G.N.S.ケーン2等中尉

  軽傷―L.I.B.ハルケ大尉

    ―R.E.パワー中尉

 

                イギリス軍兵士

                   死亡  負傷

  バフ隊               1  10

               (負傷により死亡)

 

                  現地兵

                       負傷

  第38ドグラ隊・・・・           2

          総犠牲者数        16

 

結局のところ小競り合いでしかなかったものについてこんなに長々と記述したことに対して、私は読者に謝罪するつもりはない。辺境戦争の描写は本質的に細部の描写であり、細部を知ることだけが本当の印象を得ることを可能にするのである。

 

22日と23日にダグ村とタンギ村がそれぞれ攻略されて破壊されたが、抵抗はわずかだった。作戦に目立った新しい特徴もなかったので、これ以上の説明で読者を飽きさせないことにしたい。死傷者は以下のとおり:―

 

                イギリス軍将校

  負傷―S.ムーディー少佐  バフ隊

 

                  現地兵

                  死亡   負傷

  ガイド歩兵隊           1    2

  第38ドグラ隊          0    2

 

これらの作戦によってマムンド渓谷の部族は厳しく処罰された。彼らが16日の戦闘に際して感じたであろう歓喜は完全に消え去った。旅団は思いのままに村を奪って焼き尽くす力を実演し、その行動を妨害しようとするすべての者に深刻な損失を与えた。部族民は今や完全に落胆し、21日には和平を訴え始めた。

 

しかしアフガニスタンの辺境に近いことが状況を複雑にしていた。ムマンド渓谷の西側はヒンドゥ・ラージ山脈の山々に囲まれており、その頂上に沿ってアミールとの境界となるデュラン・ラインがある。この区域の向こう側には強力な武力を持つアフガニスタンの最高司令官であるゴーラム・ハイダーがいた。その戦力は、私が述べた戦闘の時点で九個大隊、六個戦隊、十四門の山砲に達していた。ザガイへの攻撃中に、丘のより高い斜面にカーキ色の制服を着た多数の人影が観察され、特定のグループが部族民の動きを指揮しているように見えたという主張がある。いずれにせよ、部族民がアフガン軍の正規軍に、より多くをアフガンの部族民に、武器弾薬の供給に留まらず実際の介入によって支援されていた事を、私もマムンド渓谷にいた他の誰も疑っていない。

 

私は辺境の蜂起におけるアミールの共謀の疑いについて発言するために十分な証拠を持っていない。確かに長年にわたってアフガニスタンの政策は、一貫してパシュトゥーン族の間で反乱を起こすために使えるかもしれないエージェントを集めて維持することだった。しかしアミールがイギリスとの悶着から得られる利益は明らかではない。彼は多分その地位の継続性やおそらく助成金の増加という見地から、インド政府にとっての彼との友情をより重要なものにするためだけにずっと全力を尽くしていたと思われる。彼は今年、その力を試し、誇示した可能性がある/そして彼はもし自分が味方として役に立たなかったとしても、どんなに危険な敵になりうるかを私たちに示すことを望んだのかもしれない。敏感で難しい問題である。証拠のほとんどは国家秘密文書の中にある。問い合わせることは有益ではない/ことによると結果は望ましいものではないかもしれない。愛国的な思慮分別は常に熱心に培われるべき徳である。

 

私が述べた事実がアミールの共犯の可能性を減少または増加させるとは思わない。アメリカの議事妨害者がキューバの反政府勢力に同情するように/ジェームソン襲撃隊がトランスバールのアウトランダーを支援したように、アフガニスタンの兵士と部族民も国境を越えて同郷人と同じ宗教の信者に同情し、支援した。おそらくアフガニスタン植民地局はいかなる調査においてもそれを立証できただろう。

 

彼らに同情心を主張させたその命を、彼らが持ち帰らせられることは、恥辱ではなくむしろ名誉である。人類の進歩はまさにそのような人々に負ってきたのである。私がこの問題に言及するのはアフガニスタンの部族民やその支配者に対する敵対的な感情を喚起するためではなく、マラカンド野戦軍の第2旅団が直面した困難を説明するためである。なぜ名もない村に防御者が何千人もいて、なぜ貧困に苦しむ農民の武器が優れたマルティニ・ヘンリー・ライフルだったのかを。

 

マムンド族自体は今や心から和平を切望していた。彼らの谷は私たちの手にあった/彼らの村と作物は私たちの慈悲にかかっていた/しかし、こうしたことに苦しんでいない同盟者たちは熱心に闘争を続けようとしていた。彼らは16日に死んだ兵士のライフルのほとんどを鹵獲し、手放すつもりは毛頭なかった。一方、この問題において英国領インド帝国を無視することが許されないのは明らかだった。私たちはライフルの引き渡しを主張した。そして、高価な因子である帝国の威信は、いかなる代価を支払ってでも、それを手に入れるまでは作戦を遂行することを要求した。ライフルにはほとんど値打ちがなかった。私たちが失った兵や将校たちには大きな値打ちがあった。それは不健全な経済学だった、しかし、帝国主義と経済学は、正直さと私的利益のようにしばしば衝突することがある。したがって、私たちは名声を維持するために、損の上塗りをするという方針をとることになった/商人に支払いができない男が決済の代わりに新しい注文をするように。これらの不十分な条件下で交渉が始まった。しかしそれが軍事情勢に干渉することはなく、軍隊は谷で毎日採餌を続け、部族民は毎晩キャンプに発砲した。

 

週の終わりには、負傷者の苦しみを労り、部隊の行動に満足していることを表明する女王陛下からのメッセージが旅団命令で発表された。それは全員を最も爽快に喜ばせたが、中でも特に現地兵士たちは、その前で自分たちの小君主がみな頭を下げ、サーカーですら召使にすぎない、威厳ある君主が自分たちの行動と危険を知らなかったわけではないことを聞いて、誇りと歓喜を抱いた。皮肉屋や社会主義者はこういった類の者をあざ笑うかもしれない/しかし結束したり、崩壊したりしがちな巨大な共同体である軍隊を注意深く調査する愛国者は、忠誠心の力がいかに帝国の連帯を促すかを観察するだろう。

 

そして読者には私と共に、十二マイル離れたナワガイの第3旅団のキャンプに行っていただかなければならない。後に私たちは再びマムンド渓谷に戻り、その人々と自然の特徴についてさらに学ぶ機会を持つだろう。

 

 

第十三章:ナワガイ

 

   「バジャウルの荒々しい山男たちが自らの血で窒息して横たわり、

    そして、異教徒が足場を固めていたとき・・・」

               「下ベンガルでの説教」 A.ライアル卿

 

「アジア的見解」―戦略的状況―将軍の決断―敵対的な誘引―戦争の前触れ―夜の攻撃―死傷者―部族の狼狽―モーマンド野戦軍―パータブ・シン卿―帝国の因子としてのポロ―第3旅団の出発

 

自然界において、傷ついた動物を仲間が追いつめる、容赦ない残酷さほど悲惨で邪悪な光景はほとんどない。世界において西洋人がこの粗野な、生まれながらの本能を遥かに上回っていたのは、おそらくキリスト教文明と、涼しくて爽やかな気候のためである。ヨーロッパ人の間では力は敵意を、弱さは哀れみを引き起こす。東洋ではすべてが異なる。安全は成功の中だけに、平和は繁栄の中だけにある。スエズの向こうでは人心の傾向はそのようである。皆が倒れた者を見捨てる。皆が倒れた者に襲いかかる。

 

マムンド渓谷での戦いの記事において、部族民が退却する敵を追跡し、孤立した部隊を圧迫する活力に読者は印象を受けたかもしれない。戦争においてこれは健全で現実的な方針である。しかし山岳民族は軍事的知識からではなく、自然な性向からそれを採用していた。彼らの戦術は彼らの性質の産物である。道徳的、政治的、戦略的な行動はすべて同じ原則に則っている。恐怖しつつ不機嫌に軍隊の通過を見守っていた強力な部族は、彼らの背後に弱さの兆候が現れるのを待っていたのである。旅団が地域を支配し、自信と成功を収めている限り、彼らの連絡は自重され、蜂起は局所化されていた/しかし、停止、反転、退却によって、すべての方面で恐るべき連合体が立ち上がった。

 

読者がこうしたことを念頭に置かれるなら、この章が取り扱う状況を理解でき、本書の範疇を超える他の多くの問題を説明できるだろう。忘れてはならないのは、辺境戦争の偉大なドラマはペシャワルからコロンボ、クラチェー(*カラチ)からラングーンに至る劇場を埋める、莫大な静かで注意深い観客の前で演じられることである。

 

9月17日にビンドン・ブラッド卿がナワガイで直面した戦略的および政治的状況は、困難で危険なものだった。彼は敵国に進出していた。彼の前にはハッダ・ムラーの呼びかけによってさらなる前進に対抗するためにモーマンド族が集まっていた。彼が従えていた一個旅団は敵が守っているベドマナイ峠を突破できるほど強力ではなかった。計算に入れていた第2旅団は十二マイル離れたマムンド渓谷に完全に費やされていた。四日の行程分離れているパンジコラ川の第1旅団は移動するのに十分な輸送手段がなかった。一方エルズ将軍の師団はシャブカドル北東の困難な土地を痛いほど苦労しながら進んでいるところで、あと数日間は到着できなかった。こうして彼は、それを通り抜ける退却こそが最大の危険と困難になる「山峡のネットワーク」の背後で孤立してしまったのである。

 

これに加えて敵地、またはいつでも敵地になる可能性のある土地を越えて伸びる六十マイルの連絡線が、マムンド渓谷での予期せぬ暴動によって深刻な脅威にさらされていた。彼は二つの炎の間にいたのである。また、これらがすべてではなかった。大きな権力と影響力を持つ首長であるナワガイのカーンの忠実さをつなぎ止めていたのは、ビンドン・ブラッド卿の旅団の存在だけだった。インド政府が唱えた通り、旅団がマムンド渓谷のジェフリーズ准将に合流するために行軍していたなら、この強力な首長はイギリスへの反抗に全力を投じただろう。マムンド渓谷の炎にベドマナイ峠の炎が加わって、強烈な大火を引き起こし、燃え上がりやすい部族民の間に大いに広がったことだろう。バジャウルは男を上げただろう。スワットは最近処罰されたにもかかわらず、不気味に扇動されただろう。ディリは支配者を拒み、その連携に参加していただろう。山岳地帯全体が燃え上がっていたことだろう。すべての谷が武装した男たちを投入しただろう。ラカライに到着したエルズ将軍は支援旅団ではなく敵対的な集団に出会い、何事も成し遂げることなくシャブカドルに戻らなければならなかったかもしれない。

 

ビンドン・ブラッド卿はナワガイにとどまることにした。ハッダ・ムラーの集団をマムンド渓谷の部族民から切り離す/エルズ将軍に手を差し伸べる/峠を開いたままに、カーンを忠実なままに保つ。ナワガイが状況の鍵だった。しかし、それは数多くの危険を冒すことなしに握ることができない鍵だった。それは大胆なコースだったが、正しく着想された大胆なコースが通常そうであるように、成功したのである。それゆえ彼はジェフリーズにマムンド族に対する圧迫作戦を命じ/ナワガイのカーンに政府の信用と、彼をすべての敵から「保護」する自分たちの決意を保障し/エルズ将軍にナワガイで会うつもりである、と回光通信し/キャンプに塹壕を掘って待ちうけた。

 

長く平和に待っている必要はなかった。何世紀にもわたる絶え間ない戦争によって戦術的な本能を進化させてきた部族民は、自分たちの望みにとってナワガイの第3旅団の存在が致命的であることをすぐさま理解した。そこで彼らはそれを攻撃することに決めた。スーフィー(*イスラム神秘主義者)とハッダ・ムラーは、信じやすい信奉者たちにその影響力のすべてを行使した。前者は来世の幸福の希望に訴えた。戦死したすべてのガジたちは、カアバの上の玉座のまさに足元に座るべきであり、褒め称えられ、威厳を与えられ、天国の美女の二重の手当ての魅力によってその苦しみを癒されるであろう。ハッダ・ムラーはさらに具体的な誘導を行った。陣地に突撃した者には銃口が向くことはない。弾丸に傷つくことはない。彼らは不死身である。まだ天国に行くべきではない。地上で名誉を受け、尊敬されて生き永らえるべきである。ハッダ・ムラーの信奉者は来世の快楽の志願者の三倍の死者と負傷者を抱えていたため、この保証はより重要になったようである。この粗野で迷信的な山の息子たちの未発達な心の中にも、経済学と実践哲学の未分化の胚芽、潜在的な進歩の可能性のしるしがあるように思える。

 

     ある者はこの世の喜びを

     ある者は預言者の楽園が来るのを恋い願う。

            ああ!現金を受け取り、債券を手放せ。

     遠い太鼓の響きなど気にするな。

                     ウマル・ハイヤーム

              (*1048年生まれのペルシャの学者・詩人)

 

毎夕、攻撃の可能性のある戦線に騎兵隊を出して、陣営の近くに日没時の攻撃を狙う敵が集まっていないことを確認するのは、すべての戦争において賢明な指揮官が行っていることである。18日、第11ベンガル槍騎兵隊のデラマン大尉の戦隊は、ベドマナイ峠の方向からやってくる敵のバラバラの一隊に出会った。とりとめのない小競り合いが起こり、騎兵隊はキャンプに退却した。その夜いくらかの発砲があった。そして哨兵線から約五十ヤード離れたところに迷い出た女王陛下の連隊の兵士が、いたるところに潜んでいた残忍な敵に引き倒されて殺された。翌夕、騎兵隊はいつものように偵察を行った。戦隊は前進偵察隊の横隊に守られて平野を横切り、ベドマナイ峠に向かって押し出した。突然、部族民の長い列がヌラーから立ち上がって一斉射撃を行った。馬が撃たれた。戦隊は旋回して短縮駈足で脱出し、専門用語で「接触の確立」と呼ばれるものに成功した。

 

今や約3000人の敵の大規模集団が平野に現れた。日没の約半時間前、彼らは踊り、叫び、ライフルを発射した。山岳砲兵隊は数発の破裂弾を発射したが、遠すぎてあまり利益はなかった、それとも損害というべきか?そして暗くなった。その夜、旅団全体が攻撃を予測し続けていたが、非常に中途半端な試みが行われただけだった。これは簡単に撃退され、軍の側では女王陛下の連隊の一人が殺された。

 

しかし、20日にナワガイのカーンから明確な情報があった。すなわち、その夜キャンプに決然とした攻撃が行われることになる、と。騎兵隊の偵察は再び日暮れに敵と接触した。将校たちは一時間早く夕食を始め、8:30頃、発砲が始まったときにちょうど終わった。長距離からではあったがキャンプの位置は周囲の高みから見渡されていた。そこから、今や徹底的なライフルの銃火が放たれた。すべてのテントが撃たれた。塹壕に入っていない将校と兵は伏せるように指示された。弾丸の大部分は陣地の一方の側の胸壁を飛び越え、腹ばいになった人々に害を与えずに音を立てて通過していった/しかし歩き回るのは危険だった。また高みから撃ち込まれる銃弾は誰にとっても癪なものだった。

 

今やキャンプのすべての側面に剣による決然とした激しい突撃が行われた。約4000人にも上る敵が最大の勇気を示した。彼らは塹壕の直前まで駆け寄り、まさしく部隊の銃剣の下で、死ぬか、死にかけていた。攻撃の矛先はイギリスの女王陛下の歩兵連隊に向けられた。その夜キャンプにいた多くの人が言った通り、敵がそこに突撃すると決めたのは幸運なことだった。連発ライフルに直面していなかったなら彼らは陣地を破っていたかもしれない。

 

しかしイギリス軍の火砲は圧倒的だった。その統制は見事だった。その帯びている武器はより恐るべき弾丸によってすべての突進を食い止めた。自信を持った兵士たちが完璧に制御されていた。敵の突撃に際して兵に連発銃の使用命令が出された。砲は照明弾を発射した。この大きな打ち上げ花火は空中で破裂して星になり、ゆっくりと地面に落ちて、素早く走ってくる部族民の群れの上に青白く、ぞっとするような光を投げかけた。そして小銃射撃のポンポンという音は単一の強烈な咆哮になった、ライフルの弾倉の中の十個の弾薬筒がほぼ瞬時に発射されたのである。そのような銃火を前に、何者の生存も不可能だった。勇気、獰猛さ、狂信、何も役に立たなかった。すべてが一掃された。笛が鳴った。自由な銃撃は機械のような精度で停止し、分隊の着実な一斉射撃が再開された。攻撃が続いた六時間の間にこれが一回ではなく、十二回行われた。第20パンジャブ歩兵隊と騎兵隊もその前線に加えられた攻撃に着実に耐え、撃退した。やがて部族民は完敗にうんざりし、憂鬱に無秩序に丘に退却した。

 

その夜キャンプにいた人々は皆、最も不快な経験をした。塹壕にいた人々が一番マシだった。何もすることもなく、見るものもない他の人々は、次の弾丸が彼らに命中するかどうかに思いを巡らせながら六時間も横たわったままだった。ある一張りのテントに十六個の銃弾の穴が見つかったという事実から、銃火の深刻度についてある程度想像がつくだろう。

 

ウォードハウス准将は十一時頃に負傷した。彼は塹壕の周りを歩き、攻撃の進行と弾薬の消費について指揮官と協議し、報告後、ちょうどビンドン・ブラッド卿の元を去ったとき、弾丸が足に命中したのである。重症で痛かったが、幸運にも危険な傷ではなかった。

 

キャンプに落ちた弾丸の数の多さからすると、イギリス側の損失は驚くほど少なかった。全報告は以下のとおり:―

 

                イギリス軍将校

  重傷―  ウォードハウス准将

  軽傷―  マン獣医大尉

 

                  イギリス軍兵士

                   死亡    負傷

  女王陛下の連隊・・・・       1     3

 

             現地兵士―負傷       20

             その他―           6

             全兵士中の合計       32

 

騎兵馬と輸送動物の犠牲が最もひどかった。120頭以上が死傷した。

 

ほとんどの場合、敵は仲間の死体を運んで撤退したが、シェルターの壕の外に横たわるおびただしい死体は彼らの攻撃の勇気と活力を証明していた。翌朝、頭の半分を吹き飛ばされた一人の男が見つかった。山砲の散弾の発射によるものだった。彼は砲口、彼が止めたと信じていた砲口、の一ヤード先に横たわっていた。つまり盲目的軽信と狂信の犠牲者は、合理主義と機関砲の連合の力によって幸せに地上を去ったのである。

 

もちろん敵の損失を正確に見積もることは非常に困難だった。しかし、翌日に200人の死体が近くに埋葬されたことが立証され、多くの負傷者がさまざまな村へ運ばれたと報告された。概算において損失は約700人と見積もられた。

 

これで事態は片付いた。ハッダ・ムラーの集団の後ろ盾が崩れ、そのことは急速に広まった。ナワガイのカーンは、政府に対するその揺るぎない忠誠を熱心に主張した。マムンド族は落胆した。翌日、エルズ将軍の率いる旅団が谷に現れた。ビンドン・ブラッド卿は配下の騎兵隊と共に騎行した。二人の将軍はラカライで会った。エルズ将軍はマラカンド野戦軍の第3旅団に補強されてベドマナイ峠を通過し、ハッダ・ムラーの敗北の仕上げをすることが決定された。ビンドン・ブラッド卿と騎兵隊はムマンド渓谷のジェフリーズの部隊に加わり、そこでの事態に対処する。こうしてマラカンドからペシャワルに二個旅団を連れて行くという当初の計画は破棄された/そしてティラ遠征に必要なビンドン・ブラッド卿の部隊は、第3旅団を除いて、ノウシェラ経由で集合地点に向かうことになった。後に分かることだが、この計画は出来事の経過に合わせてさらに修正された。

 

私は21日の朝に第3旅団に再び加わり、夕方には護衛隊に便乗して、谷を越えてエルズ将軍の旅団に会いに行った。モーマンド野戦軍の動員は、Imperial Service Troops(*英印軍に協力するために藩王国が出すことになった軍隊)の初の運用という特徴がある。パティアラのマハラジャとパータブ・シン卿の両者が軍を率いていた。後者は熱病にかかっていて、テントの外に座っていたが、いつものように陽気で立派だった。祝祭行列の壮大なユニフォームで見る者すべての注目を集めた、この華麗なインドの小君主は今や実務的なカーキ色を纏い、連隊長としての勤務において最も良い評判を得ていた。1887年の大辺境戦争は、すべての費やされた人命と金銭にもかかわらず、すべての軍事的、政治的失敗にもかかわらず、少なくとも英国がインドの他の地域を治める基盤を示し、敵と味方を明らかにしたのである。

 

ポロはインドの小君主と英国将校の良好な関係の強化に非常に大きく寄与している、と私は考えざるを得なかった。ポロを帝国の因子と言えば奇妙に聞こえるかもしれない。しかし、そのインド全国大会がハイ・ポリティクス(*国家の生存にかかわる政策)の中で役割を果たしたのは歴史の上で初めてのことではない。ポロはイギリスとインドの紳士が同じ条件で交わった共通の基盤である。そして大いなるお互いへの尊重と尊敬はその競技会に帰されて然るべきである。それに加えて、ポロはインドの下級将校の救いである。若い将校はもう以前のように、昼夜を問わずブランデーをテーブルの「目玉」にしていない。ポニーとポロ・スティックが、その度胸と判断力、落ち着きを高めるゲームをプレイするために、彼らをバンガローと食堂から誘い出したのである。Indian Polityの著者は、英国と現地の将校が通常の年功序列で、同じ立場で一緒に勤務する日が来ると断言している。私がイギリス軍将校について知っていることからして、私自身はそれが可能であるとは信じられない/しかし、もしそれが実現することがあるとすれば、その道はポロ・グラウンドで準備されていたのだろう。

 

第3旅団のキャンプが再び攻撃されることはなかった。部族民は前夜の経験から苦い教訓を学んでいた。しかし暗闇の中には塹壕が並んでいた。そして女王陛下の連隊が占めているキャンプの前面を敵の小隊があちこち動き回っていたと言われていて、非常に優れた一斉射撃が断続的に、一晩中行われた。暗闇から落下弾が少しばかり戻ってきたが、怪我人はなかった。そして軍の大部分は前夜に失った睡眠を補った。

 

翌朝ビンドン・ブラッド卿とそのスタッフ、第11ベンガル槍騎兵隊の三個戦隊はナワガイ峠を通り抜けて、イナヤット・キラでジェフリーズ将軍と合流した。今や第3旅団はマラカンド野戦軍を離れ、エルズ将軍の指揮下に入ったので、この物語の本来の範疇を超えてしまった/しかし完全を期すため、またその驚くべき火砲によってナワガイの戦略的状況を救い、ハッダ・ムラーの信奉者たちに恐るべき損失を与えた見事な連隊について読者はもっと多くをお知りになりたいだろうから、私は彼らのその後の運命を簡単に辿ろうと思う。

 

ウォードハウス将軍が負傷した後、第3旅団の指揮はグレイブス大佐に委ねられた。彼らは9月29日にベドマナイ峠の突破に参加し、続く二日間でミタイ、スラン渓谷の要塞化された村を破壊した/これらの作戦における人命の損失は大きくはなく、全旅団がシャブカドルに到着するまでの犠牲者はたった三名だった。その後女王陛下の連隊はティラ遠征に参加するためにペシャワルに派遣された。そしてその遠征でマラカンド、モーマンド野戦軍で得た名声をさらに高めることになるのである。

 

 

第十四章:マムンド渓谷に戻る

 

   「私は再び、私たちが遊んだ丘、泳いだ小川、

             喧嘩した野原を訪れる。」

                「遠く離れてハローを想う」バイロン

 

図5. バジャウルでの作戦地図

http://uedaeyeclinic.net/wp-content/uploads/2021/09/5.Map-of-the-Operations-in-Bajaur.jpg

 

Dulce Domum(*home sweet home)―再編成―和平交渉―敵対行為の再開―破壊―いくつかの誤解―アグラ村への攻撃―王立西ケント隊―兵士の運命―砲兵隊―死傷者―援軍―10月3日の出来事―第10野戦砲兵隊―戦争を埋め合わせるもの

 

あいまいで漠然とした満足感とともに、マムンド渓谷の入り口にある、イナヤット・キラの塹壕で囲まれたキャンプに私は再び読者を導く。そこでは非常に多くの出来事があり、非常に多くの思い出と経験がそれに結びついている。軍隊がいなくなった今、生活と活動の場は寂しく静かになっている。そこで倒れた将校と兵士の墓は、平野の中で所在が分からなくなっている。しかし、その名はまだ少なからざる英国の家庭で記憶されており、打ち捨てられた塹壕の陣地を見るにつけ、部族民は第2旅団の訪問を簡単には忘れないだろう。

 

15日の午後、キャンプが最初に設営されたとき、小さな急ごしらえのシェルター塹壕だけがキャンプを囲んでいた。しかし、数週間が経過するにつれて、胸壁はより高くなり、溝はより深くなり、穴はより多くなり、場所全体が要塞となった。防御側を側面攻撃から守るため、境界線に沿って防弾壁が構築された。土と石の巨大な壁が馬とラバを守った。キャンプ全体の周囲の五十ヤード外には突撃を挫くための仕掛け線が注意深く敷設されており、入り口に通じる小道と轍は踏み固められて平らな道になっていた。永続性の側面は気休め程度だった。

 

9月16日の戦闘以来、第2旅団は移動できなかった。輸送―軍隊の生命と魂―は、ここより未発達ではない国でそうであるより、さらに重要な要素である。旅団の機動性は荷物を担ぐ動物に完全に依存している。14日に多くのラバが殺された。16日に野戦病院は負傷者で一杯になった。負傷者を運ぶことができないので、キャンプが移動できなくなってしまった。彼らを残して移動することは不可能だった。彼らのための十分な護衛を差し引くと、旅団の残りの人数は戦うには少なくなり過ぎてしまう。したがって、第2旅団は居座っていた。その攻撃力はキャンプからの出撃と帰還の行軍に限定されていた。ビンドン・ブラッド卿がとった最初のステップは、負傷者を基地に送り返すことによる、機動性の回復だった。部隊の構成にもいくつかの変更が加えられた。今やモーマンド野戦軍に合流していた第11ベンガル槍騎兵隊の後をガイド騎兵隊が引き継いだ。非常に深刻な損失を被った第35シーク隊は、パンジコラから来た第31パンジャブ歩兵隊と入れ替わった。皆が発熱していたバフ隊はマラカンドから来た王立西ケント連隊と交代した。その週の戦闘で今や砲が四門に減り、将校の半分、ラバの三分の一、部隊の四分の一を失った第8英国山岳砲兵隊に第7隊が取って代った。

 

負傷者を運ぶためのラクダが、パンジコラから送られた。バフ隊は連絡線を下る長い輸送隊を護衛した。キャンプの誰もが彼らを見るのが最後になることを残念に思った。今週の戦いで、彼らはイギリス歩兵大隊がすべての混成旅団のバックボーンであることを明らかにし、現役において獲得するのが非常に難しく、失うのがとても容易な、羨ましいほどの名声を確かにガイド歩兵隊と共有したのだった。

 

9月24日ビンドン・ブラッド卿は、彼をティラ遠征軍第一師団の指揮官に任命する、というディスパッチを受け取った。またマムンド・ジルガとの交渉が進行中であり、合意に達する可能性がありそうだったので、彼はスタッフとともにパンジコラに赴いた。ここで彼は電信線とつながることによってインドと簡単かつ迅速に通信でき、同時にイナヤット・キラでの事態の進行を見ることができるのである。デイビス氏はマムンド族との外交関係を指揮した。26日、部族のジルガがキャンプに入った。彼らは服従のしるしとして4000ルピーを預け、五十丁の銃器を持って来た。ただし、これらは最も古く、最も時代遅れのタイプであり、そして明らかに非常に多くの兵士を死傷させた武器ではなかった。このことが部族の代表者に突き付けられた。彼らは他に何もないと抗議した。自分たちは貧しい、と彼らは言った。その財産は政府のなすがままである。しかし他の武器は持っていない。

 

政務担当官はきっぱりしていた。その条件は明確だった。16日に第35シーク隊から鹵獲された二十二丁のライフルを引き渡さなければ、村を破壊する。他の条件は受け入れない。これに対して、彼らはライフルを入手しなかったと答えた。それらは皆、クナー渓谷から来たアフガニスタンの部族民に持ち去られた、と彼らは言った。そしてそれは真実だったと私は思う。これらは引き渡せない。それに加えて―これも真実であるが―彼らは「フェアな戦争」に囚われていた。

 

カルカッタに数年間住んでいた一人の男はこの件に関して特に雄弁で、なかなかの技量でこの事件を論じた。しかし、デイビス氏に「部族の中には長老がいなかった」のか、なぜ彼らは「バブ[現地吏員―東洋のお役所仕事の権化]に導かれたのか」(*何を指しているか訳者には不明)と尋ねられて彼は打ちひしがれた。議論は彼らとイギリスの権力との不和の問題全体にまで拡大された。彼らは、マラカンドとチャクダラを攻撃するために若者を送ったことを認めた。「世界はすべてガザ(*イスラム聖戦)に向かっていた」と彼らは言った。自分たちは遅れをとることができなかった。彼らはまた、マルカナイのキャンプを攻撃するために谷から五マイル離れて出かけて行ったことを告白した。なぜサーカーは村を焼き払ったのか?と彼らは尋ねた。自分たちは仕返しをしようとしただけである―自らの名誉のために。これらはすべて政府の観点からすると最も不満足な心的態度を示していた。そして部族がより従順な態度をとるまで旅団が谷を立ち去れないことは明らかだった。問題は重要なポイントに戻った。彼らがライフルを引き渡すかどうか?これに対して彼らは、仲間の部族民に相談して翌日に返答する、と曖昧に答えた。これは事実上の拒否に等しく、27日に返答がなかったため、交渉は終了した。

 

これと、ディリとバジャウル全体の部族民の脅迫的な態度の結果、ビンドン・ブラッド卿はインド政府に電報を送り、この地域において大部隊を維持することを推奨した。これにより、彼はティラ遠征の司令官を事実上辞任した。この私心のない決定は全軍に最も爽快な満足感を与えた。政府は将軍の助言を受け入れた。ティラ軍は再編成され、W.P.シモンズ少将が第一師団の指揮官を引き受けた。ビンドン・ブラッド卿は十一個大隊、七個戦隊、三個砲兵隊を自由に使えることになり、現地の状況に適切に対処するように指示された。彼は直ちにマムンド族に対する懲罰的作戦を再開するようジェフリーズ将軍に命じた。

 

これらの命令に従い、29日に第2旅団は谷の中央にある十二から十四の村をすべて破壊し、三十以上の塔と砦をダイナマイトで爆破した。谷全体が煙で満たされていた。数多くの濃い煙の柱が上を向いて渦を巻き、破壊現場の上空に雲のようにかかっていた。破壊の継続的な爆発音は砲撃に似ていた。軍隊と公然と争うことができない部族民はむっつりと丘の中腹に留まった。そして騎兵隊のパトロールに対する長距離射撃に甘んじた。

 

今は村を燃やすという問題の議論にふさわしい機会と思う。私は独立した公平性をもって英国人と部族民との間の紛争の進展について述べてきた。私は同様の精神によって、採られた攻撃方法の審理に取り掛かろう。イギリスではこの問題について多くの誤解が存在し、そのいくつかは並外れた無知によって引き起こされている。庶民院議員の一人は国務大臣に、村を罰する際に犯罪関係者の家だけを破壊するよう注意したかどうかを尋ねた。細心の注意を払った、という答えが厳かに返ってきた。軍隊がおそらく村へ銃剣を持ち込み、それを激しい反撃に備えて構えており、あらゆる瞬間が命の損失と危険の増大を意味するとき、どれが「犯罪関係者」の、どれが無実の人々の家なのかを慎重に判別して回る光景は十分にばかげている。別のメンバーは、「村が破壊されたのか、要塞だけが破壊されたのか」と尋ねた。「要塞だけである」と大臣は無邪気に答えた。実際はどうだっただろう?アフガニスタン国境近辺では、すべての男の家は彼の城である。村は要塞であり、要塞は村である。すべての家には銃眼があり、塔があるかどうかは単に所有者の財力の問題である。ある三代目の国会議員はその楽しい週刊誌のコラムでこの問題を少しばかりの長さで論じ、そういう戦術の野蛮さについてコメントした。それは野蛮であるだけでなく無意味である、と彼は断言した。村の住民はどこへ行ったのだろうか?もちろん敵の元へ!これはおそらく、事実の最も著しい誤解である。この筆者は部族民が戦闘をする正規軍と、自分の仕事を続け、おそらく過度の軍事費に時々抗議する、平和で法を守る人々で構成されていると想像したのだろう。実際には、この地域全体において全ての住民は石を投げられるようになった最初の日から、引き金を引く力が残っている最後の日まで兵士である。そしておそらくその後、共同体の足手まといとして殺される。

 

私は村を焼くことの正当性の問題を、こうした正確な事実を知った上で、読者が自ら吟味されることをお勧めしたい。インド政府の命令と英国の人々の黙認の下に移動する、英国の旅団のキャンプは夜間に攻撃される。いくらかの貴重で費用のかかっている将校、兵士、輸送動物が殺傷される。襲撃者は丘に退却する。彼らを追いかけてそちらに行くことは不可能である。彼らを捕まえることはできない。彼らを罰することはできない。残る救済策は一つだけである。その財産を破壊しなければならない。[インド辺境とキューバでの村の焼失の影響の対比を少し考えてみると面白いだろう。キューバでは反乱を起こしているのは人口のごく一部であり/残りは共鳴者である。これらの生ぬるいパルチザンを戦闘温度まで加熱するために反乱者は村を破壊し、砂糖を焼く。これによって住民の前に「戦いか飢餓か」の二者択一の選択肢を置くのである。これは住民に、彼らが皆嫌っているスペイン人に対して武器を取らせ、戦野において反乱軍に加わらせるという効果を持っている。このようにキューバでは、政府は財産の保護に尽力し、反政府勢力は財産の破壊に尽力する。ウェイラー将軍が(*反乱者との接触を絶つために)住民をすべて町に集め、あのような(*飢餓と病気による大量死という)痛ましい結果になったのは、動揺する住民の忠誠心を保つためだった。彼の政策は非情だったが根拠のあるものであり、それが強健な軍事作戦を伴っていたなら成功していたかもしれない。]彼らの村はその良い行いのための抵当に入っている。彼らは完全にこのことに気づいている。そしてキャンプや輸送隊を攻撃するときにはコストを考慮し、その価値があると考えたときに攻撃を行う。もちろん、それは戦争の他のすべてと同じく、残酷で野蛮なことである。しかし、哲学的な心は人間の命を奪うことを正当、その財産を破壊することを不当とはしないだろう。いずれにせよ、非戦闘員を苦しめて守備隊の降伏を促すため、パリのような都市の住宅への砲撃を正当化するという戦争の習慣を持つ国は、泥の陋屋を燃やすことを非難できない。

 

公式な用語では村の焼却は通常「非常に多くの村を訪れ、処罰した」または「要塞を取り壊した。」と遠回しに表現される。私はこの回りくどさを全く良いとは思わない。インド政府が示す英国の民主主義の良識に対する自信の欠如は、最も賞賛に値しない特徴のひとつである。エクセター・ホール(*ロンドンで良く政治集会が行われていたホール)だけがイギリスの全てではない/そして私たちの島の人々は健全で現実的な結論に到達するために、問題を自らの前にフェアに提示することを要求するだけである。もしそうでなかったなら、私たちが世界の中で現在の地位を占めることはなかったはずである。

 

図6. 9月30日のアグラ攻撃を説明するラフ・スケッチ

http://uedaeyeclinic.net/wp-content/uploads/2021/09/6.Rough-Sketch-explanining-the-Attack-upon-Agrah30th-September.jpg

 

マムンド渓谷に戻る。平野の村と丘の村の違いが強制的に実証された。29日、平野の一ダースを超える村が一人の命も失うことなく破壊された。しかし30日にはやや話が違った。アグラ村はザガイ村の近隣にあり、ザガイ村の攻略については既に書いた。それは山々の広い凹部にあり、その上の移動は困難で、説明することも不可能なほどに絡み合った凸凹の土地の中に立っていた。大きな岩が山の険しい斜面を翻弄していて、中には高さ三十フィートのものもあった/これらの中に散在しているのは、小屋や作物で覆われた幅の狭い段々畑で、それぞれが十フィートから十二フィートの大きな段になって上へ上へと続いていた。同じ凹部に同時に占領しなければならないガットという別の村が含まれていたことが、そのような場所への攻撃をさらに複雑なものにした。旅団は自らの戦力で可能な幅よりも広い前線で攻撃することを強いられたのである。ガイド騎兵隊が丘に近づいたとき、抵抗が企てられたことは明らかだった。肉眼で何枚かの赤い旗が見え、双眼鏡で尾根と支脈に並ぶおびただしい人影が見えた。戦隊が低木林を可能な限り前進すると、まもなく散開した敵からの発砲があった。数人の騎兵が下馬してカービン銃で返礼した。そして8:45に銃弾の雨が降り始めた。今や旅団は以下の編成で戦闘を開始した。最左翼の騎兵隊は側面を脅かす重要な谷の上端を守った/ガイド歩兵隊と王立西ケント連隊は戦線を攻撃の中心まで延長した/第31パンジャブ歩兵隊は村の右側の支脈に向かって移動した。第38ドグラ隊は温存された。戦闘はガイド歩兵隊が敵の陣地の左側の尾根を強襲することで始まった。ここは固く守られており、胸壁によって要塞化され、その後ろに防御者が隠れていた。ガイド隊は活発なペースで前進し、それほど発砲することもなく、開けた土地を越えて丘のふもとまで進んだ。優れた遮蔽物から撃ってくる部族民は激しい銃火を継続した。弾丸は前後左右でホコリを巻き上げ、あるいは空中でヒューヒューと悪辣な音を立てた/しかしすでに距離は近く、敵が攻撃に耐えるつもりはないことがすぐに明らかになった。部隊が100ヤード以内に近づいて銃剣を装着したとき、十数人の肚を据えた男たちがまだ胸壁から発砲していた。ガイド隊のアフリディとパシュトゥーン中隊は鋭い歓喜の叫びを上げ、ついにはそれを途方もないものにして、前に突進し、丘の民だけが登れる丘を登った。そして頂上を片付けた。隣の丘の斜面には退却する部族民の姿が見られ、遮蔽物を見つける前に多くが撃ち果たされた。

 

彼らが周りの地面に打ち込まれる弾丸をあちらへこちらへと避け、丘の斜面を骨折りながら上っていくのを見るのは奇妙なことだった/しかしその前の十分間の記憶が新鮮だったため、同情心は起こらなかった。かなりの数が倒れ、穏やかに座り込み、静かに横たわった。彼らが倒れるたびに現地兵士たちは奇妙な小さな歓声を上げた。これらのガイド歩兵隊のアフリディとパシュトゥーン中隊と、よく訓練された猟犬の群れに大した違いは見当たらない。彼らの叫び、動き、そしてその性質は似ている。

 

西ケント隊は今やガイド隊の右翼に並んでいた。後者が奪取したその長い尾根を守っている間に、イギリスの連隊は村に移動した。ここで抵抗は非常に厳しくなった。絡み合った凸凹の地面は、時に段々畑が十フィートの高さで立ち上がっていて、丈の高い作物で覆われていた。両陣営に損失を出しながらの接近戦になった。小銃射撃の銃声は巨大で、継続的なものになった。右の支脈を上った第31パンジャブ歩兵隊はすぐに西ケント連隊と手を結び、両連隊は熱く交戦した。その間、中央付近で戦闘していた山岳砲兵隊は(*パンジャブ)歩兵隊の頭上の、敵が射撃してくる高い斜面に破裂弾を撃ち込み始めた。まもなくその任務には兵員が少なすぎることが明らかになった。左翼のガイド歩兵隊は、獲得した小尾根を離れることができなかった。大きな勢力を示しつつあった敵に再奪取されないようにするためである。その結果、ガイド隊と王立西ケント隊の間に隙間ができた。これにより部族民がイギリス連隊の左翼に回り込むことが可能になった。その間に右翼の第31パンジャブ歩兵隊も包囲してくる敵に背後を襲われた。損失のほとんどはこの状況のために起こったものである。

 

イギリスの連隊は村を強行突破し、その上の岩々の間の胸壁に、手強く布陣した敵に遭遇した。ここで彼らは厳しく阻止された。先進中隊はこれらの砦の一つを襲撃した。そして敵はすぐに丘のさらに上へと退却した。約十五人の兵士が砦の中に入った。そして、おそらくそのすぐ下にはさらに三十人がいた。その場所の全体がより高いところから見渡されていた。敵の射撃は正確で強烈だった。

 

中にいた四―五人は、たちまち死傷した。胸壁は紛れもない罠だった。中隊は退却を命じられた。ブラウン・クレイトン中尉は最後まで残って、撤退を見届けていたときに撃たれて死亡した。銃弾は心臓の近くの血管を断ち切った。最後の二―三人の兵士が手を使って岩壁の上を降りていたとき、約三十人のガジが丘を駆け下りて突撃して来た。百五十ヤードの距離に支援のウエスタン少佐の西ケント隊三個中隊がいた。彼はすぐにスタイルズ大尉に胸壁を取り返し、兵士を取り戻すよう命じた。中隊は突撃した。スタイルズ大尉は最初に石壁に到達して、中に残っていた敵をジャクソン中尉とともに排除した。突撃で五―六人の兵士が負傷した。また数人が胸壁の中で倒れた。この中隊の前進陣地はまもなく守りきれないと判断された。そして、彼らは全連隊が激しく交戦している村の縁に戻るよう命じられた。

 

一方、オブライエン大佐の下で右翼を前進した第31パンジャブ歩兵隊は、側面の岩尾根からの激しい銃火に晒された。隊の攻撃は、敵が粘り強く守っていた、そのいくつかは巨大な、大量の丸い岩に向けられた。すぐに接近戦になった。二個先進中隊が100ヤード未満の距離での交戦を余儀なくされた。さらに、右翼からの十字銃火が彼らの困難を追加した。そのような位置で、オブライエン大佐の存在は非常に貴重だった。彼はポイントからポイントへと素早く移動して、銃撃を指揮し、彼に献身する兵士たちの精神を活気づけた。敵の狙撃手がこの目立つ人影を狙い始めるまで長くはかからなかった。かなり長い間、弾丸はその周りのあらゆる地面を打ったが、彼は無傷だった。しかし、ついには胴体を撃たれ、致命傷を負って彼は戦いの場から運び去られた。

 

軍事キャリアの追求における、他のすべてのそれとは異なる事情と環境を考察するため、ここで少し立ち止ろうと思う。政治生活、芸術、工学において、才能があり、知恵をもって行動する人物は、世の中での地位を着実に向上させるだろう。間違いを犯すことがなければ、おそらく成功を収めるだろう。しかし、兵士は外部の影響により大きく依存している。彼が他人より出世するための唯一の方法は、頻繁な戦闘でその命を危険に晒すことである。彼のすべての財産、それが何であれ、世界におけるそのすべての地位と重み、そのすべての蓄積された資本は、彼が作戦に加わるたびに新たに賭け直されなければならない。彼は二十回の実戦を経験し、勲章やメダルをたくさん身につけているかも知れない。昇進中の兵士として注目されているかも知れない。しかし砲火を浴びるたび、彼が殺される可能性はまだ運が使われたことのない最年少の下士官と同じか、おそらくそれよりも大きいのである。実験に力を注ぎ、大きな誤算をした政治家はまた運を取り戻すかもしれない。しかし無差別の弾丸はすべてを解決する。詩人が幾分冷酷に言っているように:―

死んでしまったら、もう良いことはない。(*Stone―dead hath no better.正確にはStone―dead hath no fellows.か。)

 

オブライエン大佐はまだ若いのに、特別に大隊の指揮官に選ばれていた。彼は何度かの遠征を行った。すでに彼は下級兵士の骨折り仕事を経験済みで、軍職のより大きな褒賞のすべてが視野に入っていた:そして、その連隊長である大佐としての戦闘中の死は、兵士が望み得る最高の終わり方ではある。しかし国家により大きな価値をもたらしていたかもしれないという点において、名誉あるキャリアの突然の終了を記録するのは悲しいことである。

 

今や全戦線で敵の圧力が非常に強くなった。准将は軍隊が深刻に巻き込まれることを恐れて、撤退の開始を命令した。しかし村は燃えていて、敵も接近戦にひどく苦しんでいたため、いつもの元気で追撃して来ることはなかった。砲兵隊は敵の横隊から600ヤード以内まで前進し、退却路を見渡す支脈を片付けるため、榴散弾の速射を開始した。今や丘を去って砲の前にいた西ケント連隊の頭上で砲弾は叫び声を上げ、尾根の稜線で爆発して小さな白い煙のパフになった。それに含まれていた数百の散弾が地面を引き裂いて濃いホコリの雲を巻き上げたのである。

 

戦線から途切れることのないドーリーと担架の流れが始まった。利用可能なすべての運搬器具はたちまち使い果たされた。そして負傷者の身体は荒れた地面の上を仲間の手で運ばれなければならなかった―多くのうめき声を絞り取る、大変痛々しい作業だった。やがて撤退は完了し、旅団はキャンプに戻った。後方を守っていた騎兵隊の存在は敵が丘から離れることを阻止していた。

 

戻ると、恐ろしい光景を見ることになった。ドーリーと担架の列の先頭には殺された兵たちの遺体があり、それぞれが縄でラバに縛りつけられていた。頭が片側にぶら下がり、足が反対側にぶら下がっていた。地面に滑り落ち、引きずられてホコリと血にまみれたシーク兵の長い黒髪は、その姿を見るも恐ろしいものにしていた。しかし他の方法はなかった。そして彼らの遺体を置き去りにして、私たちと戦っていた野蛮人たちに辱められ、汚されるよりはましだった。キャンプの入り口には負傷者を待つ―袖をまくり上げた―外科医の大きなグループが待っていた。防水シートで薬箱を覆った二台の手術台も用意された。カーキよりも茶色い(*陰鬱な)戦争の一面がある。

 

アグラへの攻撃の犠牲者は以下の通り:―

 

               イギリス軍将校

死亡―    J.L.オブライエン中佐    第31パンジャブ歩兵隊

       W.C.ブラウン・クレイトン2等中尉   王立西ケント隊

重傷―    H.イサケ中尉    王立西ケント隊

       E.B.ピーコック中尉   第31パンジャブ歩兵隊

軽傷―    W.G.B.ウエスタン少佐   王立西ケント隊

       R.C.スタイルズ大尉   王立西ケント隊

       N.H.S.ロウ大尉    王立西ケント隊

       F.A.ジャクソン2等中尉   王立西ケント隊

 

               イギリス軍兵士

                   死亡      負傷

  王立西ケント隊・・・・       3      20

 

                現地兵士

                   死亡      負傷

  ガイド騎兵隊・・・・        0       4

  第31パンジャブ歩兵隊・・・・   7      15

  第38ドグラ隊・・・・       0       4

 

               総犠牲者数   61

 

ビンドン・ブラッド卿はパンジコラのキャンプで30日の激しい戦闘のニュースを受信するとすぐに、援軍を連れてイナヤット・キラに行くことを決めた。[9月30日の戦闘の後、オブライエン中佐に代わって第45シーク隊のマクレー中佐が第31パンジャブ歩兵隊の指揮官に格上げされた。そこでもう一つの空席を埋めるための一時的な措置として私(*チャーチル)が配属されることになった。私はこれがイギリス軍騎兵隊将校の、現地歩兵連隊への初めての配属だったと思っている。私は親切に礼儀正しく扱ってもらったので、これが最後にならないことを願うばかりである。]彼は第8山岳砲兵隊/第24パンジャブ歩兵隊の一翼/ガイド騎兵隊の二個中隊を連れて10月2日に到着した/またハイランド軽歩兵隊と第10野戦砲兵隊の四門の砲にすぐに後に続くよう命じた。彼はアグラに新たな攻撃を行い、部分的な破壊に終わったガット村を焼き払う決心をしていた。そしてこの攻撃は5日に設定された。その日までに野戦砲兵隊の大きな十二ポンド砲が到着し、十四門の砲が敵の陣地に集中することになった。全員が部族民との間の問題をいかなる代償を払っても終わらせることを切望していた。

 

3日、軍隊はバデライの村を奪取して焼き払うように命じられた。覚えておられるかもしれないが、バフ隊は16日にそこへ向かったのち、第35シーク隊を支援するために急いで呼び戻されたのである。村の攻撃と破壊には新たな特徴はなかった/部族民はほとんど抵抗せず、軍隊の前から退却した。しかし旅団が帰還を開始するとすぐ、彼らはそれまで見られていたよりもはるかに大人数で現れた。騎兵隊はヌラーと荒れた地面の間では機能しなかったため、敵は大胆に平野まで進んで来た。彼らは四マイル近い大きな三日月形になって、撤退する軍隊を追いかけた。活発な小競り合いが約800ヤードの幅で始まった。両砲兵隊が戦闘を開始し、それぞれ約90発の破裂弾を発射した。王立西ケント連隊はリー・メトフォード・ライフルで良い射撃を行った。旅団の大隊がすべて交戦していた。3000人を超える戦力だったと推定される敵は、重い損失を被って、部隊がキャンプに戻った2:30に撤退した。ビンドン・ブラッド卿とそのスタッフは作戦をじっと見守り、谷を偵察した。死傷者は以下の通り:―

 

  王立西ケント隊―      負傷1

  ガイド騎兵隊―       負傷2

  第31パンジャブ歩兵隊―  死亡1/  負傷5

  ガイド歩兵隊―       負傷3

  第38ドグラ隊―      死亡1/  負傷3

             総犠牲者数     16

 

翌日ハイランド軽歩兵隊と野戦砲が到着した。前者は700人以上の大戦力で行軍した。そして見た目も素晴らしかった。それは旅団の各大隊のほぼ二倍の人数だった。病気と戦争はたちまち戦力を低下させる。砲は困難な、道のない土地を乗り越えるという大きな偉業を成し遂げていた。砲兵たちは自ら通路を作らなければならなかった。そして多くの場所で砲は手で引っ張られていた。第10野戦砲兵隊はこうして丘陵地帯を、他の車輪交通の六十マイル先まで進んだのである。彼らは到着すると大変な歓迎を受けた。キャンプの全員が外へ出て、よく磨かれた長い筒を見て満足した。山砲は七ポンド弾だったが、これは十二ポンド弾を千ヤード飛ばすことができるのである。しかし彼らがその力を示すことはなかった。マムンド族は再び和平を懇願してきた。彼らは闘争に疲れていた。彼らの谷は荒れ果てていた。秋の作物の種をまく季節が近づいていた。援軍の到着は政府が協定を結ぶ決心をしたことを彼らに確信させた。ディーン少佐は交渉の指揮を再開した。その間、すべての重要な作戦は中断されたが、採餌と「狙撃」は通常どおり継続されていた。

 

今やこの軍勢は二個旅団を編成するのに十分な大きさだった。そしてメイクレジョン准将が到着すると、次のように再編成された:―

 

                  第1旅団

指揮―メイクレジョン准将 C.B. C.M.G.

            ハイランド軽歩兵隊

            第31パンジャブ歩兵隊

            第24パンジャブ歩兵隊から四個中隊

            第10野戦砲兵隊

            第7英国山岳砲兵隊

 

                  第2旅団

  指揮―ジェフリーズ准将、C.B.

                 王立西ケント隊

                 第38ドグラ隊

                 ガイド歩兵隊

                 第8山岳砲兵隊

                 ガイド騎兵隊

 

キャンプは大幅に拡張され、土地の広い範囲に及んでいた。夕方にはメインストリートは活気に満ちた様相を呈した。日が沈む前に、明るい色の戦闘帽で識別される、さまざまな連隊の将校はスコットランド歩兵隊のパイプを聞くために集まるか、その日の出来事について話し合ったり、翌日の成算について推測したりする。谷の澄んだ空気が夜の影によって暗くなり、丘が均一に黒く色あせると、グループはさまざまな会食テントの辺りに集まって、ベルモット、タバコ、会話で夕食と「狙撃」が始まる前の楽しい半時間を過ごした。

 

現役の軍隊とともに行動する幸運に恵まれなかった読者のために、私は力の及ぶ範囲で、戦争の苦労の埋め合わせになるものの、いくらかの公平な評価をお伝えしたいと思う。健康な、野外の生活、生き生きとした出来事、興奮の実現のみならず期待、寛大で陽気な友情、全員に開かれている栄誉の機会は、人生により鋭い興趣と希少な喜びを与える。現在の不確実性と重大性は、過去と未来を比較的些細なこととし、心から小さな心配事を取り除く。そしてすべてが終わったとき、思い出が残る。それが貴重なものにならない人物はいない。困難に関しては、厳しくても耐えられるだろう。死の向こう側を見ようと努力した禁欲主義者と隠遁者はいっそう悪いことを耐え忍んだのである。名声を追い求め、戦争の楽しみに恵まれている兵士は桶の中のディオゲネスやトラピスト会の修道士よりも大きな不愉快に晒されることはない。これら全てに加えて、彼が来世について学ぶ機会は限りなく大きい。しかし、そのように言葉を尽くしたとしても、私たちは物悲しくも頑固な事実に直面する。この逆の人生では人の心はとても退屈になり、その魂は物質的になり、その精神は貧しくなるのだが、六ヶ月間現役で働いた者の中には、再び安全な家に帰ること、平和の心地よい単調さを喜ばない者はいない。

 

 

第十五章:騎兵の仕事

 

交渉の進展―騎兵隊の小競り合い(10月6日)―遠征全体を通しての騎兵の仕事―イギリス騎兵隊の怠慢―王立西ケント隊の出発―イギリス歩兵の健康―ジャー、10月9日―「狙撃」―典型的な夜―パンジコラ川を渡る

 

今回のマムンド族との交渉はより好都合な状況下で開かれた。大規模な援軍が到着したことによって、部族民は政府が本気であることを確信した。准将と区別するため彼らが「大将軍」と呼んだビンドン・ブラッド卿の帰還は彼らが頑強に抵抗する場合、直ちに新たな作戦が行われるという事実を印象づけた。まだ焼かれていない村がいくつかあったため、彼らはそれを救うことを切望していた。また彼らはその力をはっきりと知らない長いトペ(*現地の言葉で大砲)、すなわち野戦砲の外観を嫌っていた。そこで彼らははるかに謙虚な心的態度を示した。

 

他方、軍の全員はマムンド渓谷から抜け出すには「半ペンスよりも多くのキック(*more kicks than ha'pence猿回しの猿のしつけ方)」であることに気付いていた。平野のすべての村は破壊されていた。丘のくぼみにほんのわずかの村が残っていた。敵はそこに退却していた。Arrian's History of Alexander's Conquestsにはこうある。「バジラ[バジラはバジャウルに同じ]の男たちは自分たちの事態に絶望し、街を捨て、他の野蛮人と同じように岩場に逃げた。すべての住民は都市を捨て、彼らの土地にある岩場に飛ぶように走っていった。」アレクサンドロスの困難が始まったのはその時だった。歴史家は次のように重々しく断言する。「この土地の岩は途方もないものであり、ゼウスの息子ヘラクレスでも攻略できない。」歴史は繰り返し、バジャウルの人々は戦術を繰り返した。旅団が思いのままに村を奪取し焼却する能力については疑いの余地はない。同時に、彼らが後を引き継ぐアフガニスタンの部族民やアミール軍の正規兵に遭遇するだろうこと、その作戦で将校と兵士を失うだろうことも確かだった。この問題はどんな代価を支払っても終わりにしなければならなかった。早ければ早いほど良かった。

 

しかし和平の兆しにもかかわらず採餌隊は常に銃撃を受けており、これは騎兵隊の価値を示すいくらかの機会を与えた。私はこの機会に作戦中の騎兵科の実績を振り返ってみたいと思う。旅団がバジャウルに入るとすぐ、第11ベンガル槍騎兵隊は騎兵の正統の任務である偵察にどんどん利用された。ビートソン少佐は毎日、情報が必要とされるさまざまな渓谷と峠への遠征を行なった。この騎兵隊の使用法は辺境ではまったく新しいものだった。彼らをこのように使用することは危険と考えられていたのである。騎手は有利に戦いつづけるためには良い地面を必要とするが、どれほど荒れた土地、大胆な使い方をされる土地でも容易に移動することができ、必要なだけ情報を集めることができるのである。

 

辺境での騎兵の使用機会は偵察だけではない。彼らは情報収集に役立つため、攻撃的戦術において恐るべき存在である。

 

山岳戦闘において通常彼らの任務は一方の側面を守ることである。山岳地帯ではいかなる形の(*騎兵)突撃も滅多に可能ではなく、兵士はカービン銃を使用する必要がある。9月30日(*アグラ村の破壊)、騎兵隊はそのように使用された。敵陣の左側には一面に低木が生い茂った広い谷と石壁があり、多数の敵が陣取っていた。この部族民が谷から出てくることができたなら、旅団の側面が襲われ、危険な状態になっていただろう。五時間にわたって敵を食い止めるためにはガイド騎兵隊の弱い二個戦隊で十分だった。

 

彼らが採用した方法は注目に値する。六―七人の兵士の小さなグループが下馬し、カービン銃で敵の銃火に応射した。他の騎乗した兵士の小さなグループがヌラーや窪み、または障害物の後ろに隠れていた。敵が下馬したパーティーの一つに突撃しようと荒れた地面を前進しようとするたびに、騎乗した哨戒隊が全速力で前進して追い払った。部族民の騎兵隊に対するこの恐怖は、彼らの常の性質とは対照的である。これはこの種の戦争における騎兵隊戦術の鮮やかな発揮だった。これによって膨大な数の敵が主要な戦闘への参加を妨げられたことを考慮するなら、騎兵科の力と価値が説得力を持って証明されたことになる。

 

10月6日、小規模ではあるが非常によく似た任務を私は目撃した。戦隊は採餌隊の活動の保護に従事していた。哨戒横隊は急速に動き回るため敵の狙撃手とっては難しい目標だった。戦隊の残りは下馬して大きな石堤の後ろにいることに私は気がついた。カービン銃を持った二十人のスワールが、約300ヤード離れたモルチャ―小さな石の砦―を占領している敵と交戦していた。散漫な小競り合いがしばらく続き、半マイル離れた丘からもモルチャからのものと同様の銃撃があった。弾丸は堤の近くに落ち続けたが、石堤の遮蔽効果は良好で、負傷者はいなかった。ようやく採餌が終了し、戦隊が歩兵隊の援護の下へと撤退する、という知らせがもたらされた。今や興奮の瞬間が来た。指揮官は部下が騎乗した瞬間、敵が保持するあらゆる地点から銃撃されることをよく知っていた。彼は最初の部隊に騎乗を命じ、二番目の部隊に撤退の援護を命じた。兵士らは我先に鞍に乗り込み、展開して短縮駈歩で約300ヤード先のくぼみへと伸びる線となった。たちまち銃撃が起こった。騎兵たちの近くにホコリが噴き上がり、その耳元を弾丸がヒューという音を立てて飛んで行った。しかし誰にも命中しなかった。その間、残った部隊は彼らの撤退を援護するために敵に速射を続けていた。そして彼らが行く番になった。最後の一斉射撃の後、兵士らは馬に駆け寄り、騎乗して、先の隊を―彼らがそうしたように長い線状に伸びて―収縮駈歩で追いかけた。再び敵が撃ってきた。再び地面のホコリは弾丸が良く狙いをつけられていることを示していた。しかし再び負傷者はなかった。そしてスワールはくぼみに到達し、笑い、上機嫌で語り合った。それでもやはり戦隊は朝の小競り合いで一人の兵士と一頭の馬がともに重傷、という損失を被っていた。

 

第2旅団がイナヤット・キラのキャンプにいる間、このような出来事がほぼ毎日発生していた。これは兵士を訓練する上で最大の価値を持っていた。ガイド騎兵隊は辺境戦争について知るべきことをすべて知っている。しかし、他の多くの連隊もそのような経験の機会に恵まれるなら、ずっと強力な戦闘組織になることだろう。

 

1987年のインド辺境戦争が示した大きな特徴は、騎兵隊の並外れた価値である。シャブカドルでの第13ベンガル槍騎兵隊の突撃は成功以上のものだった。スワット渓谷では、チャクダラの救援においてガイド騎兵隊と第11ベンガル槍騎兵隊が敵に最も恐るべき損失を与えた。ビンドン・ブラッド卿の公式報告書の副官への言葉を引用するなら、これらの連隊は「復讐に燃えて、追跡し、あらゆる方面で彼らを槍で切り刻んで突き刺し、その死体を戦野に厚くばら撒いた。」ランダカイの戦闘の後、騎兵隊は再び最も精力的に追撃を行い、多数の敵を殺した。私はマラカンド野戦軍にいる間、騎兵隊が絶え間なく使用されているのを目撃したが、将官からはより多くの数を自由に使えるとうれしい、と何度か言われた。読者は本書が記録した、騎兵の仕事の数多い事例のいくつかを思い出されるかもしれない。。9月15日の朝、騎兵隊は敵が丘に到達する前に追いついて、前夜の損失(*マルカナイ)の復讐をすることができた。16日の戦闘で、コール大尉の戦隊の突撃は敵の全体攻撃を停止させ、歩兵隊が自らの銃火で部族民の躊躇を退却に転じさせることを可能にした。実際、マムンド渓谷のあらゆる戦いにおいて騎兵隊が最初に入り、最後に出たのである。ビンドン・ブラッド卿は公式ディスパッチで騎兵隊の仕事についてこのように言及している:―「今、私は騎兵隊が提供した軍務のかけがえのない性質に注意を喚起したいと思う。ナワガイでは、第11ベンガル槍騎兵隊の三個戦隊が地域を席巻した。騎兵隊が行ける場所であれば、どこへでも偵察を行い、信号隊を保護し、敵のすべての動きを監視したのである。マムンド渓谷において同じ連隊のE.H.コール大尉指揮下の一個戦隊は、彼らがそこにいる間に起こったすべての戦闘に参加した。そしてたとえ敵が数ではるかに勝っていたとしても、あえて広い場所で彼らに立ち向かうことは決してない、という評判を確立した。コール大尉と部下たちがマムンド渓谷を離れた後、アダムズ中佐指揮下の、より戦力を増したガイド騎兵隊は、顕著な勇敢さと結びついた高次の戦術的技量を示し、同じ方法でいっそう効果的に行動した。」―公式ディスパッチ、1897年12月3日、インドの官報から。

 

騎兵隊のブームがあった。しかし一つの部分、そして最も重要な部分は、その幸運の分け前を拒まれてきた。当局はイギリスの騎兵隊の辺境での勤務をずっと拒んできたのである。もちろん、これは費用を根拠として弁護される。「イギリスの騎兵隊は非常に金がかかる、」そして「現地兵も同じように仕事ができる。」と言われる。「より良くできる。」と言う人もいる。しかしそれは軍務の最も高価で重要な部門に水を差す、貧しい種類の倹約である。軍に入った若い将校が自分の前に置くべき野心は、戦闘において部下を率いることである。これが彼の生気を鼓舞し、その奮闘を励ますのである。いつか自分の命と名誉が馬の良し悪しに左右されるかも知れないことに思い至ったとき、「馬小屋(*Stables、stableには変化がない、という意味もある)」もはやつまらなくなくなる。彼が間もなくピンチの時に部下に自分の隣に立つことを命じるかもしれないと思うなら、もはや彼らの利害や用事は退屈ではなくなる。しかしすべては虚しい展示物であって、その連隊は抜くには高価すぎる剣であることに気づいたなら、彼は自然に熱意を失い、気休めにポロに行くようになるかも知れない。それも良いものだが。

 

騎兵隊と歩兵隊の両方の辺境連隊で、多くの若い兵士に出会えたことは私の幸運だった。彼らはすでに三年、あるいは四年も服務していた。大胆で、知的で有能な彼らは、その訓練の価値を証明しており、どんな条件下でも、どんな国でもその部下を率いるにふさわしい。イギリスの騎兵連隊の下士官は、輸送将校、信号将校、戦争特派員、またはスタッフ(*参謀など)の現役の軍務を折りに触れて少し経験することができる/しかし平時に訓練を受けた人物が戦野で兵士を率いる可能性は決して熟慮に値しない。楽しみたい、軍の仲間付き合いで数年間を愉快に過ごしたい、仕事を持ちたい、と思っている若い人にはイギリスの騎兵隊が向いている。しかしプロフェッショナルな兵士になりたい、戦争のエキスパートになりたい、実践的戦略の専門家になりたい、ハードな冒険の日々と戦場での真実の友情を求める若者には、私が見たガイド隊や第11ベンガル騎兵隊のようなすばらしい辺境連隊の選択をお勧めする。

 

私は物事の既存の状態を批判する人々は、彼らが非難する弊害を是正する建設的な法律を準備しているべきであると理解している。インド政府が全面的あるいは部分的に私の助言を容れることはまずないが、ここで私は彼らに愚かな「安物買い」政策をやめ、インドでイギリスおよび現地人の軍隊を使用する場合の正規の比率の原則を順守するよう強く勧告する。すなわち、二個現地騎兵連隊が辺境任務に派遣されているとき、三個目はイギリス軍の騎兵連隊であるべきである。

 

これに加えて騎兵隊将校に可能な限り多くの現役の軍務を経験する機会を与えるため、下士官が現地騎兵隊の緊急雇用に志願することを許可するべきである。私は現地騎兵連隊を指揮する数人の将校と話をしたが、将校は常に不足しているのでそうした取り決めはうまく機能して必要を満たすであろう、とのことだった。下士官は大佐の承認を得て現地連隊に所属し、ヒンドゥスタンで過ごし、現地軍に勤務する資格があると報告されたなら雇用可能とされるべきである、と私は再び指摘する。財政的に難しいと言われるだろう。私はこれを信じない。政府の強欲さがいかなる協定を課そうとも服従するほど、軍務の経験に強い意欲を持っている騎兵下士官が大勢いる。本当のところ、実際の経済に影響してはならない理由はない。インド政府がヒンドゥスタン語を話す将校への報奨として提供してきた金額は、これまで多くの騎兵将校を言語の学習へ誘導してこなかった。ここにはより強力で費用が一切かからない動機がある。

 

専門的になるのは重い罪であることを私は知っている。もしこの本が悪評を得るのなら、庶民院の軍事の夕べが疎まれるのと同じように疎まれるのだろうと考えている。私はマラカンド野戦軍から遠く離れて軍事的論争のややこしい小道に迷い込んでしまったようである。何を書いていたかを忘れさせてしまっただろうことを読者にはお許しいただきたい。

 

前章で説明した戦闘と継続的な疾病の発生によって再び野戦病院は満床になった。軍隊の機動性を維持するため、すべての病人と負傷者は直ちに基地に送られることになった。陸路で100マイルを超える―旅は二週間近くを要し、揺れと暑さがその経験を負傷者にとって辛く、うんざりするようなものにした。しかし戦争の厳しい窮乏はこれらのことを不可避なものにする。そして家に近づきたいという兵士の願いはその苦しみの多くを和らげる。病人と負傷者の護送隊は、自らもいくらかの療養を必要としていた王立ケント隊によって、パンジコラ川まで護衛されることになっていた。インドにおいてテントなしで遠征を行うことは常に英国の連隊にとっては試練である/そしてそれがペシャワル、デリー、ミアン・ミア(*現ラホール)などの不健康な基地から前線に送られ、兵士が熱に飽和され、夏の暑さに衰弱した時、病人のリストは長く深刻なものになる。地表の水を飲むことによる腸チフス、および日中の暑さや夜間の寒さへの暴露の結果としての、その他のさまざまな種類の熱病はたちまち百人分の戦力を奪ってしまう。インド辺境軍の将軍は敵の動きと同じく、病院報告書の変動に注意を払わなければならない。従ってビンドン・ブラッド卿がマムンド族は和平を望んでおり、それに対するさらなる作戦はおそらくないだろうと見たとき、彼はすぐさま配下のイギリスの一個連隊をパンジコラ近くのテントに送ったのである。

 

9月30日と10月3日の戦闘で負傷した約六十人の兵士と、同数の病人が護送団の大部分をなしていた。軽傷者はラクダで運ばれた。現地のベッド台を二つに切って作った「カジャワ」と呼ばれる揺りかご状の架台に乗るのである。より重傷な者は白いカーテンで太陽から守られ、四人の現地人によってドーリーまたは担架で運ばれた。ラバに乗れる者は乗った。歩兵隊の護衛は考え得る限りの予防策を取りながら、列に沿って配置されている。しかし、扱いにくい荒れた路面における、ドーリーと動物のまとまりのない長い列への攻撃の危険は、非常に現実的で恐ろしいものである。

 

負傷した兵士たちの陽気さと辛抱強さは信じがたいほどである。おそらくそれは、間近で死に立ち向かったことによって彼らが会得したものであろう/おそらく部分的には、安堵感が人の心をしばし戦争から平和へと(*争いから平安へと)逸らせるためだろう。いずれにせよ、それは驚くべきことである。ある気の毒な仲間―バフ隊の兵卒―はザガイで撃たれ、腕を肩のところで切断された。私が同情を表明すると、彼は哲学的に「卵を割らなければオムレツを作ることはできない」と答えた。そして一呼吸おいた後、とても満足げにつけ加えた。「あの日連隊はうまくやった。」彼は兵士の家系だったが、私は彼を待ち受けているであろう未来について沈思せずにはいられなかった。医学的な不適格性ゆえの軍からの解雇、飲酒以外の楽しみを見つけることが叶わない不十分な恩給、浮浪者の生活、貧困者の墓。おそらく連隊―すなわち将校―は、彼を働かせることに成功したのでその資産から彼の年金に追加をするだろう。しかし、世界で最も裕福な国が、それに良く貢献した兵士を顧みず、国が誇り高く担うべき責務を新聞の慈善活動、地元の機関、そして民間の慈善団体に託すというのは、なんという邪悪で恥ずべきシステムであろうか。

 

縦隊は六時に出発し、八マイル行進して十時頃にジャーに到着した。ここで王立西ケント隊を救援するために来ていた第24パンジャブ歩兵隊の一翼が加わった。ジャーのキャンプは北の丘から見渡されているという不利な点がある。そしてその名前を聞くのも苦痛な別の厄介な部族、サラルザイ族は夜間に軍隊に発砲して勇気を見せびらかすことを楽しんでいる。もちろんこの丘からの射程外にキャンプを移動することでそれを防ぐことができる。しかし残念なことに、そうしたとしても南にある別の丘から見渡されることになり、そこからウトマン・ケル族のシャモザイ支族―それについても私が先に述べたことが当てはまる―が同様のことを楽しむことになる。それゆえ不自由な事態に直面せざるを得なかった。

 

作戦中比較的忠実だったジャーのカーンの長男が、その夜「狙撃」があることを指揮官である大佐に知らせに来たのは私たちがキャンプに着いて間もない頃だった。ある邪悪な男たちが部隊を滅ぼす意思を宣言したが、ジャーのカーン位の相続人であり、女帝の味方である自分は私たちを守るつもりである、と彼は言った。私たちの眠りが妨げられないように、彼自身の常備兵の中から四人の見張りを立ててキャンプを監視させる。歩哨に誰何されたときには「チョキダール」(夜警)と答えるようする。これらはすべて非常に満足なものと思われた。しかし私たちはいつものように周りに塹壕を掘った。保護者の力や性向を疑ったためではない。すでに説明したようにそれは単なる形式の問題である。

 

ちょうど夜の十二時、キャンプは連続した十数発の速射によって起こされた。カーンの見張りたちが敵を諫めるのが聞こえ、敵は嘲りと敵意に満ちた言葉で答えた。

 

発砲は一時間続き、「狙撃手」は自尊心を満足させて、感情を和らげ、弾薬筒を消費して喜んで去って行った。軍全体は沈黙を保ち、応射を授けたりはしなかった。

 

動物と兵士で込み合った100ヤード四方のキャンプに五十発の弾丸を打ち込んで、一頭のラバの尻尾を撃つ以上の結果が得られなかった、というのは信じがたいことかもしれない。しかし、それは事実だった。これは少しであっても現役の軍務が兵士にとっていかに価値があるかということを示している。初めて砲火を浴びたとき、彼は自分が大きな危険にさらされていると想像する。すべての弾丸が自分に当たろうとしており、すべての射撃が自分に向けられていると考える。確かに彼はたちまち殺されるだろう。この試練を一度か二度経験したなら、彼はその利益のオッズについて何らかの考えを持つようになる。多くの弾丸の音を聞いたが、それは自分を傷つけなかった。昨日のように今夕も無事に帰ってお茶を飲むことだろう。彼はより一層非常に強力な戦闘機械になる。

 

軍事的観点から見れば、帝国の一、二か所で永続的な辺境戦争があることには最大の価値がある。この事実はいつか、私たちの兵士が平時に訓練された同数の徴集兵と対峙した時に証明されるかもしれない。

 

発砲は―ほとんどの者が何度も経験していたので―軍隊にほとんど影響を与えなかったが、負傷者にとってそれは厳しい試練だった。彼らの神経は痛みと衰弱でくたくたに疲れていて、緊張に耐えることができなかった。担当外科医―タイレル少佐―は、哀れな仲間たちは銃声がある度に撃たれることを予感して震えている、と言っていた。脚への弾丸は勇敢な兵士を臆病者にしてしまう。頭への打撃は賢者を愚者にする。実際、私は十分な量のアブサンは善良な人間を悪党にできると読んだことがある。物質に対する精神の勝利はまだ完全ではないようである。

 

射撃が行われている間に奇妙なものを見た。それは動物の習性と発達に興味を持つ人にとっては面白いかもしれない。私のテントのすぐ前には広い空きスペースがあって、山羊と羊の群れが占有していた。月が輝いていたため、すべてがはっきり見えた。弾丸がその上で口笛を吹くか、近くの地面を撃つたびに、彼らは明らかに恐怖で身をかがめ、上下に揺れた。これに気づいた将校は彼らが銃火を潜るのは初めてだと言っていた/これは恐怖心で説明できるものなのか、それとも説明し難いものなのか、私はそれからずっと疑問に思っている。

 

10月9日夜のジャーの「狙撃」の記述にこの章のかなりの部分を割いた。そして評論家はなぜそのようなありふれた出来事について多くを書かねばならなかったのかと尋ねるだろう。しかしこの夜間射撃はそれについて何らかの記述がなければインド辺境戦争の描写として完全とは言えないほどの、非常に一般的な特色であると私は思っている。

 

翌日私たちはパンジコラ川を渡った。私は騎馬でノウシェラ基地への連絡線を出発した。それぞれの段階において何らかの文明と平和の利器が再び出現した。パンジコラでは電信線/サライでは新鮮なジャガイモ/チャクダラでは氷/マラカンドでは快適なベッド/そしてついにノウシェラで鉄道に到達した。しかし、これらは結局のところ重要ではない。それは手元にあるときには不可欠のように見えるが、なくても少しも困ることはない。人生に必要なのは少量の普通の食物と、哲学的気質だけである。

 

私は読者を戦闘の場から遠ざけない。読者は自由であり、その想像力によって高地の谷に引き返し、そこでキャンプと兵士の間に居続けてドラマの結末を見届けることができる。

 

 

第十六章:降伏

 

   「彼らの目は落ちくぼみ、疲れ果てていた、

      その目は無気力な悲哀とともに

    荒れ果てた鷲の巣から

      眼下の平原を眺めていた。

   「二人はサーベルで、

      そして一人はエンフィールド銃で傷を負っていた。」

 「ラージプート(*ラジャスタンのクシャトリア)の反逆者」ライアル

 

マムンド族との交渉―小銃の提出―ダルバー―政務担当官―イナヤット・キラの最後―マタシャ―サラルザイの降伏―シーク教徒とパシュトゥーン人:比較―マラカンドへの帰還

 

ついにマムンド族との交渉は結論に達し始めた。彼らは心から和平を望んでいた。そして旅団を谷から去らせるためなら、どんな犠牲でも払う用意をしていた。今やカルのカーンの手助けの価値が証明された。彼は一貫して彼らにサーカーとの和解を促した。そしてライフルが返却されるまでは軍隊が立ち去らないことを確信させた。ついにマムンド族はライフルを集めると言った。しかし、悔い改めの道は茨の道だった。部族民がいかなる代価を払ってでも和平することを決定したまさにその夜、山の向こうのクナール渓谷から戦いに飽き足りない千人の好戦的なアフガニスタン人が到着し、すぐにキャンプを攻撃する意思を発表した。マムンド族は彼らを思いとどまらせた。カルのカーンの郎党たちは彼らに無分別なことをしないよう懇願した。最終的にこの歓迎されない盟友は立ち去るよう説得された。しかしその夜キャンプに攻撃があるかもしれない、という警告があった。そこで予備歩哨は二倍にされ、すべての兵士は準備良く服を着たまま寝た。マムンド族が私たちを敵から守っていたという事実は、状況に悲哀をもたらした。哀れな部族は新たな交戦に直面しないよう、「狙撃手」やその他の襲撃者を追い払うための見張りをキャンプの周りに配置した。彼らの誠意には疑いの余地がなかった。

 

翌日ライフルの最初の一回分が引き渡された。16日に第35シーク隊から奪われた十五丁のマルティニ・ヘンリーがカルのカーンの部下によってキャンプに運び込まれ、将軍のテントの前に置かれた。そのほとんどすべてが剣で滅多斬りにされていて、所有者のシーク隊員が最後まで戦って死んだことを示していた。おそらく、これらは過去に作られたいかなる銃器よりも血と財貨のコストが高かっただろう。残りの二十一丁は後で、と約束され、その後全て引き渡された。しかし、彼らが地面に横たえたライフルは、「フォワード・ポリシー」の経済的側面に関する苦い批判だった。これらの部族には武器以外引き渡せるものはない。これらの数丁を奪い取るために一か月を要し、多くの人命と数千ポンドが費やされたのである。それは過去最悪の取引だった。「辺境部族の完全な軍縮」が明白な政策である、と人々はぺらぺら話している。そのような結果が最も望ましいことは間違いない。しかし、それを叶えるのはスズメバチの群れに刺された針を裸の指で摘出するのと同じくらい苦痛で退屈な仕事である。

 

ライフルの引き渡しの後、協約の議論はスムーズに進んだ。完全なジルガが部族からキャンプへ送られ、徐々に明確な合意が得られるようになった。部族民は自らが被った損失を嘆いた。なぜ、サーカーは彼らのところに来てあんなひどいことをしたのか?なぜ、とディーン少佐は答えた、彼らは和平を破ってキャンプを攻撃したのか?部族の長老たちは、すべての共同体の慣習に従って「若い男たち」を非難した。悪を行ったのは彼らである、と言い放った。全員が処罰された。最終的に明確な協約が合意された。そして批准のために同月11日に全体のダルバー(*現地語で会見)が設定された。

 

こうしてその日、午後の一時頃マムンド族を代表する大きなジルガが、カル、ジャー、ナワガイのカーンに伴われて、キャンプから約半マイル離れたナワ・キラ村に到着した。三時、ビンドン・ブラッド卿、主任政務担当官のディーン少佐/副政務担当官のデイビス氏/司令部スタッフの大部分、および他の数人の将校がガイド騎兵隊に護衛されてダルバーに向かった。到着時に将軍は友好的なカーンと握手を交わして彼らをとても喜ばせ、用意された席に着いた。部族民が正方形の三辺に座っていた。友好的なカーンたちは郎党とともに左側に座っていた。マムンド・ジルガは他の二辺に詰め込まれていた。ビンドン・ブラッド卿は左にディーン少佐を伴い、部下の将校を周りに置いて四番目の辺を占めた。

 

そしてマムンド族は正式に降伏を申し出た。彼らはその行動に深い後悔を表明し、ふりかかった不幸を嘆いた。自分たちは併合を恐れて戦っただけであると断言した。ウムラ・カーンの信奉者を谷から追放することに同意した。まだ引き渡していないライフルについて保証した。そして彼らは厳しい罰に苦しんで服従したので、サーカーは罰金もこれ以上の刑罰も科さないことが告げられた。これには彼らも喜びの色を見せた。全部族民が協約を遵守し、和平を保つことを手を挙げて誓って十五分間のダルバーは終わった。そして解散となった。

 

戦闘でマムンド族が被った損失については350人の死亡が確認され、その他におそらく700―800人の負傷者がいた。そのため丘の村はすべて負傷者で混み合っていた。この推測は越境してきた部族民の犠牲者を含んでおらず、それはおそらくかなりのものだったが、それに関して信頼できる情報を得ることはできなかった。ビンドン・ブラッド卿は負傷者に対する医療援助を申し出たが、これは辞退された。彼らにはその動機が理解できず、策略を恐れたのである。消毒薬や麻酔薬なしのこの哀れな男たちがどれだけ苦しんだかは、考えるのも恐ろしいことである。しかし恐らく自然の女神はその代わりとして激しい気質と山々のすばらしい空気を与えたのだろう。

 

このようにして、マムンド渓谷のエピソードは終わった。12日の朝、最後の軍隊がイナヤット・キラのキャンプから移動し、兵士、砲、輸送動物の長い列がカルの平原をゆっくりとたなびいて行った。部族民は丘に集まって敵の出発を見ていた。その光景を彼らがどんなに喜んだとしても、谷に目を向けたなら、その感情は消え去ってしまったことだろう。一つの塔も、一つの砦も見えなかった。村は破壊されていた。作物は踏みにじられていた。大量の死傷者を出して、冬が近づいていた。撤退する縦隊を追いかける挑戦的な射撃はなかった。獰猛なマムンド族は戦争にうんざりしていた。

 

兵士たちは行軍して去ったが、彼らもまた完全に勝利したとは思えなかっただろう。一か月間、彼らはイナヤット・キラに留まって、絶えず戦っていた。マムンド族は壊滅させられた。帝国の権力は主張されたが、代償は重かった。1200人を超えたことのない戦闘部隊において31人の将校と251人の兵士が死傷したのである。

 

マムンド渓谷でのジェフリーズ将軍の旅団の死傷者は以下のとおり:―

 

  英国の将校  ・・・・死亡、または負傷により死亡  7

         ・・・・負傷・・・・  17

  英国の兵士  ・・・・死亡・・・・   7

         ・・・・負傷・・・・  41

  現地将校   ・・・・死亡・・・・   0

         ・・・・負傷・・・・   7

  現地兵士   ・・・・死亡・・・・  48

         ・・・・負傷・・・・ 147

  その他       ・・・・      8

                 ―――――――――

              合計・・・・ 282

 

  馬とラバ・・・・ 150

 

この犠牲者リストが長くなった主な原因は、すでに書いたように、アフガニスタンの国境が近いことだった。しかし、マムンド渓谷の人々の勇気、戦術、射撃の名声を否定するのは不公平で不寛容なことである。彼らは非常に良くそれに値したのである。どれくらいの期間かは不確かだが、彼らは野蛮主義の見通しの効かない暗がりの中で争い、戦ってきた。やがて彼らは文明と衝突し、文明は―科学的な戦争の凄まじい光が暴いた、憎むべき悪を記録せざるを得なかったが―彼らが勇敢で好戦的な人種であることを認めるのに吝かではないだろう。その名前は、この忙しい世紀においてさえ数年間兵士の心の中に留まるだろう。またイングランドにはそれを決して忘れない家族がいる。しかし、おそらく丘の中腹にむっつりと座って、その居住地の廃墟をじっと見つめている部族民はこれらすべてを理解していなかった。または仮に理解していたとしても、英印政府と終局したことをまだ後悔していた。彼らにとって名声は高くついた。確かに「栄光ほど高価なものはない」というのは私たちも言われてきたことである。

 

軍隊は12日夜、ジャーでキャンプした。そして翌日にはサラルザイ渓谷をマタシャに移動した。ここに彼らはほぼ一週間留まった。マムンドへの罰に怯えたこの部族は、組織立った(*regular)抵抗はしなかった。ただ何人かの熱血の「狙撃手」が毎晩定期的に(*regularly)キャンプに発砲した。数頭の馬とラバが撃たれ、ガイド騎兵隊のスワールが負傷した。谷の遠端まで毎日送られた軍の偵察隊は何の抵抗も受けず、部族のジルガは引き渡すことを命じられたライフルを集めるためにあらゆる努力をした。19日までに全てが引き渡され、20日に軍隊はジャーに戻った。そこでビンドン・ブラッド卿はウトマン・ケル族の降伏を受けた。彼らは要求された武器を持参し、マラカンドとチャクダラを攻撃した賠償としての罰金を支払った。

 

まだ戦闘気分だった兵士たちは、とても平和的な大成功をもたらした政治交渉を焦れながら見ていた。

 

クライヴ卿とクライヴ卿の後のすべてのインド軍司令官は野戦部隊に文官を付ける慣行を痛烈に批判している。彼らは軍事作戦を妨害し、将軍に干渉することで計画に優柔不断の精神を吹き込むと言われており、またそれはしばしば真実である。マラカンド野戦軍の政務担当官は常に軍の仲間に個人としては人気があったが、多くがその職務上の行動を批判され、その存在に難色を示されていた。遠征における文官の義務は、二つある。一つ目は交渉、二つ目は情報収集である。これらの義務のうちの前者は絶対になくてはならないものと思われる。部族民の難しい言語と独特の性質は終生の研究対象である。現地の事情、カーンの力と影響力/または人々の他の支配者/国の歴史と伝統についての全体的な知識は完全に専門化されなければならない仕事である。部族民が抵抗している間は荒っぽく手っ取り早い方法が優れているが、彼らが服従することを切望しているときは他の何かが必要である。現地人と政府の間のすべての問題を理解し、争いのすべての詳細を理解し、両者の観点をある程度認識できる人物が必要である。私はそのようなものが軍隊の中で見つかるとは思わない。最も有能で完成された人物が献身するのは軍の専門職だけで十分である。

 

これに加えてイナヤット・キラで友好的な監視隊が「狙撃手」を追い払ったとき第2旅団がどれだけ静かな夜を過ごしたか/どれだけ多くの新鮮な卵とスイカが調達されたか、その地域においてどれだけ容易に手紙とメッセージが運ばれたかを私は忘れることはできない。[私は先進の特派員だったため、パンジコラの電信事務所に報道電文を送る際に常にこの手段を利用した。ルートは敵地の二十マイルを通過し、これらのメッセージは決して届かなかったことがなく、何度かは公式のディスパッチや回光通信されたニュースより先に到着した。同様の働きによって、9月30日のアグラへの攻撃で殺された大佐オブライエン中佐とブラウン・クレイトン中佐の遺体は安全に速やかに埋葬のためマラカンドに送られた。]これは文官であるデイビス氏とガンナー氏が非常に難しい環境の下で維持した、実際に我々と戦わなかった部族民との関係を通じて成し遂げられたことである。

 

第二の義務については、敵の数と意図に関する情報の収集が、騎兵隊の諜報部門より良く、より適切に実行されるとは信じ難い。将軍がどのような種類の軍事情報を求めているかを文官が理解していることを期待してはならない。それは彼らの仕事ではない。デイビス氏がナワガイでの大夜襲について最も正確な情報を入手して、ビンドン・ブラッド卿に十分な警告を発したことは承知している。しかし一方で16日の戦闘に先立ってマムンド族についての利用可能な情報が乏しかったことは、その日に被った深刻な損失の主な原因である。他にも絶え間なくイナヤット・キラに対する夜襲の噂があったため、毎週約三回は全軍がブーツを履いたまま寝た。文官は外交任務を遂行し、将校は戦争を遂行すべきである。そして情報の収集は軍事上の最も重要な任務の一つである。私たちのパシュトゥーン人セポイ、諜報部門、そして意欲的な騎兵隊は、将軍がその計画に使用するために必要なすべての真実を入手するだろう。少なくともこのように責任を明確に割り振ることができる。

 

しかし、ある点においては私には疑う余地がない。政務担当官は作戦を指揮する将軍の監督下になければならない。「国家の中の国家」があってはならない。野戦軍を指揮できるのは一人の人物だけである。そしてその中のすべては彼の職権の下になければならない。政務担当官が、時にその決定に戦争の勝敗と兵士の命が直結している将軍に相談や報告をすることなく、いつでも部族民と協議する権限を持つのであれば、食い違いが起こって困難を生み出し、悲劇を巻き起こすだろう。

 

遠征が続く間は戦争のすべての危険を冒し、それが終わると野蛮な人々の間でその性質を研究し、その気性を観察するために自分の命を同様の危険に晒して生きる、そうした勇敢な人々の感情を傷つけることなくこのテーマを議論することは難しい。私はそれが終わったことをうれしく思っている。

 

旅団のバジャウル滞在中、アフリディ・セポイの間でいくつか数件の脱走事件があった。あるとき歩哨に出ていた第24パンジャブ歩兵隊の五人の兵士が一団になって離脱し、武器を持ったままティラとカイバル峠に向かって出発したのである。私はアフリディとパシュトゥーン人兵士の武勇と言動のいくつかの実例を記録しているので、勲章の取り消しくらいで済ますのが適当ではないかと思う。帝国の臣民民族のキャラクターや、私たちが多くを依存している現地人兵士のキャラクターに興味がある読者は、おそらくパシュトゥーン族とシーク族を題材とするやや長い余談を許して下さるだろう。

 

アフリディとパシュトゥーン人兵士を十把ひとからげに裏切り者で信用ならないと断言する人々は、これらの人々が非常に奇妙で間違った立場に置かれていることを忘れてはならない。彼らはその同郷人や同じ宗教を信じる人々と戦うことを要求されている。一方には狂信、愛国心、自然な結びつきのすべての力が蓄積されている。他方には軍事連合があるだけである。忠誠の誓いを破るのは間違いなく重大なことであるが、それより神聖ではないとは言えない他の義務もある。誓いを尊重することは、個人が社会に負う義務である。それでも、兄弟を絞首台に送る証言をする者がいるだろうか。自然のつながりは古く、他のすべての人間の法律よりも優先される。パシュトゥーン人がその友である同郷人を抑圧するために連れてこられ、抑圧を見つめるだけに留まったとしても、彼は自分がバーク(*エドモンド)の次の言葉の立場にいることに気づくであろう。「道徳は戸惑い、理性はよろめき、本性は恐怖して後ずさりする。」(*Morality is perplexed, reason staggered, and from which affrighted nature recoils.親子がお互いの処刑を要求したフランス革命に対する批判)

 

辺境にはこのことに思い至り、アフリディのジレンマに同情する多くの人々がいる。長い経験と相当な名声を持ち、戦闘で何度もシークとアフリディの両方を指揮してきたガイド歩兵隊の将校は次のように書いている:「個人的には、私たちが侵略した今、彼らが脱走して自分の故郷を守ろうとしたことを責めるつもりはない。彼らがそうすることを望んだのはただ自然で適切なことと思う。」

 

このような意見は、このテーマについて語る資格がある数多くの将校の典型的な見解と思われる。彼らの命はいつでもその問題に依存しているのである。

 

シーク隊は進軍の守護者である。それは元々パシュトゥーンと戦うために創り出された。その宗教がマホメダニズムと正反対となるように設計されたのである。これは賢明な政策だった。狂信が狂信と対峙した。宗教的嫌悪が人種的憎悪に追加された。パシュトゥーンの侵略者は山に撃退され、シークはラホールとペシャワルに定住した。強いコントラストと相当な敵意が今日も残っている。シークは腰まで髪を伸ばす/パシュトゥーンは頭を剃る。シークは飲みたいものを飲む/パシュトゥーンは禁酒家である。シークは死後に火葬される/パシュトゥーンがこれをすると天国へ行けなくなる。兵士としてのパシュトゥーンは射撃がうまく、丈夫で、特に丘の斜面を良く進軍し、そして恐らくそれ以上に素晴らしい闘士である。彼らは教育よりも本能に頼っている。その血の中に戦争がある:生まれながらの射撃手であるが/汚く、怠け者で、浪費家である。

 

シークにはより文明的な人物がいる。思いのままに撃つのではなく/忍耐強い練習によって学習する。パシュトゥーンほどタフではないが―レスリング、ランニング、水泳などの―力業を楽しむ。とても清潔な兵士であり、より注意深い。しばしば極度の倹約家であり、常につつましく、通常パシュトゥーンと同様の食事を摂ることはない。[実際にいくつかの連隊では非常に痩せたシークの給与は食物の形で支払われており、将校は彼らが太って強くなるまで注意深く監視しなければならないとされている。]

 

シークはライバルが落胆し、失望するような状況下では戦い続けるが、ライバルが元気なほど根気がなくなると言う人々がいる。その主張は事実によって裏づけられない。1895年、バッチェ中佐がパンジコラ川の近くで殺され、ガイド隊が強く圧迫されたとき、アフリディ中隊のサバダーは同胞に向かって叫んだ。「さあ、それでは、ガイド隊のアフリディの皆、指揮官が殺された。今が突撃の時だ!」英国の将校はこの衝動的な兵士たちがその持ち場を離れ、確実な死に向かって突き進んで行くのを抑えるのに大変な苦労をした。この話はタマイ(*スーダン)の戦闘での有名な騎兵大佐の言葉を思い起こさせる。方陣が破れたように見え、そして興奮して混乱した特派員が戦隊のもとに全速力で荒々しく駆け寄り、すべてが失われたと告げた。「すべてが失われた」とはどういう意味か。第10軽騎兵隊がここにいるのが見えないのか?」世界には他の人々が成功から得るのと同じように、災害や破滅の接近から断固とした喜びを得る人々がいる。そして他の人々が勝利の中にあるときよりも、その人々が敗北の中にいるときの方が堂々としている。そのような精神は間違いなくアフリディとパシュトゥーンの中に見受けられる。

 

この議論を締めくくるにあたり、多くの戦闘を経験した年老いたグルカのサバダーの意見を引用したいと思う。彼によれば、自分はシークのほうが好きだったが、すぐにピンチのときにはインドのどの種族よりもアフリディの兵士といるようになった、とのこと。どちらも女王陛下の兵士であると思うのは心地よいことである。

 

マラカンド野戦軍にはグルカはいなかったが、これらの邪悪な小さな兵士に言及せずにインドの戦闘民族を考えることは不可能である。見た目は青銅色の日本人のようである。小さくて活発で獰猛で、幅広い顔でいつも陽気に歯を見せて笑っている。彼らはパシュトゥーンの気力とシークの規律を兼ね備えている。彼らはすべての金銭を食物に費やし、宗教、飲酒、喫煙、英国のように宣誓にこだわったりはしない。英国兵は―彼らが思う―「ニガー」の種族の中では、彼らに最も好感を持っている。彼らは純粋な傭兵である。そして危険を歓迎する一方で遠征の長期化を嫌い、妻と平時の大きな肉料理の元に戻ることを等しく熱望している。

 

ウトマン・ケル族に協約を順守するように促した後、旅団はパンジコラ川を再び渡り、連絡線を楽な行程で行軍してマラカンドに戻った。ガイド隊は再びマルダンの宿営地に帰り着き、たちまち戦時から平時に戻った。ティラ遠征に参加する機会を逃したことにひどく失望したバフ隊は、マラカンドの駐屯地に残った。アフリディ族に対する作戦の発令を待ち受け、またブナヴァル族に対する遠征が必要な場合に備えて、ジャララ近辺にかなりの戦力が維持された。

 

ここで私たちはマラカンド野戦軍から離れる。しかし、その物語の書かれていない一章がまだ残っているかもしれない。またこの野戦軍を構成している素晴らしい連隊が、信頼する指揮官の下で、別の機会に偉大な戦争ゲームをプレイするかもしれない。もしそうであれば読者には、この記事で私に物語を続けさせるか、それともこの仕事を別の手に委ねるかを決めていただかなければならない。[マムンド渓谷とバジャウル全域での作戦が独自のクラスプによって記念されていないことは、軍における名誉と褒賞の授与方法が気まぐれででたらめであることの良い例である。旅団が被った損失は紛れもなく最も深刻なものだった。結果は上首尾だった。軍隊の行動は公式に称賛されている。しかし、私が過去八章で説明したすべての激しい戦いに参加した兵士たちは特別に鋳造されたクラスプの対象から除外された。彼らは一発の銃声も聞かなかった数千人の辺境の兵士と同じ、一般的なクラスプを受け取ることになったのである。]

 

 

第十七章:軍事的観察

 

   「・・・そして、あなたは語られました

    出撃と撤退について、塹壕、テントについて、

    矢来、最前線、胸壁について、

    真鍮銃について、カノン砲、カルバリン砲について。」

            「ヘンリー四世」 第一部・第二幕・第3場

 

輸送―野営―攻撃―退却―ダムダム弾―大砲の使用―信号―軍事的問題―短期勤務―若い兵士―兵士の勇気

 

軍に関わりのない多くの人々に読まれるべき本がある程度の成功を収めようとするなら、一章を完全に軍事的考察に費やすことは一見、不適切かもしれない。しかし私は近年、博識になりたがっている人々が皆、すべての他人の仕事の表面的な知識を持ちたがっていることを忘れていない。グラッドストン氏が「時代における軍国的精神の高まり」と呼ぶものにも励まされて、専門用語を避けながらも、辺境戦争の純粋に専門的な観点からのしばしの一瞥が一般的な関心事になることを私は願っている。私の観察は私が述べた戦域に当てはまるものと捉えられるべきであるが、その多くが辺境全体に当てはまることを私は疑わない。

 

最初の最も重要な考慮事項は輸送である。これがどれだけ重大な事かは、自分の目で見ない限り、誰も実感することができない。半個歩兵大隊に護衛された一マイル半以上のラクダの護送隊を見たときの驚きを私はよく思い出す。私はそれが一個旅団のたった二日間の物資に過ぎない、と教えられた。人々はあちらへこちらへと移動する縦隊のことを、まるでそれがその土地を行軍し、ただ単に敵とどこで出会おうとも戦わなければならない、兵士の移動グループであるかのように軽々しく話している。そして軍隊がその後ろに、固定基地と安全に結ばれるための前進兵站部、宿場、休養キャンプ、連絡線の長い鎖を苦しみながら引きずっている、重々しい集団であることはほとんど理解されていない。車輪の通行が不可能なこの地方の谷では、物資輸送の困難とコストは莫大である/そして現地調達は全く、あるいはほとんどできないため、その考慮は最重要事項である。多くの理由でラバ輸送はラクダ輸送よりも優れている。ラバはより速く動き、より困難な地面を通過できる。またそれは、より丈夫で良い健康状態を保つ。ビンドン・ブラッド卿はモーマンドへの前進を開始するとき、第2旅団にラバを完全装備した。これによって機動力が上がり、必要とされるあらゆる急速な移動が可能になった。その二つ―ラクダとラバを混ぜると双方の短所が結びついて互いの長所を消してしまうようである。

 

私はすでにインドの軍事キャンプと、それなしでは辺境の完全な夜とは言えない「狙撃」について説明した。そこで専門的過ぎると思ったので前回は省略した、二つのポイントにだけ触れよう。夜間の射撃はときに、より深刻な攻撃や、実際の急襲や、剣の突進に変化することがあるため、敵の方向に塹壕の溝を掘ることが推奨される。近代的な武器があったとしても、最後に頼りになるのは銃剣であり、そのとき高地にいることの利益は小さいものではない。

 

砲兵隊がキャンプ周りのラインの一部を形成するとき、砲の間には歩兵を配置するべきである。砲兵士官はこれを好まない/彼らは非常に良い仲間だが、いくつかの事柄だけは譲歩してはならない。誰もが自分の武器の力を過大評価しがちである。

 

マムンド渓谷ではすべての戦闘は村を占領することで起こった。村々は山のくぼみの中の、岩だらけの凸凹した地面にあって、機敏なライフル射手の群れに守られていた。素早く動き回る敵への一斉射撃はほとんど役に立たないことがわかった。部族民たちは岩から岩へと疾走し、体を晒すのはほんの一瞬だけだった。そして分隊が彼らに注意を向け、ライフルで狙いをつける前に、チャンスと標的は消えていた。より良い結果が得られたのは上手な射手を選び、チャンスがあれば命令を待たずに射撃する許可を与える方法だった。しかし全体的に言えば、有利に陣取った敵に応射されて時間を稼がれるだけの銃撃に多くの時間を浪費せず、歩兵は銃剣攻撃で突き進むべきである。

 

村の奪取と破壊の後、軍隊は常にキャンプに戻らなければならず、てったいが必要だった。現代のライフルで武装した、数多くの活発な敵の面前でそうした作戦を実行するのはとても困難なことだった。私は後方中隊でその撤退を目撃する機会が六回あった。五回は幸運、一回は悲惨だったが全てに損失が、そして経験豊富な将校が私に告げたように、危険が伴った。弾が誰にも当たらない限りすべては上首尾だが、数人の兵士が負傷するとたちまち困難が始まる。その地点―小丘、穀物の畑、岩、その他の土地の付属物―を立ち去るなら、それはすぐに敵に奪われる。いくらか密集隊形で退却する中隊に彼らは優れたライフルでよく狙いをつけ、二、三人を殺傷する。今日、文明国の戦争ではこうした負傷者は地面に放置され、翌日の交渉で取り扱いを決められる。しかし、いかなる慈悲も求められたり与えられたりしない辺境では、負傷者を運び去ることは神聖な義務である。また、すべての連隊がその死者を運び去る奮闘的努力も同じである。部族民たちがその手に落ちたすべての遺体に加える下劣で忌まわしい損壊、およびそれらを晒すことによる侮辱行為は、非哲学的な精神に死の恐怖を追加する。さて負傷者を運び去るには少なくとも四人の兵士が必要であって、より多くが必要になることも頻繁である。結果を見てみよう。誰かが撃たれるということは銃撃ラインから五丁のライフルが引き抜かれることを意味する。十人の兵士が撃たれたなら、戦闘力に関する限り、中隊を計算から除外しなければならない。目ざとい敵が押し込んでくる。負傷者を抱えた兵士のグループは素晴らしい標的である。目下、後衛が負傷者に煩わされている。するとそこへ剣による猛烈な突撃が押し寄せてくる。こうして大惨事が発生する。

 

あちこちの連隊でいくつかの出来事の進行を見ていて、私はこうした困難を避けるためのいくつかの方法を目撃した。辺境戦争に長い間携わってきた、熟練のガイド隊は最も価値あるインストラクターだった。すべての地点は手放した途端、敵に奪取されるため、各中隊から二人か三人の兵士を後に残して、すべての退却を隠さなければならない。彼らは活発に銃撃を続ける。そして全中隊が新しい陣を敷くか、それに近くなったときに、駆け寄って合流するのである。加えて、撤退中のある中隊の銃火は常に別の中隊を援護するように配置されている必要がある。そして退却中に発砲を停止することがあってはならない。援護する中隊は後方中隊が動き始める前に実際に位置についていて、すぐに発砲する必要がある。9月18日のガイド歩兵隊の退却に私は特に感心させられた。敵に強力に圧迫される中でこれらの原則が高い技術で徹底して実行され、負傷したのはわずか一兵だけだったのである。指揮官キャンベル少佐が取った、互いの退却を十字銃火で援護しながら二本の支脈を降下するという有利な方法は、軍事的展開というより複雑なチェスの問題に似ていた。

 

新しいダムダム弾―非公式に“ek―dum”[ヒンドゥスタン語で「直ちに」]弾と呼ばれている―を搭載した新しいリー・メトフォード・ライフルの威力は途方もないものである。一度使えば兵士はその武器を最大限に信頼するようになる。それは500ヤードまで非常に真っ直ぐに発射される、専門的に言えば平坦な弾道を持っているため、距離の判断に困難はない。このことには最大の価値がある。弾について言えばその阻止能は望みうる限り最大のものだろう。ダムダム弾は爆発しないが、膨張するのである。リー・メトフォードの最初の弾丸は底に開口部(*雷管)を持つ、ニッケル筒で覆われた鉛の小弾だった。改善された弾丸ではこの外筒は後方に移動している。底部の穴が少し小さくなり、先端の鉛が露出したままになっている。結果は素晴らしいものである。また専門的観点から見るなら美しい機械である。骨に当たると弾丸が「セットアップ」し、すなわち拡がり出て、その前にあるものすべてを破り裂き、胴では概ね致命傷になり、四肢では切断が必要な傷になる。大陸の批判者はそのような弾丸がジュネーブまたはサンクトペテルブルク条約の違反ではないかと尋ねた/しかしこれらの国際協定の条項は膨張弾を禁止しておらず、このテーマに関する唯一の規定は特定のサイズ未満の破裂弾を使用してはならないというものである。弾丸は本来殺すことを目的としており、この弾丸は撃たれた者に通常の様々な鉛弾以上の痛みを与えることなく、最も効果的にその義務を果たすと私は見ている。敵が戦闘の進行中にリー・メトフォード・ライフルとダムダム弾薬を手に入れたため、後者の点に関する情報が手近にある。感覚はあらゆる弾丸によって生じるものに似ていると言われている。猛烈な麻痺の一撃に続き、負傷と脱力の感覚があるが、その時点での実際の痛みはほとんどない。確かに今日では回復の期間を除いて、傷による多大な痛みに苦しむ不幸な兵士は非常に少ない。兵士が撃たれる。四分の一時間で、つまりショックが消えて痛みが始まる前に、彼は通常包帯所にいる。ここでモルヒネを注射され、すべての感覚が均一に鈍化する。この状態でクロロホルム麻酔されて手術を受けるのである。

 

将校の服装を兵士と同じにすることの必要性は、作戦を見たすべての人の目に明らかだった。現地兵士のターバンに対してヘルメットをかぶったイギリス人将校の姿は目立ち、良く狙いをつけた銃火をその方向に引き寄せた。もちろんイギリスの連隊では違いはそれほど顕著ではない。それにもかかわらず鋭い目を持つ部族民は近距離では常に将校を特別な標的としていた。私が思うに、主に将校はライフルを持っていないという事実によって区別していたのだろう。次の逸話はこれがいかに明白なことだったかを示しているのかもしれない:―

 

バフ隊がパンジコラ川に向かって行軍しているとき、救援にやってきた王立西ケント隊とイナヤット・キラで行き会った。新しく来た連隊の兵士がバフ隊の友人に前線はどうだったかを尋ねた。「ああ」友人は答えた「将校と白い石の近くに行きさえしなければ大丈夫だよ。」アドバイスが実行されたかどうかは記録が残っていないが、それは確かに本当だった。三日後―9月30日―アグラ村で交戦した王立西ケント連隊の中隊では十一人の将校のうち八人に弾丸が当たったか、かすっていた。

 

山岳戦争で軍隊が経験する疲労は非常に大きいため、兵士の負荷を軽減するためにあらゆる努力を払わなければならない。一方で、兵士はより多くの弾薬を身につけて運ぶことが望ましい。弾薬筒箱を積んだラバは撃たれて敵の手に落ちる可能性が非常に高い。私が撤退を記録したシークの二個中隊は9月16日にそうして6000発以上を失った。

 

イギリスの歩兵の厚い革ベルト、ポーチ、背嚢装備は不必要に重い。多くの将校がそれを織物で作ることを提案するのを聞いたことがある。これに反対する言い分は、織物はすり減るというもの

である。基地にこれらの装備を大量に供給し、古い装備が使用に耐えなくなったらすぐに新しいものを支給することでその異議に対処できる。兵士をすり減らすよりベルトをすり減らす方が安くつくはずである。

 

兵士が戦野に持って行けるチョコレート、小さなソーセージ、または携帯可能で栄養価の高いものを与えることに多大な努力がなされるべきである。行軍が長く、運命が不確実で、しばしば撤退が遅れ、常に圧迫されていた戦争において、連隊や中隊が図らずも一晩中食料なしで野宿しなければならない機会が多かった。胃袋が世界を支配していることを思い出してみるのは良いことである。

 

集中砲撃の原理はヨーロッパで長い間認められてきた。ビンドン・ブラッド卿は、インドの山岳戦にそれを適用した最初の将軍である。以前は砲を二、三門使用するのが慣例だった。これまで見てきたようにランダカイの戦闘でマラカンド野戦軍は十八門の砲を持っており、そのうち十二門が一列に並んでいた。非常な大戦力で優れた陣を敷いていた敵をこの砲の火力がそこから追い払った。歩兵攻撃はほとんど損失なく成し遂げられ、人命の犠牲は百人でも少なかったところを、一ダースで成功が得られた。

 

この後、マムンド渓谷ではほとんど砲による攻撃が行われなかったと言えば奇妙に思えるかもしれない。しかし、それは事実である。マムンド族は取るに足らない部族であるが、岩の中に家を建てる/凸凹の地面にいる狙撃手に対して、砲はほとんど何もできない。砲の煙のパフが破裂弾の接近を彼らに知らせるときはいつでも、双眼鏡で敵が岩の後ろに避難するのが見えた。おそらく無煙火薬はこれに待ったをかけただろう。しかしいずれにせよ、砲が向けられたのは非常に悪い標的だった。

 

それは実際には敵を殺すためではなく、敵に特定の支脈や小丘を占領させないために役立った。9月30日、王立西ケント隊と第31パンジャブ歩兵隊がかなりの圧力の下で撤退したとき、英国山岳砲兵隊は敵から700ヤード以内に移動し、退却線を見渡す高地へ榴散弾の急速な射撃を開始した。そしてそこにいた部族民を殺し、その仲間が丘に登ることを絶対的に禁じたのである。

 

山の中でのあらゆる後衛戦闘において、砲の使用は不可欠である。二門の砲でさえ丘の中腹の峰や岩場から歩兵が脱出するのを大いに支援し、適時の砲弾によって味方が撤退した地点を部族民が直ちに占領するのを防ぐ。けれども砲を出し惜しむ理由もないのであって、可能であれば少なくとも二個砲兵隊が旅団の攻撃に同行するのが良い。

 

回光通信による信号伝達は、作戦全体を通じて最大の価値を持っていた。私は電報通信につながっている信号局の半永久的なラインの優位性を常に認識していたが、そのような複雑な装置を戦闘中に使用することの実行可能性に疑いを持つようになった。太陽が常に輝いているこの炎熱の国では、ヘリオグラフは常に役に立つ。丘が奪われとすぐに准将との通信が確立され、攻撃が進行中であってもメッセージを迅速かつ明確に送信するのに困難はないように見えた。馬でも移動できるが遅くて骨が折れる、渓谷に頻繁に分断されるこの土地では、それは最も確実で、最も速く、実際に相互通信の唯一の手段である。私はこのことを証言できることを喜んでいる。なぜなら以前馬鹿にしていたからである。

 

私は歩兵と大砲に触れた。前章はほぼ完全に騎兵に捧げられたが、私は再び馬と槍に戻りたいという欲求に抗うことができない。騎兵の武器としての剣や槍の問題は長い間議論されてきており、最新の経験を持つ人々の見解について考えてみることは興味深いかもしれない。槍の使用を目撃する機会はなかったが、ガイド隊と第11ベンガル槍騎兵隊の両方の多くの将校の意見を聞いた。全員が槍はこの戦争に有利な武器であることを認め、あるいは主張した。確実かつ便利に殺すことができ、騎手が切り倒される危険性が少ない。長さに関しては一般的な意見は短槍を支持しているようである。これは、尻にカウンターバランスを備えており、リーチが良好であり、近接した場所でより便利である。辺境で最も著名な騎兵将校の一人であるビートソン少佐は、これを強く支持している。槍旗を結び付けるか、先端の下約十八インチにある種の鋲を取り付ける必要がある。これを行わないと槍が深く刺さりすぎることがあり、その両方が壊れると敵が身をくねらせて近寄り、槍騎兵を攻撃したりすることがある。このことは実際に何度か起こった。

 

さて、どの程度まで戦隊を槍で武装させるべきかという質問を検討する際、ガイド隊が採用したシステムは興味深いかもしれない。この戦争では騎兵が下馬してカービン銃を使うことが度々必要になった。槍は邪魔になるので鞍に縛りつけておかなければならない。時間がかかるため、騎兵が小競り合いしている時には通常、これに費やす時間はあまりない。ガイド隊は四人に一人の兵士に槍を持たせることで問題と折り合いをつけた。この兵士は他の兵士たちが下馬したときも鞍に留まって全員の馬を守る。また、各槍騎兵戦隊の外翼も担当するが、これも教練書が命じる通り、騎乗したままである。しかし、話が専門的になりすぎたかもしれない。

 

合同の戦術に少し触れる。辺境戦争では摂理は優れたバンド・オ・バスト(*band―o―bust)[手はず]の側にある。舞台効果も大きな機会もない。山に入ったときと同じく高い名声に包まれて山を離れる准将は、自分が有能で賢明な人物であることを証明したのである。すべての「ダッシュ(*突進、衝突、罵り)」を避け、戦いを求めて一日を始めることはなく、いかなる明確な意図も持たず、英雄的な偉業も試みず、時計に目を向ける将軍の元には犠牲者と栄光は少ない。敵にとっては過ちを犯すまでは恐ろしくない。流血のない軍事作戦を信じない大衆は注意を払わないかもしれない。配下の将校たちは戦闘がなかったことに不平を言うかもしれない。しかし義務を巧みに果たし、人命を守ったことに思いを巡らせるなら、彼は大いに報われることだろう。

 

辺境戦争の全体的な再調査は、その土地を知り、地域を知っていて、より速く動き、より良く射撃できる活動的で積極的な敵と戦う場合、通常の軍隊が大きな不利に晒されることを示しているのではないだろうか。スワット渓谷の部族民が被った恐ろしい損失は、開けた場所では訓練された軍隊が最も勇敢な野蛮人をいかに簡単に掃討できるかということを示している。しかし、丘の斜面ではすべてが変化し、観察者は近代的兵器の強さではなく弱さに驚く。大胆なライフル射手が個人として兵士よりも優れていて、最大の疲労に耐え得るならば、その行く手を遮ることはできなくとも、常に損害を与えることができる。

 

キューバでスペイン人が直面している軍事的問題は多くの点でアフガニスタンの渓谷に見られるものと似ている。道がなく、出鱈目で未発達の国/いかなる戦略的重要地点もなく/優れた機動性を持ち、近代的ライフルで十分に武装してゲリラ戦術を採る敵。結果はどちらの場合も、軍隊は敵を捕まえる以外、どこへでも行き、何でもできるということある/そして、そのすべての行動には必ず損失を伴う。

 

部族を征服するという問題を純粋に軍事的な観点から見るなら、時間が問題にならず、長期にわたる作戦が本国の政策の変更によって中断される危険がないのであれば、司令官は部族民が攻撃してくるよう仕向けるべきである。この点において私は発言をスワットとバジャウルの平底の谷に限定しなければならない。マムンド族のような部族を威圧するため、混成旅団は谷の入り口でキャンプするのである。そしてイナヤット・キラのように塹壕を掘って非常に強力に防御する。部族民は丘を離れようとしないため、騎兵隊は毎日全く安全に谷をパトロールできる。作物の播種と農作業はすべて停止される。現地人は夜キャンプに発砲して報復するだろう。これにより損失が発生する/しかし、誰もが眠るのに良い穴を掘り、将校が日没前に夕食をとるようにし、日没後に勤務外で歩き回ることを禁じた場合、損失が深刻になる理由はない。やがて、彼らの谷の占領に激怒し、恐らく食料不足と冬の接近により捨て鉢になった部族民は、キャンプを襲撃するための途方もない企てをするだろう。強力な塹壕、突進を断ち切る仕掛け線、そして近代的ライフルで、彼らは大虐殺とともに撃退される。そして一度厳しく罰せられたなら、おそらく協約を請うだろう。そうでない場合、彼らがそうするまでプロセスを継続するのである。

 

そのような軍事政策は先に私が記した強健な方法と同じくらいの費用がかかる。利用される部隊の数はより少なくなるだろうが、彼らは動員されたまま、より長い期間、戦野に留まらなければならない。しかし人員の損失ははるかに少ないだろう。この方法の良い成功の例はナワガイでのビンドン・ブラッド卿の戦術である。彼は自軍が敵を攻撃するには弱すぎたため、敵を攻撃して来るように仕向け、そして大変な損失とともに討ち払ったのである。

 

私たちが今到達した点から、今日のより大きな軍事的問題を手早く、さっとではあるが一瞥するのは、おそらく望ましいことではないが、可能である。私たちはここ数年、「短期勤務」システムを採用している。それは大陸のシステムである。それには多くの欠点がある。その下で集められた軍隊は若さ、訓練の不足、連隊同士の提携の欠如に苦しんでいる。しかし大陸ではこれに一つの卓越した長所がある:膨大な数が提供されるのである。現役の軍隊は単に兵士を迅速に製造して予備軍に渡し、それが必要になるまで蓄えておくための装置にすぎない。欧州諸国は兵士を量だけで論じている。必ずしも高い水準の勇気と訓練を求められないが、致命的な兵器で武装した兵士の巨大な軍隊が、さまざまな戦略的条件の下で、お互いに向けられている。数千人が虐殺され、大きな戦闘に勝ったり負けたりした後に、彼らは立ち直る。おそらく二つの国の勇気の平均値が決まったのだろう。大陸システムの本質は、その巨大な規模である。

 

私たちはこのシステムの一点以外をすべて取り入れているが、その一点が重要なのである。私たちには量が多くはなく、質が劣っているのである。短期勤務システムによって数がほんの少し増やされ、水準がかなり低下させられたのである。大陸の要件に非常によく適合しているこのシステムが私たちに利点を与えない理由は明らかである。私たちの軍隊の募集は志願制だからである。短期勤務と徴兵は切り離せない。このため数人の断固たる軍人が徴兵を提唱している。しかしイギリス人がそうした自由の剥奪、またはそのような商業への足枷を甘受するまでには多くの言葉が語られ、多くの投票がなされ、多くの強打が加えられなければならない。そうした犠牲が払われるのは、イギリス海峡が干上がってしまってからのことだろう。

 

徴兵制なしには私たちは大きな数を持つことはできない。したがって、私たちは持っているものの質を最高にする努力をしなければならない/そして私たちの状況と必要がこの見解を強化する。私たちの兵士には大人数の戦いは求められないが、非常に頻繁に白兵戦が要求される。その遠征は温暖な気候の文明国での戦いではない。彼らは海を越えてアフリカやインドの辺境に送られ、そこで暑い太陽の下で、そして疫病の多い土地で、強健な野蛮人との独特の戦闘に従事している。彼らはその任務に十分な年齢ではない。

 

若くともその優れた武器と支配民族の威信によって、彼らは現地軍に対する優位を維持することができる。たしかに今回の戦争では重要ではない、取るに足りない、いくつかの事件が発生した。それは事実である。しかし帝国の利益のためには便宜的に忘れたほうが良い。現地兵の多くはイギリス兵よりも十歳年上である。その多くは軍務に就き、銃火をかいくぐっている。そのいくらかはメダルを持っている。もちろん、全員が自然条件に慣れている。彼らがどれだけ多くの利点を享受しているかは明らかである。また、彼らが自分たちの方が優れていると思い込んだ場合、結果がどれほど深刻なものになるかは明らかである。そうした仮定ですら、インドにおける私たちの存在そのものへの脅威になる可能性がある。真価(*Intrinsic merit)を持っていることが、その属国に対する支配民族であるための唯一の資格である。もし私たちがこれに失敗したのであれば、私たちの精神が古くて弱くなったからではなく、兵士が若く、まだ強くなっていないからである。

 

二十一歳や二十二歳の少年たちが、円熟して人生の最盛期にある三十歳のシークやグルカと同等の条件で競争することを期待されている。不公平なテストである。彼らがなんとか持ちこたえているということは、私たちの民族の活力の素晴らしい証である。試みは危険であり、費用もかかる。私たちはそれを続けている。イギリス軍がいつか再び大陸戦争に参加するという考えを今なお胸に秘めているからである。英国の人々が、自らの小さな軍隊が大陸の無数の軍隊の間で粉砕されて倒れるのを許すほど愚かだったなら、彼らには避けようもなくふりかかる、全ての不幸がふさわしいだろう。

 

私はこれらの主張が独創的でも目新しいものでもないことを知っている。単に整理しただけである。私はまた国家の職務に一生を捧げた有能で立派な人々の中にも、私が引用した見解と相容れない人々がいることを知っている。この問題はインド人の観点から考えられてきた。おそらく五歳年上の部下を率いてイギリスの連隊を指揮したがるインド人大佐はいないだろう。このテーマに関するインド人の意見は偏った情報のみに基づいていて、現地の環境によって歪められている可能性がある。それでも私は、軍がジュビリー行進と辺境戦争のみならず、庶民院で示される評価においても同時にそうした傑出した地位を占めているのならば、国民一般の考えを甘受することは正しいと思っている。

 

具象から抽象に移るなら、非常に多くの勇敢な行為を記録している本書の中に、兵士が自らを大きな危険に晒し、その中に留まった動機の本質に関する簡単な問いが含まれることは不適切ではないだろう。戦争の環境には神経を揺るがすあらゆる要素が含まれている。弾丸の口笛/多くの野蛮な敵の叫び声と怒鳴り声/血に覆われ、時には痛みに泣き叫ぶ負傷者の哀れな様相/死が歩みを進めている場所を示す、全ての側面のホコリの噴出―これらが兵士を襲う光景と音であって、発育と教育によって彼らはその重要性を完全に認識しているのである。それでも、兵士の勇気は最も共通の美徳である。全住民から無作為に選ばれた何千人もの兵士たちが、自己保存の本能を抑制することが知られている。この勇気も特定の国に特有のものではない。勇気は一般的なものであるだけでなく、全世界的なものである。しかし多くの人が所有していると思われるこの美徳について、全ての人が最高のものを持っている、というのは人生の明らかな矛盾である。不幸なことではあるが、臆病者として晒されることを恐れない人はおそらくいない。なぜこの一般的なものが貴重なのだろうか?どう説明できるのだろうか?

 

こういうことではないだろうか。兵士の勇気は実際には肉体的な害の軽視や危険に対する無関心ではない。これらの心的傾向を装う試みは多かれ少なかれ成功している。ほとんどの兵士は良い俳優になることを目指している。俳優とは全く思えないほど完璧な人々もいる。これはその他の人々が努力して目指している理想である。これが実現されるのは非常にまれなことである。

 

準備、虚栄心、感情という三つの主要な力が結びついて兵士の企てを支援する。最初のものは規律と訓練のすべての力を含んでいる。兵士は何年もの間、銃火をかいくぐる可能性について考えてきた。それはどのような経験だろう、と漠然と思っていた。それをくぐり抜けて無事に戻った多くの人々を見た。その好奇心はそそられている。そして今、その機会が訪れている。道路と鉄道によって彼は日ごと現場に近づいている。その心はその前途に慣れ親しむようになる。仲間も同じ状況にある。彼は習慣に順応する。その背後には環境の持つ力が隠れている。ついにその時がやって来る。彼は遠くで煙のパフが吐き出されるのを観察する。空中の音に耳を傾ける。多分何かのドシンという打撃音を聞き、近くの兵士が撃たれたキジのように倒れるのを見る。次は自分の番かもと思う。恐怖がその喉を固く握る。

 

そのとき、非常に多くの美徳を促進する悪徳である虚栄心が自らを主張する。彼はその仲間を、仲間は彼を見る。これまでのところ自分は弱さの兆候を見せていない。彼は考える、仲間は自分を勇敢だと思っている。心から切望する名声がその眼前に輝いている。そして彼は受けた命令を実行するのである。

 

しかしヒーローになるにはまだ別のものが必要である。さらなる困難な試練とさらに厳しい苦難が降りかかることによって彼を手助けしなければならない。最後に違いを生むのは感情である。疑う人は夜にキャンプの焚火に出向いて兵士の歌を聞いてみると良い。誰もが自分が気高く尊いと考える、あるいは必要な時に至れば自分をこの世から引き上げてくれる何ものかにすがっている。おそらく自分は古い血筋、そして常に死に方を知っている民族の出であることを覚えていることによって/あるいは、おそらくもっと小さく、もっと親密なもの/連隊が「ゴードン」、「バフ」、「女王陛下の」、何と呼ばれようと、そうした名前―単なる大隊の非公式の名前に過ぎないが―をとても大事にすることによって偉業が成し遂げられ、名誉と英国民の帝国が維持されるのである。

 

名前の問題に関しては、連隊に短い名前をつけることの利点は知っておいた方がいいだろう。誰もがマチアス中佐のゴードン隊へのスピーチを覚えているはずである。(*同年のティラ遠征でのもの"Highlanders, the General says the position is to be taken at all costs. The Gordons will take it."ハイランダーズ諸君、将軍はどんな犠牲を払ってもここを取らなければならないと仰っている。ゴードンズはやるぞ。)一部の連隊に向けたスピーチが領土システムの途方もない肩書を負わされていることをちょっと想像してみると良い。たとえば、キプリング氏の有名な連隊「ホーエンツォレルン―シグマリンゲン―アンスパッハ王女のマーサーティ・ドビルシャーの王立軽歩兵隊」。古い連隊ができた頃はすべて同様に名付けられていたのである。

 

これはおそらく血も涙もない章だった。私たちは自らの家と丘のために戦って攻撃目標にされた部族民/単なる戦争の浪費物として殺傷された人々を標的にしてきたのである。どうすれば勇気という高貴な美徳を大量生産できるかを知ろうとして、私たちはその分析さえも試みた。

 

哲学者は残念がるかも知れず、慈善家は痛みに嘆き悲しむかもしれない。人間の系統的な(*scientific、科学的)な破壊に多くの人の注意が向けられるべきであると/しかしビジネスライクな時代の現実的な人々は―天使ではなく―人間の世界に住んでいることを忘れていない。そして、それに相応しい行動をとるのである。

 

 

第十八章:そして最後に・・・辺境の謎

 

   「私は若いころ、しばしば博士と聖人の元に熱心に通い、

    あれについて、そしてこれについて

    大いなる議論を聞いたものだ/

    しかし、いつも入ったときと同じドアから出てきた。」

                    ウマル・ハイヤーム

 

さまざまな小さな事件を書き綴った本書はこれまで、こうした事件が発生する原因となった大きな問題をほとんど取り扱ってこなかった。冒頭の章はその本に含まれている考察を読者に予期させるべきであり、結びは通読によって読者に生じたであろう見解を言い表しているべきである。先に辺境政策の問題についての議論を控えたとき、私はその検討をより好都合な時機まで延期するだけだと宣言した。今がその時である。この件に関して私の意見が年齢や経験によって裏打ちされていないことを言い募る人物がいないことを望んでいる。そういう人に私は答える、もし書かれたことが虚偽だったり愚かなことだったりすれば、年齢も経験もそれを支援することはできない/そしてもしそれが本当のことであれば、そうした支援は必要ない。ユークリッドの定理は乳児や白痴によって提起されたとしても争う余地がない。

 

昔話の漁師が、思いがけず解き放った魔人が瓶の中から煙の雲になって立ち上り、空全体に広がるのを眺めたように、研究者は広漠とした疑問が広がってゆくのを見る。問題は刻々と広がってゆくだけではなく、深まってゆくように見える。軍事的、経済的、政治的、道徳的なすべての頭脳の下に集められる可能性のある、多様でしばしば対立する多数の事実を振り返り、適切に理解するために必要とされる専門的および技術的知識の蓄積を思うなら、その全体は人間の知性と記憶の限界を超えていると私は確信する。そのような問題について広い視野を持つことは難しく、一般化することは危険である。まして多くの人々が思い違いをしているように、それを名言や警句で片付けるということはなおさら不可能である。その行き着く先は細部と全体のバランスとの関係が全く失われてしまった地点である。それはすべてを見るためには遥か彼方に立つ必要があり、そうしなければ色や形の見分けがつかないほどの巨大なサイズの絵画である。絶えず視点を変えることによって、いくらかの真実の見通しが可能になる。それでも心の鏡の不完全性によって概念がねじ曲げられ歪曲されないことはない。

 

課題の大きさに思いを致し、自分自身の弱さを意識しつつ、私は慎重な調査と寛容の精神で現在の「フォワード・ポリシー」を検討し、そこからこの政策が単なるその答えの推測に過ぎない、主要な問題に接近したいと思う。

 

イギリスの力がインド平原を征服し、その君主たちを鎮圧し、ヒマラヤ山脈のふもとで立ち止まって、その疲れを知らないエネルギーを国内の進歩と発展に向けた時代に私は戻らなければならない。「山のライン」(*山岳地帯の手前を意味している)は海が境界を定めるのと同様に、明白で分かりやすい辺境を形成した。南にはインドの大英帝国があった/北には好戦的で野蛮で、近寄り難く度し難い部族民がいた/そしてそのはるか向こうに、アジアの別の巨大な力が横たわっていた。

 

英印の政治家の知恵は、非常に多くの決定的要素と、非常に多くの平和が保証されている状態を長い間維持してきた。狂信に駆られたり、略奪に誘惑されたりした北部の野蛮人が山を降りて平野に侵入したとき、彼らは互角の勇気と優れた規律に出会い、算を乱して元の領域に追い返された。しかし、これでは抑止力として不十分であることが判明したため、純粋に防御的な原則は懲罰的遠征システムに修正されなければならなかった。しかしこれは「肉屋とボルト」(*Butcher and Bolt.性交渉の後すぐに他の行動のために立ち去ること、butcher:虐殺者、bolt:逃げ出す)政策として嘲笑された。

 

徐々に状況が変化するにつれて、彼らに対処する方法が変化した。懲罰的な遠征は部族民の激しい敵意を呼び起こした。インド政府はロシアの陰謀をしばらく警戒しながら見守っていた。国境が「無住の地」のままである限り、それは「大きな溝の固定」だったので全ては良好だった/しかし、いずれかの権力が最大になるのであれば、それはロシアやアフガニスタンであってはならない。[「私たちは初めてインド政府の職務に就いたその日から、いかなる代償を支払ってでも、この僻遠の地における、他のいかなる勢力の政治的優位の確立をも阻止することを考えなければならない。」―インド政府から国務大臣への手紙、No.49、1879年2月28日]この地域でロシアの影響力が卓越するなら、彼らは思いのままにインドを侵略する力を持つことになり、その成功の可能性はここで議論するまでもない。アフガニスタンの影響力が卓越するならアミールがその場の支配者となり、いついつまでもインド政府を脅迫することが可能になるだろう。古い辺境ラインからの脱却という政策の変更は力を増して責任ある人々の前に到来した。今日、私たちはその変更によって生じた弊害を見ている。それを引き起こした危険は修正された。

 

前進を支持する意見は数年でインド政権内に着実に高まった。1876年に決定的な一歩が踏み出された。アミールがパシュトゥーン人に対する宗主権を獲得しようとしたことに激昂して、リットン卿の政府は、カシミアを介してチトラルに手を伸ばした。その国のメータルは名目上カシミアのマハラジャの臣下になったが、実際には帝国政府の臣下になった。公言された目的は、結局のところヒンドゥークシュの通路の効果的な支配権の確保だった。[1877年6月11日ディスパッチNo.17]ビーコンズフィールド公(*ベンジャミン・ディズレーリ)の有名なイギリス内閣はこの行動を承認し、その政策を承認した。1879年、総督政府は再び公式ディスパッチで「カシミアの支配者を通じて、ヒンドゥークシュの通路を効果的に支配できる政治的、軍事的取り決めをする力」を獲得する意思を宣言した。1879年2月28日ディスパッチNo.49]「もし」とディスパッチは続ける。「私たちがこの国に対する私たちの影響力を拡大し、徐々に強化して(斜体にしたのは私である)、私たちが山岳地帯のこちら側、すなわちインダス川水系内への外国の干渉がありえないと確信できたなら、私たちは明瞭で分かりやすく、尊重される可能性が高い、辺境の自然な境界線を引いたことになる。」[1879年2月28日ディスパッチNo.49]

 

これほどはっきりした政策、あるいは意図の宣言はなかっただろう。「私たちの影響力を拡大し、強化する」という言葉は、野蛮な人々にとって、究極的に併合以外の意味を持たない。こうして長い間人々の心中で熟成し、数多くの小さな緊急事態や便法によって形づくられ、下書きされてきた、インドの平原から山岳地域への進出の計画が明確に宣言された。前進が始まった。リポン卿の総督府が終了した後、新鮮で強力な衝撃が伝わってきた。'84年と'85年のロシアの辺境政策の特徴であるむき出しの侵略(*アフガニスタンのパンジェ紛争:1885年、ロシア軍は、英国保護下のアフガニスタン北西部のパンジェに入った。しかし戦闘は小規模に留まり、ロシアの外交官がロシア帝国はこの地域にこれ以上侵入しないことを保証したため、大規模戦闘には至らなかった。)、は当然ながら、怠惰な国益への無関心と、無頓着に出迎えられた。そして大事には至らなかった。しかし実際には痛い目に遭っていた可能性もあった。卿の後継者たちが、自分をその時代の愚行や失策から切り離そうとするのは当然のことだった。反発的な精神が由緒ある不干渉政策の最終的な放棄を導いた。「山のライン」に代わって、今やその通路を保有しなければならない、という主張がなされた。これがいわゆる「フォワード・ポリシー」である。ギルギット、チトラル、ジェララバード、カンダハールといった―辺境を獲得することを目的とした政策である。

 

その方針に従って、私たちは多くの辺境砦を構築し、道路を建設し、地域を併合し、国境の部族とより親密な関係を築くようになった。その政策で最も顕著な事件はチトラルの保有である。この行為を部族民は自らの独立への脅威と見なし、そして聖職者は全体の併合への序章と見なした。彼らが間違っていたわけでもない。それは「フォワード・ポリシー」の公認された目的だからである。すでに述べたようにチトラル保有の結果、文明がその権威を弱体化することを知っている聖職者たちが、自らの人々への宗教的影響力を利用して、全体的な蜂起を煽ったのである。

 

チトラルの問題を単独で議論することは無意味である。「フォワード・ポリシー」が正当化される場合、その論理的な結果であるチトラルの併合も正当化される。枝道と本筋は共に立つか、共に倒れるかである。

 

ここまでのところ私たちは前進し、抵抗されてきた。「フォワード・ポリシー」は領土の増加をもたらし、おそらくより良い辺境ラインと―戦争への―より近い道筋をもたらした。これはすべて予想されていたはずである。現在の体制は平和の可能性を排除していると言えるかもしれない。悪名高く情熱的で無謀で好戦的な民族の真っ只中に孤立した駐屯地がつくられた。これは挑戦状である。それが部族民によって襲われたとき、救援と懲罰的遠征が必要になる。これはすべて公認された政策の結果であって、それを開始した人々は疑いなく予見していたはずのものである。要塞が不適切に構築されていることは奇妙と言えるかもしれない―マラカンド基地は狭苦しく/チャクダラは見渡されていて/サラガリには側面防御がなく/カイバルには適切な守備隊がいない。これは副次的な問題であって、偶然の産物である。残りの状況は故意に作られている。

 

国境部族間の巨大な連合の可能性は確かに考慮されていなかった。彼らは距離に隔てられ、派閥に隔てられているため、逐一対処できると思われていた。この点において私たちは誤りを悟らされた。

 

いずれにせよ「フォワード・ポリシー」の最初の必然的な帰結だったその戦争と混乱の期間には混乱があって、費用がかかったことは間違いない。経済的な観点から見るなら、辺境渓谷の取引において、秩序を維持するための軍事費は、英貨の一シリングでさえ決して支払われることはない。私たちの勢力圏が彼らの存在圏と衝突することは、間違いなく部族民にとって不幸なことである。軍事的な問題、純粋に専門的な問題、前進した辺境ラインが望ましいかどうかについてでさえ、意見は分かれている。ロバーツ卿(*アフガン戦争に功績のあった前インド軍最高司令官)はあることを言っており/モーリー氏(*ジョン、自由党)は違うことを言っている。

 

「フォワード・ポリシー」に反対する議論がないわけではない。その開始に反対した多くの人がいる。今もそれに反対する人はたくさんいる/何ものもインド政府を自然の辺境ラインの向こうへと誘惑したことはないと考え、彼らが言った通りにしていれば、それは実際的で哲学的だっただろう、と主張し続ける人々である:「インドの平野全体に私たちの法を布くのである。そこに私たちの知事と治安判事を置くのである/私たちの言葉は重んじられ、私たちの法は守られるだろう。しかし海の波のように大地が立ち上がるこの地域は、敵とライバルを私たちから隔離する嵐の海峡として機能するだろう。」

 

しかし、過去の論争に携わることは無駄である。現在のもので十分であり、私たちが関わっているのは現在なのである。

 

私たちはルビコン川を渡ったのである。この問題について最もよく知っているすべての人々の意見によれば、今では前進は撤回できない。確かに国境部族の激しい敵意、アミールの不確かな態度、さらなるロシアの侵略の可能性、インドが受ける印象を考慮するなら、この判断に異議を唱えることは困難である。明確、かつ防御可能な辺境を見つけることの必要性を歴代のインド政府は力説し、歴代の英国内閣は認めている。古いラインは残されていて、そのラインとアフガンの領土に接続する前進ラインの間、そしてその南側すべてを、法と秩序に従わせなければならないわけである。そこにはいかなる平和的で恒久的な解決の見込みもないように思われる。

 

私たちをこの立場に置いた責任は、「山のライン」を保持するという古い国境政策を最初に捨てた人々にある。公平なペンとより完全な知識を持つ未来の歴史家は、彼らの行動は賢明だったと断言するはずである。一方、これらの偉大な人々が同時代の人々の喝采と賞賛を受けながら、「成功した実験の満ち潮の中で」公職を離れたことも覚えておかなければならない。彼らを激しく攻撃したすべての人々について言うべきこともそれほど多くない。決定し、責任を受け入れ、行動を弁護した人々である。しかし十年前あるいは百年前のインドの統治者たちも、その後継者たちと同じように、環境に弄ばれていたのではないかという考えに私は傾いている。

 

現在の私たちの情勢に戻ろう。私たちは荒れ狂う危険な海域に乗り出したのである。事象の強い流れが引き返すことを禁じている。向こう岸に到達するのが早ければ早いほど、航海の危険と不快感は早く終わる。全員が陸に到達することを切望している。コースに関する提案は数多くある。それが不可能であると言われても戻ることに固執し、いくらも行かないうちに船を沈めてしまうだろう数人の悪質で神経質な船員がおそらくいるだろうが、数で勝ることはない。彼らが事態を遅れさせている間に、潮流はより波が高くより岩が多い上陸地点に私たちを運んでいくのである。

 

「全力前進」と呼びかけ、リスクを問わず一気に航海を達成しようとする人物もいる。しかし悲しいかな!船には石炭が不足している。そして変化する風に対して帆を広げることができ、好都合な潮流を利用できるだけであり、波が高いときには停止する必要がある。

 

しかし賢明な乗客は航海の難しさと海の危険性を知りながらも、操舵手に本来の不変のコースを守るよう、フェアに頼むだろう。嵐や事故が引き起こす遅延がどうあれ、船の船首は一貫して遥かな港に向けられていなければならない。そして何が起こったとしても、この船はいつかどこかに漂着するのを期待して、目的もなくあちらこちらと漂流することは許されない、と彼は道理と正義に拠って主張するだろう。

 

「全力前進」の方法が間違いなく最も望ましいだろう。これは軍事的視点である。主張されているように良い野戦軍を動員し、余裕があるときに辺境の渓谷で、そこがハイドパークと同じぐらい安全になり、文明化されるまで作戦するのである。このコースは必ずしも住民の根絶を伴う必要はない。軍事ルールは部族民の性格と理解力に最も適したルールである。彼らはすぐに抵抗が無益なことを理解し、安定した政府による富と快適さの増加を徐々に歓迎するようになるだろう。加えて我々はほぼ即座に明確な辺境を獲得するだろう。この計画の実際の難点はただ一つだけである。しかし、それは圧倒的なものである。そしてそれは「フォワード・ポリシー」全体に反対する最も深刻な議論の構成要素になっている。これである:我々はそれを実行するための軍隊もお金も持っていない。

 

避けられない代替案が現在のシステムであり、戦争によって中断され、それが終わった時にまたそこに戻らなければならないシステムである/段階的な前進、部族間の政治的術策、助成金と小さな遠征のシステムである。

 

この政策は時間がかかり、苦痛であり、幾分威厳を損なうが、それが確実で強力ではない理由はない。しかし、それは一貫して追求されなければならない。強力な政策を優柔不断に施行するのは、子供にダイナマイトを持たせるよりも危険なことである。内外を問わず、インドの統治者に浴びせられる正当な非難は、彼らが事実を認識しているにもかかわらず、正当な結論から尻込みしていることである。

 

彼らは後戻りできないことを知っている。完全に続けるつもりでいる。それでも彼らは、状況を認め、率直に国民の前に真相を提示し、昔ながらの民主主義の良識と勇気を信頼することを恐れている。その結果、1895年のチトラル遠征に先行したような、ばかげた不必要な声明によって自らの手を縛ってしまった。辺境部族を監視する政務担当官は、厳密な規則に則りながらも、個人の人格の力によって威信を獲得すること、個性を均一性と組み合わせることを期待されている。そしてこの臆病さは、時にカイバル砦の放棄のような哀しく愚かな行動につながってしまう。

 

しかしすべての困難と過失にもかかわらず、そこには着実な進歩がある。それは多くの小さな改革によって加速され、より容易になるだろう。この細部の問題は専門家の領域に非常に近いので、私は列挙したり、論じたりするつもりはない。中でも、平時の通常の任務において政務担当官にもっと幅広い権限を与えるべきであるということが提唱されている。部族民に彼らが見ているものがサーカーの全兵力ではないという事実を印象づけるため、軍隊が時々デモ行進をすることを提唱している人々もいる。大胆な人々は若いパシュトゥーン人を取り込み、ローマ人の習慣に従って彼らをインドで教育することを示唆した。しかし、これはキリスト教の時代よりは古典の時代にふさわしいもののように思われる。

 

人々と国々を広く見渡してみると、銀は鋼よりも良い武器のようである。助成金制度は部族との関係を改善し、その利権を法と秩序の側に参加させ、富を増すことによって野蛮さを減ずる傾向がある。武器の供給に関しては、政府は買い手として市場に参入し、代理人を雇って部族民より高値をつけさせた方が兵士を雇うよりも安上がりだろう。水が低きに流れる如く、経済の法則は確実に商品を落札者に手渡すのである。この戦争には他にも間違いなく多くの教訓がある。それはイギリス人の力や勇気の及ぶ限りの、それでも長くて辛い仕事を軽くするかもしれない。

 

私たちはいま過渡期にあり、終了の手法も契機も見えない。しかし絶望してはならない。私にはアフガンの渓谷がしばしば完全に丘に囲まれていて、出口がないように見えたことがある。しかし縦隊が進むにつれて徐々に峠道が見え始め、峠が現れるのである。険しくて困難な時もあれば、敵に掌握されていて強行突破しなければならなかった時もあるが、抜け道のない谷は見たことがない。危険を知る人々の確固とした、しかし用心深い歩調とともに進むなら、私たちは最終的にその道を見つけるだろう/しかし問題が起こったときには、その技能と規律に思いを致して、それに対処する彼らの能力を疑わないようにしよう。そのような精神で、別れの一瞥とともに私はこのテーマから離れることにしたい。

 

私が語ってきた、そして他の人々が語るであろう/大辺境戦争の記事を読んで今日、単に勇敢な兵士と苦労して稼いだ金銭の損失を嘆くだけの人々が大勢いるに違いない。しかし、将来のある時代において歴史に確かな光を当て、状況全体、その原因、結果、および機会を検討する人物は、おそらく同様に深刻ではあっても、より悲しくはない別の意見を持つだろう。1897年は民族のより高い運命に対するその信念を全世界に宣言した年としてイギリス人の年代記に刻まれた。ワインの泡が弾け、灯火が輝く饗宴において強者がその武勇を誇るのであれば、寒い明け方に自分が怠惰なほらふきではないことを見せる機会があるのは良いことである。より広い知識とより発達した頭脳を持ったいまだ生まれぬ判定者は、最近起こった出来事の中に、人類の種の進歩を方向づけ、諸帝国の興廃を調整する、そして少なくともそう言われても差し支えない人々に人類に幸福、学び、自由をつけ加える機会を与えた不思議な力の働きを見出すことだろう。

 

 

 

                          完

 

 

 

2020.10.2